「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

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『帰朝後の副島は十二年四月一等侍講に任ぜられ、十三年辞意を表したが勅語を賜わり慰留せられる。十四年は勲一等に叙せられ、十七年は伯爵を授けられ、十九年は宮中顧問官に任ぜられた。二十一年枢密院顧問官。二十四年枢密院副議長。二十五年は内務大臣に任ぜられたが程なく辞して再び顧問官。かくして三十八年一月三十一日歿した。七十八才である。この様に国家の元勲として天皇の側近にあって輝かしい一生を終ったのであるが、その詩文と書は共に天下に著名であったけれども、その霊学に就いては知る者甚だ限られていたのは何より残念であったと思われる。

副島が本格的に本田親徳に師事して道を問い、鎮魂の修業に入ったのは明治十一年清国より帰国した後であったと思われる。即ち十二月四月一等侍講に任じ屢々御下問に接するに及んで、鎮魂帰神の神法による必要を痛感して熱心に修業したことゝ思われる。それは「真道問対」が十六年十月成稿している点からも証明せられるであろう。十九年には相携えて大宮市の氷川神社に赴き、師の講義に列座し、深夜境内の神木に対って自己の鎮魂力をためしたと云い伝えられている。その頃已に悟りを得て居たと思われ、その地位と云い学殖と云い本田門下の高足として重きを為して居たと思う。恐らくは鎮魂力に勝れ、師伝の自感法にも達して神教を得るに至っていたのではあるまいか。
〔註二〕高窪良誠は両者同行を語ったが鎮魂力云々は否定していた。全集所載書簡三七八頁。 』
(『本田親徳研究』)

『侍講に就任した副島は、火曜日には天皇、木曜日には皇后にと週二日の進講を開始した。明治6年政変後は決して就官に応じようとしなかった副島も、「天皇の師」には心が動いたのだろう。君徳輔導に意欲的であった副島は、定められた進講日だけでなく、日々参内して天皇の側に控えていたいと申し出た。結果的には受け入れられなかったが、こうした副島の言動に伊藤博文は不安を抱き、岩倉に「将来の処実に杞憂を堪へず」と伝えている。(「伊藤博文関係文書」)』(「副島種臣」佐賀城本丸歴史館)

筆者の想像だが、当時副島翁は度々の就官を固辞し、本田霊学の修行と研究をしていたのだと想う。「真道問対」が明治16年であることを考えると、西南の役以前に既にかなりのレベルにあった副島翁だが、帰国後さらに研鑽を積んでいたのだろう。

その後、黒田清隆と伊藤博文が副島侍講排斥論を主張したとき、明治天皇は
『副島は、維新以来西郷大久保木戸伊知地同等の人物、当時天下人望のある処なるを以て挙げて之を用ゆ』(同書)と言って、黒田らの三度にわたる上奏を退けている。天皇が如何に副島翁を信頼していたかがよくわかる。