「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

 

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(注)友清歓真「選集第一巻」によれば、
『翁の人物を最も能く看たる人。その學術に眞の理解と敬意とを有したる人は蒼海伯副島種臣であつた。伯は漢籍には精通して居た人であるが國學に就ては本田翁の訓へを受けた人である。又た鎭魂と歸神の傳を受け、實地に就ても隨分翁の指導を受けて研究修行した人である。明治九年、副島伯邸で歸神を修した時、本田翁が審神者であつたが、或る大神が憑られて重大なるお告げがあつた。(其時の憑神の御神名は少しく考ふる處ありて此處には發表せぬ。)


その内容の概略は、『明年の二月になると西鄕南洲が兵を擧げる、さうなると却々厄介であるから、今の間に副島自ら行きて西鄕を説け、副島自ら出馬して行つて親しく膝を交へて説かなければ南洲は聞かない、又た不幸にして愈々挙兵とならば副島は國内に居ると生命が危いから身を以て難を海外に避けよ。』とのお告げが副島伯に對して示されたのである。ところが伯はこれを信ぜないと云ふ譯でも無かつたらしいが何となく半信半疑の體であつたので、自ら鹿兒島まで出かけやうとせず、鈴木某といふ劍客を使ひして南洲を説かしめたが、翌年の春になると果たして神告通りとなつて來たので、流石の副島伯も驚いて直ぐに支那に行つたのである。そして伯は、『實に何とも大神に對して申譯が無いから本田翁から大神に對して謝罪をして呉れ』との手紙を支那から本田翁へ宛てゞ二通寄越した。翁は面白い記念品だと云つて能く其の二通の手紙を所持して居られたのである。』

『明治九年、副島伯邸で歸神を修した時、本田翁が審神者であつたが、或る大神が憑られて重大なるお告げがあつた。』という部分だが、これは三輪家に資料収集に行った時に「布留倍之霊由良」を眼にしたのかもしれない。


ところで、副島翁が日本を離れたのは、西郷の挙兵前であり、事実誤認も甚だしい。
明治7年の佐賀の乱では、江藤新平は当初士族をなだめるために佐賀へ行き、そして不本意ながらリーダーとなり軍事行動を起こした。同郷の副島翁もその経緯をよく知っていたが故に、西郷についても、半信半疑ということはなかった筈だ。西郷の人柄から考えても、江藤のような結末は容易に予測できたであろう。時勢はそこまで切迫していたのだから。


また、この本田翁に宛てた二通の手紙だが、どこからそういう話を聞いたのか、何も明示されていないので、確かめようがない。筆者もこの件について、他では一度たりとも聞いたことはない。ただ大神に対する謝罪を本田翁に依頼するのは筋違いであり、副島翁の人柄から見ても信憑性はないと思う。