以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。
古神道の視点から、祓祝詞を考察します。

******************
 

 上記各社の公式・正式幽斎に関して、北海道・明治神社の鈴木重道氏(佐藤翁に師事)が、その著書「一本の道」にいくつかの体験記を書かれている。その後半部分にて、神社本庁事務総長(当時)の林栄治氏が「跋」の一文を寄せている。ここにご紹介させて頂く。

『 跋
 

 一陣の風が吹き渡る。神霊の降臨に先立って斎場を祓い清めるが如くである。静心沈思を凝らして祈るとき、やがて「うけひ」の境地に入る。「うけひ」は、誓霊・祈霊・誓約・盟ひ・祈ひ等と古典に見える。この誓霊とは何か。その探求が、私の同窓であり長年の知己である鈴木重道宮司をして本書を執筆せしめた動機であろう。
 

 「まつり」には顕斎(うつしいはひ)があり幽斎(かくりいはひ)がある。顕斎の文字は神武紀に初見があり、この方式は爾来今日に至るまで神社に於いて一般に執り行われてゐるところである。これに対して幽斎のことは神功皇后紀にその委細が述べられ、これは帰神(かむがかり)の秘事に属するので、一般には行われてゐない。しかし幽斎の「うけひ」によって帰神する方式こそが神訓を戴くことができる道であることは、解ってはゐるが、いつしか幽(かそ)けくなってゐた。


 この帰神の道は、世上巷間に往々にしてその一部を行ふ宗教などもあるが、その何れもが十全なものであるとは言い難い。すなはち、帰神者に憑依するカミにも程度の差異があるからである。


 ここに鈴木氏のものされた幽斎の真髄探求の筆記は、その意味からして洵に得難いものである。神に許された者のみが、鎮魂の極致に帰神することができる。帰神者(神籬たる神主)が審神者(さには)や特に召された者らの請白(ねぎまをし)に対して神訓を宣るときに、誓霊が達成される。かくて誓霊とは、神と人との交信を可能ならせしめるものであろうか。


 誓霊は、人が神に生命の物実を捧げて祈請することであるといってよいかもしれない。鈴木氏が此の道に関心を懐いたのは、遥か五十年前の学生時代に遡る。本書「一本の道」は、同氏の心の遍歴を物語るばかりではなく、幽斎の何たるかを朧げに知らしめるものがある。同氏の真意は、正しい幽斎についての正しい方途を伝へたいとするにあると聞く。先頃昭和四十五年十一月二十五日に自決した三島由紀夫氏が、最後まで追求し続けたものがウケヒであったといはれる。三島氏を鈴木氏に合わせたかったと、今にして残念でならない。人生とは、人との出会ひであるが故に。


 幽斎の道は、深遠にして難行であると仄聞する。鈴木氏のご自愛ご精進を祈り、いよいよ研鑽せられんことを切望してやまない。


 此の種の刊行物は、古今稀有である。神に仕へる者としては、一度は関心を持って経眼することも、大きな意味があらう。
    昭和四十六年三月  神社本庁事務総長  林 栄治』