明治37年御製

 

神垣に 朝まゐりして いのるかな

 國と民との やすからむ世を

 

 

明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。

「神域に朝参拝してお祈りすることだ。日本の国が栄え、国民が安らかに暮らせる世の中であるようにと。」

 

当時明治天皇は宮中祭祀に消極的でほとんどが代拝でした。

しかし敬神の念が薄れた訳ではありません。

日清戦争以降、代拝率増に比例するかのように、神を詠んだ御製が増えてゆきます。


天皇は日清戦争に反対されていましたが、御決断される前に現場ではすでに戦いが始まっていました。その為仕方なく追認するような結果になりました。

遠因にはシベリア鉄道開通によるロシアの極東進出への懸念がありました。不凍港を求めて南下政策をとるロシアは世界各地で争っていましたが、日本にとっても大きな脅威でした。


幕末にロシアの軍艦が対馬を不法占拠してから、国内でロシアへの恐怖感が現実になってゆきます。その後日露和親条約(1855)で樺太を日露両国の雑居地と定めましたが、明治に入ってからロシアは軍人を樺太に派遣して日本の居住区に圧力を強めます。

 

そのような状況下1891年に、ロシア皇太子ニコライがロシア帝国海軍の艦隊を従えて来訪します。親善目的ということで、日本は国を挙げて歓待します。ところが滋賀県庁前で警備を担当していた巡査が、いきなりサーベルでニコライに切りつけ負傷させたのです。

 

知らせを受けた天皇は即座に東京を立ち、見舞いに赴きます。此の時、誰しもがロシアとの戦争を覚悟したでしょう。ニコライは皇太子であり、皇位継承者(後の皇帝ニコライ2世)だったからです。


実際、第一次世界大戦の引き金となったのは1914年にユーゴスラヴィア民族主義者の青年が、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者F・フェルディナント大公を暗殺した事件(サラエヴォ事件)でした。そのような時代ですから、天皇をはじめ日本中がロシアとの戦争に恐怖したのは無理のない事でした。


この御製が詠まれた明治37年には既に、ニコライは皇帝に即位していましたので、日本との因縁もあり、天皇もロシアとの一触即発の事態を深刻に受け止めておられたと思います。できることなら列強の雄、ロシアとの戦いは避けたかったはずです。


「國と民との やすからむ世を」祈られた天皇の大御心は、同時に真摯な平和への願いでもありました。結局日露戦争は避けることができず、このロシアとの戦いは、20世紀初の近代総力戦となります。