「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

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『(一)三輪武と鈴木廣道
本田親徳全集の巻末記に掲載した年譜には、静岡県岡部町三輪の神神社に淹留したのは前に明治十三年(1880)、後は明治十七年はじめに比定している。併し十三年は根拠は薄く、重要な後の場合は前年十月己に静岡に来ていますが、十二月に来任した県令奈良原繁と逢いその奨めに応じて静岡に講筳を聞いたことに由るのでありますが、奈良原県令は九ヶ月余りにて転任したので、充分に志を果し得なかったと思われますが、当時非常な権限を持つ県令が推した神道家として県下の神職には影響を与えたと思われ、教えを請う者が続出したと考えられます。本田霊学の後継者としてこの章に掲げた長沢雄楯も十八年の春には入門致して居るので、三輪武が入門したのは十七年新春〔註一〕でなかったかと思われる。


〔註一〕長沢雄楯が本田親徳に師事したのは二十七才と伝えられている。(佐藤卿彦述〉満年とすれば明治十八年(1885)三月となり、数え年なれば前年となる。全集の年譜は数え年説をとり十七年とした。併し三輪淹留を約一年半とすれば十八年頃から清水市方面にも招かれて布教し、長沢入門の後清水に赴いた時は御穂神社稲葉宅などに逗留したとすることの方がよい様である。

この静岡県志多郡岡部町の三輪の里に鎮座する神神社は由緒古く、遠く平安時代に大和国大神神社の分霊を奉じて三輪氏の祖先が東下し、この地に奉斎したので、現宮司家(三輪氏)は崇神天皇の御代神教により大神神社に奉仕せしめられた大田田根子の末商と伝えている。三輪武は嘉永二年十二月二十八日の生れであって大正元年十月十六日六十二才で逝去しているが、明治十七~十八年頃は宮司で三十四、五才であったので、浅間神社の講筳に参じて本田親徳に深く傾倒し、招いて教を受けたと思われます。この淹留一年半の間三輪武〔註二〕は殆ど起居を共にして居たのですから、上達も目覚ましく法術の允可を得たと伝えられています。三輪に淹留前後の事に関して佐藤卿彦著〔註三〕「鎮魂法帰神術の神法」の中に次の様に述べて居ります。
〔註二〕 神神社現宮司三輪和夫談。
〔註三〕 昭和三十九年五月十五日印刷仝十八日発行・非売品・著者佐藤卿彦・編輯発行者高窪良誠・発行所 顕神本会

本田翁は神術御修業の為、諸国の各神社霊場等に足を止められたが、中々に気に入られる神懸りの出来る社等は尠なかった由である。静岡県志多郡岡部町の神神社に於て、帰神を執行されし時、初めて真の帰神を得て、「今日は真に気持よき神懸りをなした」と仰せられて喜ばれたと云う。此の故に神の大神を敬いその御神徳を慕いて三輪家に止まり、御修業と教導とに尽力された。この神神社の御祭神は大物主神を奉祀されている。』(『本田親徳研究』)