「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

**********************************

 

『(イ)不二見村三輪の茶屋
本田・長沢両傑の出会い〔註一〕は明治十八年春と比定せられる。場所は単に不二見村三輪の茶屋と伝えられている。併し不二見村というのは神神社の所在地には無く安倍郡にあり、現在の月見里神社の鎮座地即ち長沢雄楯の居住地であるが、三輪の茶屋と云うのは志太郡岡部町三輪の里の街道筋にあったという事から全く昏乱したのであった。

併し私の得た調査に依れば、本田親徳の静岡に来ったのは明治十五年一月であり、その時静岡本通りに寄寓し諸方面に教を布いた。神神社に参拝して三輪武と逢ったのはこの年と思われる。併し決して一処に逗留したのではなく、東京にも戻り又駿河伊豆地方にも巡講している。そして十六年十二月に奈良原繁が県令として着任する。従って或日に同藩士であったと云う事で会ったらしく、奈良原はその学識に感じて静岡浅間神社に於て講筳を開くをすすめたと思われる。奈良原繁は幕末有名な生麦事件に英人を斬った奈良原喜左エ門の弟で、薩藩士の中でも聞えた蛮勇の士であったが、静岡県令の任期は短く翌年十七年九月末に転任して工部大書記官に補されている。従ってこの県令とはさして親交あった訳でもなく、静岡に於ける生活費等は殆ど三輪武が主として世話したと伝えられている。

当時静岡浅間神社には中教院があった関係上、静岡附近を始め焼津近辺に至る神主や社家の人々にも講義して居り、その関係にて三輪武が最初の門下となり、その招請によって静岡本通りの寓居を引払って三輪に逗留し、ここから静岡浅間神社にも赴き霊学に志す者達に講義し、特に浅間三社中大歳御祖神社にて帰神術の指導もした。か様な訳であるから静岡逗留時代からその名声と独特の学理は長沢の知る処であったのであり、本田親徳が三輪より浅間神社に出講し、又招かれて清水の御穂神社等に赴いた際不二見村にて長沢雄楯と初会見したのである。(当時御穂神社社司は未だ御歌所寄人葉若清足であったか否かは未調)その場所は月見里神社から約五百米程の処にある美濃輪稲荷神社(長沢の所轄)の茶屋であったと推定される。美濃輪の茶屋は初午等には多くの茶店が出てにぎわったが、平常でも赤毛氈を敷いた一見茶店風の店があり、美濃輪の茶屋と呼ばれていた。俗称ミヤの茶屋と云われたので、三輪と混同したものと思われる。

この地方では後に本田門下の双壁として三輪武と長沢雄楯とが称されたので、且は三保清水方面に出張の際は御穂、月見里両神社にて長沢はじめ神職を指導し、又懇意であった白髭神社の稲葉家にもよく逗留したと伝えられている。即ちこの美濃輪の茶屋に於て初会見した時に長沢は二十七才。和漢洋にわたって学殖も深く且は神職として当然平田学派の神学も研究して、相当の自信を持って居たと思われますので、質疑応答は深刻を極めたものでありましょうが、伝うる処は皆この時長沢は遂 に論破することが出来ず、深く尊信畏敬して直ちに入門を乞い師礼を取ったと申します。実に潔く清々しい事であります。
〔註一〕全集の巻末年譜には明治十七年春(長沢数え年二十七才〉として居るが、満才を以て当てるのが適当であると思われる。
猶この事に関して前記の佐藤卿彦著の第一編第一章中に言及して居りますので、多少記述に重複するを顧みず殆ど全文を掲げ度い。(『本田親徳研究』)