「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

 

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『第一 章 本田親徳と副島種臣 
(イ)副島種臣略歴
副島種臣は佐賀鍋島藩士、文政十一年九月九日藩校弘道館教諭枝吉忠左エ門彰種の二子として生れた(本田親徳より九才後)天保三年五才初めて学に就き、父南濠より四書及び百家の素読を授けられた。その経歴を瞥見すると、
O嘉永元年(二十一才)弘道館の内生寮首班となり、楠公を崇敬して義祭同盟を結ぶ。
O嘉永五年(二十五才)藩命によって京都に留学し皇学を研究、諸藩の志士と交り日本一君論を鼓吹する。
O安政二年(二十八才)重ねて京都に留学。
O安政五年(三十一才)兄経種(神陽)の意を承け勤王討幕運動に奔走した。神陽は識見高達藩学の長者として上下の信望を博し殊に大義を説き大隈、大木、江藤等藩当代の俊秀は皆その門下に出でた。種臣帰藩後間もなく安政の大獄起る。
O安政六年(三十二才)副島氏を嗣ぐ。父枝吉南濠歿す。
O元治元年(三十七才)長崎に遊学、アメリカ宣教師フルベッキにつき英学を学び大いに識見を高めた。慶応二年まで滞在した。
O慶応三年三月(四十才)幕府に大政奉還を説くために大隈重信と共に脱藩上京したが、 五月送還されて謹慎を命ぜられる。

以上幕末まで志士として活躍して諸藩有志の間に重きを為していたことを知る事が出来る。そして彼が壮年国事に奔走していたこの間は、本田親徳は霊学研究に専念して帰神の正法を確立した頃であった。明治以后の副島略年譜を見ると、
O明治元年(四十一才)三月新政府に徴せられて参与となり、制度取調局判事に任ぜられ、 五月東北征討に従軍、十月より東京在勤。
O明治二年(四十二才)七月参議に任ぜられ東北諸藩の処置につき、西郷と共に寛典論を唱えた。
O明治四年(四十四才〉樺太境界を議するため遣露大使に任じ、函館にて露国領事と談判。十一月外務卿に任ぜられた。
O明治五年(四十五才)六月ベルー国船マリア・ルーズ号難破して横浜に寄港、船載の清国人苦力を解放し、故国に送還する為に鋭意尽瘁(じんすい)する。のち国際裁判に発展し、日本の勝訴となる。十月征韓論起る。
O明治六年(四十六才〉二月特命全権大使として清国に差遣され、日清修好通商条約の批准を交換。清国皇帝に謁見する。十月参議兼外務省事務総裁となる。西郷、江藤、板垣等と征韓の議を唱え破れて同二十三日辞任、御用滞在を命ぜられる。』(『本田親徳研究』)
 

マリア・ルーズ号事件。明治5年(1872年)に横浜港に停泊中のマリア・ルーズ号内で231名の清国人苦力が悲惨な環境で過酷な労働を強要さられていた。その中の数名が脱出したことで明るみになったが、外務卿だった副島翁は、国際紛争を懸念する周囲の意見を抑えて、清国人解放に尽力した。日本政府が人道主義から奴隷解放を行ったことで、清国政府は謝意を表明した。これは日本が国際裁判の当事者となった初めての事例であり、その国際仲裁裁判の勝訴は、翁の名を国際的に高めることになった。


副島翁は、欧米列強が数百年にわたりアジアを植民地化し、弾圧や殺戮、奴隷売買などの人権蹂躙、経済的搾取を続けていたのを何とかしたかったに違いない。この判決を契機としてアジアの奴隷問題が転機を迎えることになったという。