呉線の目隠し塀跡 | gayasan8560のブログ

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趣味の鉄道、街歩きネタを中心としたブログです。鉄道については、主に歴史的視点からの記事が多いです。

 夜の京都鉄道博物館を楽しんだ翌日、ちょっと足を延ばして広島県の呉に行ってきました。「ちょっと」という距離でもないのですが、西日本豪雨の影響で観光客が減少しているということなので、少しでも足しになればと思い足を延ばしたわけです。ちょど一週間ほど前に、呉線が一部復旧して広島駅から呉駅まで行けるようになっていました。限られた時間の中で呉市内を駆け足でいろいろと周っていましたが、ここでは戦時中に呉線の線路脇に設置された目隠し塀の跡について紹介したいと思います。

皆さんも御存知のとおり、呉は日本海軍の軍港だった場所で、そこにあった呉海軍工廠では様々な軍艦が建造されました。その中で最も有名なものは戦艦大和だと思いますが、当時最高機密であった戦艦大和の建造を秘匿するために、車窓から海軍工廠を眺めることができる呉線の区間に、目隠しのための塀が設置されました。もちろん今はそんな塀はないのですが、塀の設置に用いた土台の一部が残っているということなので、それを見に行くことにしました。

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目隠し塀は、上図に青点線で示したように、新宮トンネル(川原石駅から広島駅寄り)から呉駅方向に800mほど設置されていたそうです。確かにこの区間からは戦艦大和が建造されたドックや艤装桟橋方向が良く見えそうです。なお、川原石駅は平成11年に現在地に移転しているので、目隠し塀が設置されていた時期の川原石駅は、現在よりも呉駅側にありました。

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大和ミュージアムに展示してあった目隠し塀の写真です。塀はトタン板でできていたそうです。塀を固定する骨組みの土台となっていたコンクリート製の構造物が今でも数カ所だけ残っています。

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昭和22年に米軍が撮影した航空写真(資料:国土地理院HP閲覧)を見ると、写真中央部に横に延びている呉線の線路際(海側)に、線路と垂直方向に枕木状のものが連続して存在しているのがわかります。これがコンクリート製の土台です。目隠し塀本体は、既に戦争中に、金属供出のために撤去されていたようです。

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現在の川原石駅から大和建造ドック方向を眺めた写真です。中央の遠方に巨大なクレーンが複数見える場所の辺りが建造ドック、その少し右方向に艤装桟橋がありました。高い建物の無かった当時だと、呉線の車窓から丸見えだったと思われます。

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これが、今も残る目隠し塀の土台です。全部で3箇所残っていると聞いていたのですが、写真に写っている2箇所しか確認できませんでした。

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面白いもので、現在の川原石駅のホームにも目隠し塀があります。これは軍事機密保護ではなく、線路際の民家のプライバシー保護のためのようです。

参考までに、目隠し塀設置区間にある川原石駅の変遷を整理しておきます。

昭和9年 呉線にガソリンカー運転
昭和10年 呉線全通、同時に川原石駅(初代)開業
昭和11年 目隠し塀設置
昭和12年 戦艦大和起工
昭和15年 川原石駅休止、この頃にガソリンカー運転休止か

昭和30年 呉線でデーゼルカー運転開始
昭和33年 川原石駅再開(二代目)、当初はデーゼルカー列車のみ停車
平成11年 川原石駅移転(三代目、現在)

 川原石駅周辺の地区は、海軍工廠関係の工員が住むようになり地元の要望で駅が設置されたようです。しかし、呉駅との距離が短いので、蒸気機関車の牽引する列車は停車せず、停車するのはガソリンカーの列車だけだったようです。そのため、燃料事情が悪化してガソリンカーの運転が休止されていた期間には、駅も休止されていました。戦後になって駅が再開されたときも、ディーゼルカーの列車しか停車しませんでした。