一旬驕話(み):特攻隊員の遺書「私は海亀になりたい」、空襲下で子供を守る母親の写真

 

  『岡崎空襲体験記』  

  子どもの小中学校時の卒業記念写真集などが並んでいる本棚に一見して雰囲気の異なる背がグレイの古ぼけた本が立っていました。「何だろう」と本棚から抜いてみますと「岡崎空襲を記録する会」編『岡崎空襲体験記(第2集)』(会事務所は個人の方のアドレスのようですので記載しません、昭和52年)でした。A5版、今では見かけないタイプ印刷で237ページ。背はグレイでしたが、手に取ってみると表も裏も表紙はグリーンです。長いこと本棚に立てられたままだったので、背は陽に焼けてしまってグレイになっていたのです。

 

  福岡では昭和20年6月19日から20日にかけて239機のB 29編隊が福岡市の中心部を爆撃して三分の一の家屋が被災したと言われています。福岡空襲です。それから1ヶ月後720日未明に132機のB 29編隊が岡崎の市街地中心部をほとんど焼き尽くしたのが岡崎空襲です。それから31年、昭和51年に岡崎空襲展が開かれています。当時の市長もテープカットをして地域の新聞でも大きく取り上げられたそうです。それらがあって展覧会には一週七日間に一万人の来場者があり、『岡崎空襲体験記』も千五百冊が完売し、増刷したとのことです。それらがあって一年後に「第2集」を編集、刊行したものと思われます。

 

  「おわりのことば」を「岡崎空襲を記録する会」の小田幸平さんとおっしゃる方が書いております。そこに「第1集では少なかった、空襲体験以外の、生活体験や戦争体験も数多くの原稿(……で)バラエティーにも富んだ内容の第2集」(236ページ)とあるように戦時中から終戦前後の生活体験と戦争体験全般が約半分100ページを占めています。

 

  ラーゲリーでの生活   

  シベリアのラーゲリーにいた人の手記もあります。住んでいたのは満州でした。そこからラーゲリー行きの列車に乗せられるのですが、ごった返す人込みの中に奥さんの姿を認め、奥さんも列車の窓からこちらを見て自分を探しているこの人を認めたのですが、人込みで近づけもせず言葉の一言も交わせず列車は出発してしまうという一節もあります。

 

  明治基地   

  戦争体験の中に林口さんという方が「明治基地始末記」を書いています。明治基地というのは聞いたことがありません。下記によると1906(明治39)年かから1955年(昭和30)年まで約50年間だけ西三河

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%9D%91+%28%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E7%A2%A7%E6%B5%B7%E9%83%A1%29_%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%9D%91+%28%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E7%A2%A7%E6%B5%B7%E9%83%A1%29%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81 に明治村という村があったそうです。昭和の大合併でこの村は安城市、碧南市、西尾市の三市に分割されています。昨日までは隣部落、今日からは別の市となるわけです。江戸時代末期には明治村の地域は刈谷藩領、福島藩領、沼津藩領、西端藩領、天領旗本領、寺社領などが混在していたのですから、複雑な成り立ちの村だったと思われます。

 

  そこに敗戦までの数年間ですが防空錬成飛行場がありました。それが明治基地です。ここで訓練した、と言っても飛行練習時間の短いひたすら体当たり戦法のみを教えられたパイロットが特攻隊員として九州の基地に飛び立っていました。

 

  私は海亀になりたい 特攻隊員の遺書     

  林口さんはそのような一人の隊員の遺書を紹介しています。隊員は18歳でした。皆さんには特攻隊員の遺書は珍しくはないかと思いますし長いのですが一部省略しまして紹介いたします。

 「いよいよお別れの時が参りました。最後に残す言葉として何を申し上げてよいやら、筆をとる手も打ちふるえて来ます。十七年の長きにわたりご養育下された私のこの体(……)何一つ孝養らしい孝養もせずお別れするのは、何よりも辛く申し訳なく存じております。もはや、果たし得ぬとわかったわがままですが、今一つ許されることなら、もう一度故郷の裏山に、父上、母上と一緒に登ってみたいと思います。そして、頂上の松林の木陰であなたたちの肩でももんであげたいと思っております。昨夜夢を見ました。利二と河原で遊んだ夢です。利二が河原の対岸から笑顔で私に手を差しのべているのです。「今いくぞ、待っておれ」というところで目がさめました。今度生まれ変わって来る時には、私は広い海原の海亀になりたい、そして浜辺でたくさんの卵を産み育てたいと思います。では、私は只今から出発いたします。父上、母上、どうか私の分まで、いつまでもお体を大切にして長生きをしてください。(……)」

 

  「私は貝になりたい」と私は海亀になりたい」    

  『七人の侍』『羅生門』『切腹』等などの脚本で知られる橋本忍の脚本による『私は貝になりたい』はテレビでも映画でもよく知られています。私は映画で見ました。上の遺書の「今度生まれ変わって来る時には、私は広い海原の海亀になりたい」を読んだ時に、この映画でお客の頭を刈っているフランキー堺の様子をガラス戸越しに映していたシーンを思い出しました。

 

  映画は戦争の不条理を思い耐え難い映画でしたが、上の「広い海原の海亀になって数限りない卵を産みたい」にもこの18歳の特攻隊員の耐え難い無念さが身近に感じられます。

 

  空襲から子供を守る母親の写真    

  この体験記には写真も掲載されています。その一枚を紹介します。

 

 

  説明には「東京・江東区で子どもを背負ったまま焼死した母子の痛ましい姿」とありますから岡崎空襲の写真ではありません。編集者が空襲の痛ましさを説明するために東京空襲での写真を再掲したかと思われます。出典は記載されていません。

  この写真の説明が手書きされています。写真説明の「子どもを背負ったまま」は写真が示していますが、手書き説明の様子は写真ではよく分かりませんが、国民が受ける空襲のむごさは写真からうかがえます。

 

  幾多もの若者の遺書と空襲下の多くの母と子    

  私がこの他愛無いブログを書いている今もウクライナやガザ地区では幾多もの若者が戦争の不条理を目の前にして貝や海亀に生まれ変わりたいと遺書をしたためているかもしれません。遺書は書いていないにしても、ようやく訪れたまどろみの時に両親やきょうだいと夢の中で手を挙げて言葉を交わしている状況は日ごとの出来事でしょうし、母親は幼子を抱きしめて逃げまどう明日が来ないように祈っていることでしょう。

 

  最後はふと手に取った背の焼けた空襲記録集の報告での心痛む写真になりました。