「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

 

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『翁に仕へて   中島淳雄
日の経つのは早いもので、先生が逝かれてより最早二十日になる。先生自身もこの様に早く他界するとは思って居られなかった。先生は筆者に限らず訪問客には口癖のやうに、「医者に健康診断をさせた処が、身体の何処にも異常がないから今後五年は大丈夫だと云っていたので、どんなことをしても三年は身体が動くものと考へられる。今は、天皇陛下へご奉公せねばならぬ一番大切な時であるから、神職も今明年中には引いて自由の身になって国の為め最後の働きをしたい」と云ひ「支那を統治するには支那の民族教たる儒教を、日本の皇道を以て是正補修して、それを根底として支那民族を教導しなければ日支百年の共存共学は不可能である。故にその仕事をしなければならない」と云って漢籍が足りないからと買ひ集める手筈もしていられた位ひであった。この様な次第で先生自身も他界するとは思って居られなかったのである。故に筆者達は尚更のこと何時迄も生き永らへていて下さるものと考へていたのであった。


然し、今にして思ふと、今春二月初め頃筆者に先生から御自身の傳記を書いてくれと云はれたので、その当時先生から聞いたり調べたりして書留めて置いたのが、今度の略歴に役立ったのであったが、その後筆者が気乗りがせず夏を過ぎ九月になって、まだ傳記の進行を申出た時先生が言はれるのに、「もう一.二ヶ月先になったら履歴が変るからその時に書いてくれ」とのことであった。それが期せずして今度帰幽せられてから追悼號に書いた長沢翁略歴になった訳で、実に奇異の感を抱くと共に感慨無量なるものがあるのである。


顧みれば、筆者が先生に初対面して入門したのは昭和十二年の五月であった。先生の一番最後の弟子として、先生に仕へてから、先生にして見れば丁度孫に相当する年齢で、智識学問の蘊蓄に於いても比較にならぬ筆者を叮嚀に誉めたり威したり又賺したり、時々は怒られたりして自分の子のやうに愛しみ教へ導いて下さった。そして毎日朝から晩まで翁の側で机を並べ差向ひに教へてもらった幾月日の中には、種々の出来事があり盡きぬ思ひ出があるのである。
先生の言はれるのには「此処へ来る弟子は多いが皆な術を目当てに来る。然しこの神術の道は上古は、天皇陛下のみが御行はせられたもので実に幽玄至貴なる神事であり、平田篤胤翁亡き後に於いて第一級的学者たる本田親徳翁でさへその研究に専心没頭して四十年もかゝってゐられるのである。それであるから学問知識もない平凡な普通の人が、簡単に神前へ座って口が切れたから出来たといふ様な、そんな安易なものではない。神術は実に難事中の至難なものである。真実の神懸は、先づ神典国史を研鑽して国体の尊厳なる由縁を知り、神々の御宏徳を知らねばならぬ。然して精神を鍛錬して不撓不屈の正しい精神を養ひ、徐ろに神懸の稽古をしなければ正統の神懸は出来るものではない。」等々、その鍛錬方法、本式の神術の実習方法等いろいろ伺ったものであった。


また審神の法に就ても種々と実地に教へていたゞいた。或時等はあの物静かな先生が身体を震はせて叱られたこともあったが、それは矢張り先生の大なる御愛情の鞭であった訳である。後で筆者は沁々有難く胸迫る思ひをしたのであった。然し今はこれ等も皆な思ひ出となって了った。


先生の日常に就ても色々の事があった。
先生はお耳が遠かったので、審神をせられるのに神主の告げを聞き取りにくいから、筆者が助手となり先生の隣に座って神主の告げを一卜区切りづゝ聞いては、それを先生のお耳の側へ口を当てゝ報らせたのであった。或る時は審神をしてゐられる先生の瞳からパッと光を発してゐるのを見掛けた事もあった。
又来客があると筆者はその談話の中継ぎをして一々取次いだのであった。筆者はお耳の遠い先生と話をするのに馴れて居るので不都合を感じなかったが、たまに来る人は通話に困難をしたのであった。先生の話好きは一通りでなく、大抵来客の無い日はないのであるが、時によると午前中など未だ客が来ないと"今日は一人も見えない"と言って心待ちにしてゐられた。そして客が来ると意気込んで、世界情勢を説き、日本の立場を云為して、、陛下の世界を知しめす由縁を説き其の方法を論証せられた。談偶々神祇官問題に及ぶと、之が先生の畢生の目的であるから、上古の神祇官制度を説いて、明治維新の、改革の漸次西洋風に改変せられ、失敗した経緯を説明して、その制度が復古せられねば国威が世界を掩ふ事は出来ないと、有らゆる典據を挙げて説明せられた。論鋒が現行神社制度に至ると其の時代に則せぬ不備を、縦横にあらゆる角度より論究せられた。筆者が明治維新後の変遷の烈しい明治裏面史を伺ふと、翁の半生即生ける明治史であるので、その委曲を盡した明治史の真相を把握する事が出来るのであった。


