明治37年御製

 

言の葉に あまる誠は おのづから

 人のおもわに あらわれにけり

 

 

明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。
「言葉に言いつくせない誠の心というものは、自然にその人の表情に現れるものである」

 

「誠」とは辞書によれば、「真心。真実の心」という意味だそうです。


では「真」とはなんでしょうか。何を基準にしているのでしようか。
古神道では、特定の物差しを以て何かを評価するのではなく、惟神に沿っているかどうかを問います。しかしこの「惟神」に明確な定義がないのです。その故いろんな説が出てきましたが、結論が出ないまま今日に至っています。


神道で重視されるのは祓いです。
穢れなき心、穢れなき魂、これに沿うことが惟神だという人がいます。
ですが穢れとは何なのか、どうすれば祓えるのか、これもまた難しい問題です。


つまり自分で定義する「穢れ」を、祝詞を唱えたりして、祓えたかどうかわからないままに、穢れなき心、穢れなき魂になったと思い込んでも、それが正しいのかどうか、本人にはわかりません。


穢れには有形と無形の2種類ありますが、結局は幽の祓いがなければ祓いは完結しないのです。
自らを神籬と化し、或いは分魂して神人合一し、受霊をすることで初めて惟神を体験することができるのです。

 

その惟神、つまり神のまにまに(神の随に)、神の御心のままに「在る」ことが誠の姿なのです。それは言葉を超えています。誠の姿とは、神の光を纏うことなのです。