「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

 

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副島翁の人柄について一つエピソードがある。

『またある時、侍従長は天皇から、副島は近ごろ気分がすぐれないようだが、何かわけでもあるのかとの下問を受けた。副島家の家庭事情を知っている侍従長は、副島は友人の債務保証をして大変困っているらしいと奉答した。すると天皇は侍従長を召し、手許金から一〇万円下賜の恩命をもって、直ちに副島邸に届けるようにとの沙汰であった。侍従長は馬を駆って副島邸に使いして、勅旨を伝達し、副島は感激してありがたく拝受 した。
しかし翌日に副島は参内して天皇に謁し、恩賜の沙汰に深謝の意を表した上、あらためて辞退の意を申し出た。そして威儀を正して言上した。国父は万民を平等に愛すべきであり、側近奉仕の故をもって私のみを偏愛されるのは君徳を傷つけることになるとし、国内には天災地変多く悲惨な境遇にあるものが少くないので、その賑血(しんじゅつ)の用の足しにでもと願った。
副島の退出を見守った天皇は、しばらくして侍従を召し副島邸への急行を命じた。副島は死ぬかもしれない、朕の命だと言って差し止めよ、とのこと。侍従が副島邸にかけつけると、副島は衣服をあらため、まさに割腹し諫言の無礼を死によつて詫びようとする、間一髪のところで、未然に防がれたとされる。この秘話は、石川順「砂漠に咲く花」(私家版、一九六〇年)にあるが、田邊治通(平沼内閣の逓信大臣、昭和二十五年没) の直話という。』(「副島種臣」安岡昭男著)

なお、前段の友人とは副島翁の元書生であったため、翁の性格上無碍に断れなかったのだろう。この債務保証だが、これは後に庄内の酒井家の援助で助けられている。その縁もあり、酒井家が「南洲翁遺訓」を編纂した際.に、副島翁が序文をよせている。

明治元年の戊辰戦争において庄内藩は幕府側に立ち激しく抵抗したにもかかわらず、何故「南洲翁遺訓」を編纂するほどに、生前の西郷と深い信頼関係ができたのだろうか。


西郷を祀る南洲神社は、鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市にある。これを見ても特別な関係が窺える。庄内藩は幕末当時、最新兵器を保有し東北最強の軍事力を誇っていたという。会津藩が恭順した後も戦い続けた庄内藩も、最後まで自領に官軍の侵入を許さないまま明治元年9月に恭順する。その後西郷の働き掛けもあって極めて寛大な処置を言い渡される。その様な背景もあり、明治3年から8年にかけて、庄内藩主酒井忠篤を筆頭に旧庄内藩士達が鹿児島を訪れ、西郷から多くを学んだという。彼らはその教えをすべて書き残し、後に「南洲翁遺訓」として刊行。


前述のように、西郷は城山での死に際して副島翁への遺言を残している。それ程に西郷と深き交わりのあった副島翁の窮状を、酒井家も見過ごすことができなかったのだろう。副島翁はその後二度にわたり庄内を訪ね人々に講義をするなど、親交を深めている。