新聞は五六種類も取って居られて皆な能く讀まれた。そして外は世界の情勢を、内は国内の動向を案じて静かに皇国の進むべき進に心を馳せて居られたのである。而も帰幽せられる日の朝もその事を口にして居られた。
雑誌も数種類購讀して居られた。尤も中には神道界の長老として、取らされてゐたものもあったが、喜んで買ひ取ってゐられたのである。書籍も実によく買はれ、その種類は矢張り国学の書籍が主であったが、其の他百科の書に及んでゐた。然して亡くなられる直前迄購讀を續けてゐられたのであった。書き物は少しおっくうと見えて、手紙や届書など筆者が代筆を仰せ付かったものである。


御霊璽の鎮座祭にも筆者は御手傳ひを務めさせて頂いたが、本年の正月元旦に行はれた鎮座祭には石笛の音が高く美しく冴へたので、先生は何年振りかでよい音が出たと大喜びであった。然しその後は遂にその時の様なよい音色を聞くことが出来なかった。


先生は非常に煙草が好きであった。巻煙草は吸はれなかったが、刻みは身辺を離さず、殆んど終日吸ひづめであった。極度の近眼であったが眼鏡を用ひられなかったので、煙管へ煙草を、つめられてもよくつまってゐないで抜け落ちたのも知らずに、空の雁首に火を付けやうとしたり、又煙草が房のやうにブラ下がってゐたりした。煙管の掃除は大抵筆者がその役を務めた。筆者がかんぜよりを作り初めると、先生は煙管をソッと筆者の前へ出して置かれるのが常であった。食事は肉類が大好物で、肉を食べないと痩せると言はれ、大の健啖家でよく召上られた。そして壯年の折三保神社に通はれた当時は自炊をして粗食をしたなどと話された。風呂は嫌いで入ることを余り好まれなかった。


先生は衆知の腰の低い方で、去年の衆議院議員選挙投票日のことであった。投票所は先生より下手五六丁離れた幼稚園で、筆者がお供で投票に出かけることになった。足の弱い先生は袴に靴履きで杖を持たれ、連れ立って家を出た。
すると向ふから来る人には誰にでも丁寧に頭を下げて挨拶をせられる。挨拶を受けた人達は面喰らふ者が多かったが先生は一向頓着なしであった。極度の近眼なので向かふから来る人影が先生の眼にうっすら写るに違ひない、すると立ち止まって其人が近付くのを待って頭を下げられるのである。此時はまだ此様に足が強かったのであったが、亡くなられる前、九月末頃には御社へ参詣の往き帰り、かへ添えする筆者の腕にブラ下る様にして歩まれた。之も今は悲しい思ひ出となってしまった。

 

ヂッと瞑想に耽っていると、走馬燈の如く筆者の脳裡を追憶が流れる。一日でも二日でも書き切れるものではないから、これ位で止める。


嘗て先生が
「自分は迷信打破を天職と心得ている。然るに稲荷講社が盛んになって来た時は、毎日面白いやうに信者が増して忽ち数万の信徒を擁することになったが、その信者達は自分の言ふことを少しもりかいせず、各自が勝手な迷信に耽っているので、これでは正しいしんこうを示して迷信を打破しようとしたことが反って反対の結果になったので、潔く講社の発展を止めて了った。」
と、言はれた。この事は筆者が代筆を仰せつかって、静岡県庁へ呈出した講社の報告書類中にも次の如く述べて居られる。
「ー前略爾来殆んど全国に波及して、未だ集団を成すには至らざるも多少の信者は各地に散在するに至れり。茲に於て世に行はるゝ信仰者の状況を観察するに、無学の極迷信に陥り反って社会に害毒を及ぼす者多大ななるを知りて、指導者たる地位にある者は深く謹まざるべからざるを悟り、爾来多数の信者を得むよりも専ら神典と国史とを講究せしめ、以て迷信より覚醒せしめて皇道の大本を了得し、国民たるの本分を知らしむるを目的となし云々ー」
とある。こゝにも先生の真摯な御意志を知ることが出来るのである。


またこんな事も云はれた。
「師匠の本田翁は他の行者と同一視せられるのを嫌って、白衣を着たり瀧に打たれたりするのを非常に嫌悪せられた。自分も判官の腹切りではあるまいし大嫌ひである。」と。
吾々門人は今後共先生の御意志を体して、先生の示された正しい道から一歩も逸脱せぬやう充分に自重自戒して、只管、陛下に仕へ奉り、神祇を崇敬してその神徳の発揚を希ふことこそ、先生の教導に應へる唯一の道である、と思はれる。
今は、先生の部屋へ這入ってもそこには先生の温容はなく、たゞ冷やかな室内の空気が筆者の淋しい心を一層冷たく寂しくするのみである。


あゝ、杖とも柱とも頼んだ先生は忽焉として筆者の近寄ることも出来ない神界へ行かれてしまった。これからは先生の遺志を体して一、意専心、学術を励み霊術を修め、先生のご指示下された目的に邁進して、御高恩に応へ奉らんのみである。先生も神界から厚い御守護を垂れ給ふであらう。
師ながらも慈父の如くに仕へたる 翁神去りて吾れ世に淋し
師のふみし一すぢ道を我もまた たどり学びの奥がに行かな』「惟神 第2號 長沢雄楯大人追悼號」