「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

 

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「副島種臣」(佐賀城本丸歴史館)によれば、
『後年大隈は、「若し伯 (副島)にして十年の役に日本に居りしならば彼の渦中に投じて奇禍に繋がれしか、或は亦西郷の挙を遮止さるヽことが出来たならん」と語っている (『佐賀新聞』明治三十八年二月七日)。』(同書)

西郷の死は、昭和に至る政治判断の過ち(日清・日露戦争、中国侵攻と太平洋戦争等)の原因の一つであったと思う。道義を重んじ、平和を愛する志をもった外交は、西郷と副島翁であれば実現できたかもしれない。それが日本外交の指針とならなかったのが残念でならない。

『副島は、西郷が城山で自刃する(九月二十四日)直前の明治十年九月十八日に「次南洲岩崎谷洞中詩韻(南洲の岩崎谷洞中の詩の韻に次す)」と題して次の漢詩を詠んでいる。

与余相別五年間  余と相い別れてより五年の間
情好不間肥薩山  情好間てず肥薩の山
取義成仁君自得  義を取り仁を成す 君 自得す
一族酎戦夜聞々  一族酷戦夜閑々
櫛風沐雨半年間  櫛風沐雨 半年の間
戎馬奔忙九国山  戎馬奔忙 九国の山
道義元存生死外  道義 元より生死の外に存す
陣中意思自安間  陣中意思 自ずから安閑たり

君と別れて五年が経った。肥前・薩摩の山に隔てられていようと、互いの友清は変わらない。君は義を取り仁を遂げようとしたのだから、満足していることだろう。夜が静かにふけていく今も、君は一族を挙げて激戦の中にある。君は半年もの間風雨に打たれて、軍馬を駆ってせわしなく九州の山を巡った。道義とは、もとより生死を超越したところにあるのだから、君は陣中にあっても、心は自ずから平安なことだろう』(同書)