「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

 

 

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『本田親徳門下数百人、長沢雄楯の下に来り学ぶ又千数百人、稲葉大美津は厳に志を見て人を選びたるも猶学ぶ者幾十名を算えたのでありますが、中より何らかの点にて後世に記して遺すべき人々の名を挙げて仮に道統系図を作れば、左の如きかと思われます。元より私案にすぎませぬ。


昨昭和五十一年六月に山雅房より出版された「本田親徳全集」は、現存の遺著の殆ど大部分を集めたものでありますが、その巻末記に年譜を掲げましたので、大方の読者はその生涯をほゞ了解の事と思われます。未見の方は就いて御覧願うとして、その為人について申添えたいと存じます。先生は幼にして穎悟、頭脳甚だ明晰で且俊敏勇気に富まれたことは万人の認める処であって、別に政治家又は軍人として世に知られた方でもないのですが、郷里薩摩の加世田あたりでは随分伝説的に語りつがれている由であります。即ち少くして藩校に学び、文武両道にはげみ、特に剣を善くしました。全集巻末記の年譜には次の様に記しています。


天保十年(一八三九)満十七才。皇史(日本紀)を読み帰神の神法廃絶したるを慨歎して志を立つ。(難古事記)藩を出でて武者修業して京に上る。水戸藩の会沢正志の英名を聞き東下して就きて学ぶ。約三年と云う。和漢の学をはじめ哲学科学の基礎知識この間に成るという。又この間平田篤胤の家にも出入せしとも云う。又天保十四年の条に、京都藩邸にあり適々狐憑の少女に逢い憑霊現象を実見して霊学研究の志を竪むと伝う。と記しています。この年九月、平田篤胤が歿しているので、先生が江戸で平田家に出入したのは篤胤晩年のことであります。


この京都の事は伝説として語りつがれて居るけれども事実である点は高窪良誠談話によって信憑せられるのであります。先生は之を契機として一切世俗の名聞を断って霊学研究の苦難の道に就かれたのであって、この後十余年全くその消息は不明なのであります。その著「難古事記」に記す処に依ると「三十五才にして神懸に三十六法あることを覚悟る」とあって、その年は満年三十四才即ち安政三年(一八五六)に当るのであるから、天保十四年より十四年の歳月を経ています。そして「十八才皇史を拝読し此の神法の今時に廃絶したるを慨歎し」て志を立てた時より実に十八年に亘るものであって、会沢正志の門に於ける刻苦勉励も、その後「岩窟に求め草庵に尋ね」ての苦難の修業も凡てこの準備期間ということになるのでありましょう。そして「夫れより幽冥に正し現事に徴し、古事記日本紀の真奥を知り、古先達の説々悉く皆謬解たるを知り弁へたりき」となるのであります。全集所収の「古事記神理解」と「難古事記」は先人のこの謬解を正すために書かれたものであることを知るのであります。


〔註一〕高窪良誠談話=高窪良誠は大宮市東町に住み、氷川神社氏子総代にして、中大理工学部教授(全集巻末記に日大教授は誤り)たり。夙に佐藤卿彦の門に学び幽斎に参じ多くの神教に接した。昭和四十五年歿。


この後先生は愈々修業を深められ、郷里鹿児島に帰られて帰神の術を磨かれて己に名声を得ていましたが、その証拠として明治三年(四十八才)三島通庸著の石峯神社創建の記事中に、嘱せられて神憑によって不明たりし古来の祭神を識る旨記しているので、当時已に帰神の正法を確立していたと信ぜられるのであります。先生の上京はその翌々五年かと推定せられますが、この年父主蔵死去され家督を相続いたして居ります。


前にも記しました通り同藩の誼ある西郷隆盛の紹介によって、外務卿副島種臣と親交を結んだのは明治六年の頃と考えられますが、この両傑が大西郷によって、後に斯道の師弟となる縁が結ばれたことは実に感慨深いことに思われます。この両者の間に交された「真道問対」は本田霊学の主要文献の一つとして重視せられて居ります。副島種臣はその後明治の元勲として天皇の御信任特に厚く、一等侍講として仕え奉り、又政府の要職を歴任して伯爵を賜わって居りますが、その後三十一年十二月佐々木哲太郎輯録にかゝる「蒼海語録」(別名蒼海窓問答)は伯の思想哲学の代表文献として重要なものであります。「真道問対」を隔たる十五年の後に成稿したもので、この両書の対比によって霊学継承の一面が明らかになると思われます。依って本篇の第一章に「本田親徳と副島種臣」を置き、第二章に「本田親徳と長沢雄楯」とし、添うるに主な同門に触れ、続いて長沢翁の事績とその門下とに就いて順次筆を進めたいと思います。』(『本田親徳研究』)