本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。
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「佐藤卿彦先生遺稿遺影集」の「自感法について」という遺稿を見ても、御啓示を受け止めるのがいかに難しいかよくわかる。自感法も他感法も神人合一して神の御啓示を戴くという点に於ては、方法の違いはあれども通ずる處がある。
他感法では、その受け止めた御啓示を「口を切る」ことで言葉として発するわけだが、そもそも受け止められなければ何も始まらない。そこで日々の鎮魂法が大事だという事になる。勿論時間のかかるものだが、地道に薄絹を重ねてゆくように鍛えてゆく必要がある。
記紀では、他感法による公式幽斎は仲哀天皇と神功皇后の御代まで明確な記載はない。神武天皇から崇神天皇までは、神感法と自感法によって神界の御啓示を受けていたようだ。
後に他感法による公式幽斎が必要になった理由だが、それは三種の神器の内の二つを宮中から伊勢に移したことに関係がある気がする。つまり鎮魂の器械が手元に無くなったために、天皇の「神界に通ずる力」が弱くなったのだろう。故に転霊を担当する琴師、そして幽斎の場を監督する審神者が必要になったのだと思う。
そして時は流れ明治の世になって、本田翁は神界に通ずる神器として鎮魂石を用意したのだと思う。
