つたない経験ですが、親の最晩年にどう寄り添うか?

自分のことを書いてみようと思います

 

母のことです

母が亡くなって、もう20年が経ちました

足掛け8年の闘病で旅立ちました

その時も、その後も随分と後悔したことがあります

でも、母が旅立って13年後に父を見送ってから

あれでよかった。あの時最善は尽くしたんじゃないか?

って思えるようになりました

 

母は68歳で悪性リンパ腫と診断されました

血液系のガンですね

大学病院に入院して治療することになりました

11月でしたね

その時、私はパソのデモを予定していてもうルーティンも完成してました

12月のパーティ―で踊る予定だったんです

母の病気が分かってデモはできないと先生に断りました

ガンで入院した親がいてダンスのデモなんて不謹慎だと思ったし

とてもそんな気持ちにはなれなかったんです

 

原発部位が胃に限定されているので手術可能となって、手術しました

これで元の元気な母に戻れると思いましたよ

だけどね、胃の全摘だけでなく脾臓や胆嚢などの周辺器官も摘出してしまったことと、

元々病弱で体力がなかったこともあって

母は退院しても元に生活には戻れませんでした

それから亡くなくなるまで普通の食事はできなくなってました

 

 

退院したときはそうは思ってなかったんです

母が退院したのが3月頭・・・

退院したら大丈夫と思っていた私はその1か月後くらいに

パソのデモを踊りました

 

しばらくして、母は元の元気な身体には戻れないだろうということが段々とわかってきました

少しずつ、少しずつ状態は悪くなっていって、短期の入退院を繰り返しました

リンパ腫の再発もあって最後の3年間は

中心静脈栄養(点滴)で栄養補給する生活でした

3年ほどモルヒネも使いました。

その3年間は自宅で過ごしました。

 

父と二人で、あは もっぱら父が母の面倒をみてたんですけどね

父がシンドイと言い出した最後の1年

幸にも介護保険が始まって、訪問看護、訪問介護を受けるようになって

随分楽になりました

介護保険の導入で訪問看護が可能なことを知って、

市の看護師会へいって訪問をお願いした記憶があります

結構手探りだったんです

 

さて、この年月を父と自分がどうすごしたのか

極々普通に過ごしました

ダンスをするのは不謹慎なんてことは、いつの間にか吹っ飛んでいました

デモも沢山やりました

父も自分の趣味を色々やってました

 

二人とも、母が必要とするときにどちらかが対応できればいい

母が痛みを訴えるときは私が対応する

トイレが一人で無理なときは父か私

母の精神的な支えは父、父の愚痴は私が聞く

そんなスタンスでした

少し人手を必要とする人と一緒に普通の暮らしをする

それが一番いいやり方だったと思います

父も私も無理はしないようにお互いに気をつけてましたね

 

誰かのために誰かが生活を犠牲にしている

そういう風にはしたくなかったんです

もっとも、最中はそんなことは考えませんでした

 

結構、それなりに楽しく暮らしていたと思います

母の点滴ポールがいつも視野にはありましたけど

 

夫々の家庭でやり方は夫々でしょうが

私の場合はこうでした

 

それでも

母が亡くなってから、もっとこうすればというのは考えました

でも父を見送る時、あの経験があったので

父と二人で 穏やかな生活を最後までできたんじゃないかと思ってます

 

父と母がどう思っていたかはわかりません

でも、私が好きなことを我慢してギスギスしてるより良かったんじゃないか

自分のために私の将来に影響することはイヤだったんじゃないか

そんな風に思います

 

母がね

ごめんね、一緒に生活してるから面倒かけるね

でもあんたがいてくれてよかったよ

 

そんなことを言ってくれた記憶がありますね

 

面倒なんてかけてないよ

デモだってやってるしさ・・って答えたのかな?