「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。
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ところで、これ程本田霊学に造詣があった副島翁は、当時周囲からどのように思われていたのだろうか。「副島種臣と明治国家」(齋藤洋子著)によれば、漢学のみならず記紀や古神道つまり本田霊学についても非常に高い評価を得ていた事が窺える。
宮内権少書記官だった小河一敏(幕末富前岡藩における勤皇運動の先駆者)が、明治8年5月岩倉具視に宛てた書簡で、修史局副総裁に副島翁の就任を進言している。その前段には、翁が元老院議官就任を拒んだ一件があった。
『副島は、元老院議官就任を拒んだ理由の一つとして「段々皇国上古ノ書物熟読ナシタルニ、御国体ヲ御祖神ヨリ万世ニ御伝へノ御位ナレバ、則 当今様モ御祖神ノ御名代ナレバ、決シテ君主定律ト申ス様ノ御立方不可然、種臣モ一時ハ定律モ唱ヘタレ共、今日ハ其ノ不可ヲ発明」したと語ったという。後述するが、事実この時期の副島は、熱心に国学や神道の研究をしていた。こうした副島の知識を高く評価して、副島の修史局副総裁、または教部卿就任を強力に訴えた人物がいた。幕末豊前岡藩における勤王運動の先駆者であった小河一敏である。』(「副島種臣と明治国家」)
このような副島翁の信念が小河を感動させ、後日の岩倉具視宛の書簡に繋がったのだろう。
『当該翰中の「副島氏は兼々神祇尊崇之処、去年来は神祇道大に研究、其進歩大方ならぬ事にて、真に幽理に通し不可思議之事共不少候、此義は迚(とて)も筆紙に難申上候」との記述は、下野後の副島の動向を示す貴重な史料である。副島は、霊学研究者本田親徳と親交を持ち、「国学に就ては本田翁の訓へを受け」、「又た鎮魂と帰神の伝を受け、実地に就ても随分翁の指導を受けて研究修行した」とされ、九年には本田が審判者になって帰神を修したというから、小河のいう「真に幽断に通し不可思議之事共不少候」とは、副島が本田霊学を研究していたことを指していると推測される』(「副島種臣と明治国家」)
『右書翰には、小河が副島を推薦する理由が、これまでよりも明確に綴られている。「古事記」や「日本書紀」では、初代天皇は神武天皇とされているが、小河は瓊瓊杵尊を初代と考えていた。そして書翰中で、副島もまた瓊瓊杵尊を初代と考えていると語っている。確かに副島は「蒼海窓閑話」の中で、「五世親尽ト云フ事アレトモ非ナリ。若五世親尽トセハ天倫ノ道滅裂シテ尽ルナリ。何則瓊々杵尊ヨリ御当代ニ至ル迄幾十百世ナルヤ」、「瓊々杵尊巳下御歴代ノ帝祖ノ廟社末タ朝廷建ルアラサル者、是朝廷ノ闕典ト云ハサルヲ得ス」と語っている。こうした言葉は、瓊々杵尊が初代であるという前提に立っていることを反映したものである。また、『日本書紀』は神功皇后を第十五代天皇としているが、徳川光圀が編纂した『大日本史』では皇位から除いている。小河はこれにも異を唱えており、副島もまた「光圀卿之大罪」と断じていた。』(「副島種臣と明治国家」)