「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

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『宮城島氏については、いろいろな評価がある。氏と神道三穂教会についてはICU博士研究員・並木英子氏の調査が参考になるだろう。詳しくは「本田霊学: その思想の創造と行法の受容についての研究」(国際基督教大学 大学院、アーツ・サイエンス研究科提出博士論文。2020年)、及び「神道三穂教会における宮城島金作の鎮魂帰神法」(講演録2022年)を参照されたい。

並木氏によれば、
神道三穂教会は、神道本局(教名:神道)所属管轄下にあった駿河国三宮御穂神社の祭神、三穂津彦命(大己貴命)三穂津姫命をまつる崇敬教会として活動していた。教会神主・宮城島金作(号:宇宙)(明治 6年〜大正10年)(1873~1921)、第ニ世主・宮城島信夫(明治33~?)(1900~?)、教会長・神道本局権中教正龍爪山穂積神社祠官高田潤作(1845~1919)。

『宮城島金作は、鹿児島県国学局国学掛・霊学神道家本多九郎親徳(文政5年~明治22年)(1822~1889)の提唱する本田霊学を本田親徳の駿河門人で御穂神社祠官長澤雄楯より授けられた。特に帰神法を得意とし、御穂神社の祭神や記紀神話に登場する神々による託宣と病気平癒の禁厭法、教会製造の生薬の販売により人を集めた。
信徒は、御穂神社の崇敬地域である三保半島周辺の静岡県安倍郡、庵原郡、蒲原郡の住民だけでなく、焼津、浜松、横浜、大阪に及んだ。明治 36 年(1903)に静岡市街に分教会を設立し、衆議院松本君平、静岡茶葉の卸業者、花柳界の妓楼経営者、料亭、飲食店経営者に勢力をのばした。』(並木英子氏の論文)

『「宮城島金作経歴」[M403](年代不明)によれば、金作8歳の時に源作の妻の折檻に耐えかねて、入水自殺を試みたが助け出され、霊能力が発揮されるようになったという。9歳の時に長澤雄楯を訪ねてきた、本田親徳と妻子に遭遇し、本田親徳に見出される形で、鎮魂帰神法の稽古を始めたとするとある。』(並木英子氏の論文)

宮城島氏は9歳(明治15年1882年)の時に本田翁の指導の元、鎮魂帰神法の修業を始めたという。しかしその時点では未だ長沢翁は本田翁に出会っていない(両者が対面し師弟関係を結んだのは明治18年)。故にこの記述の信憑性は低いと言えよう。この点について並木氏の「確かでない」という見解には同意する。
鈴木重道氏によれば、入門したのは宮城島氏が明治24~25年頃、15~16才だそうなので、以下の年代も確かかどうかわからない。