一旬驕話(を):21世紀のルネッサンス気質

 

  『幻想の終わりに』   

  今年のお盆は「暑い、暑い」の次の日には「台風は来るや、来ぬや」で心配し、それが過ぎるとまた「暑い、暑い」でした。そのような中でうつらうつらしながらウエブを眺めていましたら「『幻想の終わりに――後期近代の政治・経済・文化』訳者解説公開」というページがありました(https://note.com/jimbunshoin/n/n650dcd28c2ec)。

 

  「幻想の終わり」という字を見たとたんに「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに等し」(だった、と思いますが……)という意味のよく理解出来ないモットーを思い出しまして(年のせいで「幻想」を「虚妄」と解したのかもしれませんが)、このぺージを読んでみました。アンドレアス・レクヴィッツというドイツの新進社会学者の著作で広く読まれている『幻想の終わりに』の訳が出版され、その出版記念講演会の紹介を兼ねて訳者の一人橋本紘樹氏の「訳者解説」を公開したページでした。 

 

  100年前のドイツの小説の紹介  

  そのページの最後に次のような一節があります。この節の一部分を要約することは私には無理ですので、少し長いですが、そのままコピーします。

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さて、この解説の締め括りにあたって、少々我田引水ではあるけれども、ワイマール共和国時代に活躍した作家ハンス・ファラダの長編小説『ピネベルク、明日はどうする⁉』(1932)から、印象深い一場面を引用しておきたい。ナチス政権獲得前夜、不景気と政情不安定に陥るベルリンが主たる舞台であり、主人公であるしがないサラリーマンのヨハネス・ピネベルクと配偶者エマ(「子羊ちゃん」と呼ばれる)は、幼子を抱えながら、大都会でぎりぎりの生活を送っていたが、ヨハネスは大量失業の波に吞まれてしまう。彼は保険会社から授乳手当てを受給しようとするが、一向に申請手続きは進まず、窓口でもぞんざいに扱われたため、監督当局に抗議文書を送付するが、こちらも横柄な対応である。その際、この酷い仕打ちへ再抗議を行うかどうかを巡って、二人の間にこんな会話が交わされる。

 

 「でも、なんとかしなくちゃ!」彼は絶望的な気分だった。「もうこれ以上耐えられないよ。僕らすべてのことを黙ってのみこまなければならないの? いつも踏み付けにされて?」

 「私たちが踏み付けにできるような相手は、私たちが一番そうしたくない人たちよ」と子羊ちゃんは言いながら、夜のお乳をあげるためにおちびちゃんをベッドから抱き上げた。

 

ハンス・ファラダ『ピネベルク、明日はどうする!?』(赤坂桃子訳)

みすず書房 二〇一七年、二七二頁。

 

政治状況や経済状況に対する個人の無力さを身にしみて痛感しているエマは、その一方で、自分たちの苦しみを、同じように苦境に立たされた人々に向けて発散する無意味さも十二分に承知している。「私たちが踏み付けにできるような相手は、私たちが一番そうしたくない人たちよ」、この彼女の一言には(栗山:中略)同じく政治・経済・文化の面で危機に面している現代の私たちに対して、痛切に訴えかけてくる何かがある。

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  訳者解説の立場  

  橋本氏はこの「痛切に訴えかけてくる何か」から氏の世界観(の一部)を次のように開陳します。、 

 

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自らの苦悩の解消先が、(どのような政治的志向であろうとも)類似した境遇に置かれた人々や一層無力な「他者」となってしまえば、犠牲者が犠牲者を生む負のスパイラルが生まれ、事態はますます深刻になるばかりである。(…)私たちには状況を俯瞰するような視点も必要になってくるのではないだろうか。まずもって、個別の問題それ自体を一つずつ解決していくことが重要であるのは間違いない。しかし、その際視界が狭まると、近視眼的に「悪者」を設定してしまう恐れがあるし、仮に解決に至ったとしても、それらは常に社会全体との関連で生じてくるため、同種の問題が再生産されてしまい、真の改善には結びつかない可能性がある。

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  社会的、政治的、文化的に抑圧されている人たち(「犠牲者」)が、自分(たち)への「悪者」を設定して「他者」化して新たなる犠牲者を生んでいる(現在までの、そして現在も続いている)メカニズムへの批判を約100年前のドイツの小説を通して指摘しているのです。

 

  その上で橋本氏はこの訳者解説を「私たちは、個がわからなければ全体はわからないし、全体がわからなければ個はわからないという、いわゆる解釈学的循環のなかで、常に試行錯誤を続けなければならない」と結んでいます。他愛無い当ブログ子は「いわゆる解釈学的循環」についてはサッパリ知らないのですが、「犠牲者が犠牲者を生む負のスパイラル」を読んだ時につい先日まで机の上に広げていた渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992年)を思い出しました。

 

  ルネッサンスから生まれ出で反フマニスムに迷い込んだルネッサンス人  

  この本ではフランス・ルネサンス期の人12名を取り上げているのですが、そのうちに「ある教祖の話(a)」としてジャン・カルヴァンを論じています。12名の中で割いているページ数は最も多く、もっとも読み甲斐もある評伝でした。寛容を求めてカトリックに対抗したカルヴァンが教団を掌握し、ジュネーヴ市の「政治」を掌握すると寛容主義者(ユマニスト)を排除し、圧迫したのです。そのカルヴァン論がなぜ読み甲斐があったかと言うと、権威主義的で理不尽なカトリックへの強力な対抗者として名を挙げたカルヴァンが宗教の名において権威主義的な圧政者に変じてしまったこととフランス・ルネサンスの精神との比較を筆者は縷々、それももどかしげに述べているからです。

 

  橋本解説の「自らの苦悩の解消先が類似した境遇に置かれた人々や一層無力な「他者」となってしまえば、犠牲者が犠牲者を生む負のスパイラルが生まれ」るメカニズムが、寛容を口にしながら一旦小さいながらも権力を手にすると抑圧されている人々を「他者」化し、さらなる犠牲を科すカルヴァン政治の根幹を解説しています。

 

  ルネッサンスの寛容の精神は根付いているのです  

  渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』は政治的、宗教的、文化的、経済的原理主義を信奉することへのフマニスト・ヒューマニズムからの警告です。100年前のドイツの小説は市民の間にも「他者」化になびかない感性が流れていることを示しています。