一旬驕話(あ):森鴎外の『鶏』での Philippica から

 

  森鴎外の小品『鶏』     

  2024220日掲載の「一旬驕話(ま):森鴎外の『鶏』での 「鶴の子」から「鶴之子」を経て「呉橋」まで」に続きまして「森鴎外全集第一巻」(筑摩書房、昭和四十年)掲載『鶏』をめくっていて気付いた他愛ないお話を申し上げます。

  鴎外はディレッタントと言われています。ディレッタントは一知半解的雰囲気がありますが、鴎外にそれはありません。または、それとは見せないスキルを持っています。

 

  鶏の登場と隣りからのクレーム   

  163ページから次ページにかけて次のようなシーンがあります。主人公の石田が家の諸事のために雇っている「別当」が鶏を飼っていて、それが一羽が二羽になり、二羽が四羽になる。屋敷内を走るし、けたたましく鳴くし、時には隣の家まで出かけて荒らします。ある日のことです。

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 南隣の生垣の上から顔を出している四十くらいの女が(妙な声で)何か盛んにしゃべっている。(・・・ 石田に)聞かせる為に言っているらしい。(・・・)天下に呼号して、傍ら石田をして聞かしめんとするのである。

 言うことが好くは分からない。(・・・)おおよその意味は聞き取れるが、細かいnuances は聞き取れない。なんでも鶏が垣を踰(コ)えて行って畠を荒らして困るということらしい。それを主題にして堂々たる Philippica を発しているのである。(・・・)垣の上の女は雄弁家である。併しいかなる雄弁家も一つの論題に就いてしゃべり得る論旨には限りがある。垣の上の女もとうとう思想が枯渇した。

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  この全集では詳しい「語註」が付いていて、分かり難い単語や表現を説明しています。上の文中ではnuances Philippica に語註が付されています。

 

   Philippica の語註と『プルターク英雄伝』

  nuances は省略しまして、Philippica には「(ラテン語)フィリピッカ。激しい攻撃演説、痛論。Demosthenes Philip 王を罵倒した十二演説の一つ。」と註を付しています(340ページ)。この鴎外全集を読んでいた時に、偶然ですが、河野与一訳『プルターク英雄伝(十)』(岩波書店、昭和三一年)の「デーモステネース」(121ページ~)と「キケロ」(161ページ~)も読んでいました。ですからPhilippica の語註にデモステネスが言及されていたので、当該箇所を改めて眺めてみました。

 

  デモステネスは紀元前384年頃~ 紀元前322年のギリシャの弁論家です。彼は滑舌に優れていなかったので石を口の中に入れて演説の稽古をした、声の鍛錬のためにかけ足をしながら一気に演説する訓練をした、大きな鏡の正面に立って練習をした等の苦労が伝えられています。このようにして弁論家としての名声を高めます。

 

  彼が活躍した頃はギリシア北方のマケドニアが力を持ち、ギリシアは衰退期で、ギリシア内ではマケドニア派とギリシャ派とがしのぎを削っていました。彼は終始ギリシア派、すなわち反マケドニア派として論陣を張ります。

 

  彼のマケドニア王フィリッポスII(治世紀元前359年~336年)弾劾の演説「フィリッピカ」は紀元前351年~341年間に10回行われています(134ページ)。しかしデモステネスはその反マケドニア演説によってギリシャ人を熱狂させます。プルタークによると「フィリッポスに対する全ギリシャ人の弁護に当たることを政治上立派な主義として取上げ、これにふさわしい論戦を始めてから、忽ち名声を博し、率直な演説によって顕著な地位を得」て「全ギリシャに於いて感嘆され」(134ページ)ます。しかし彼の人格と技量に感心したのは味方ばかりではありませんでした。ペルシャ王からも尊敬され、マケドニア王にしてデモステネスの弾劾演説の相手であるフィリッポスからも扇動政治家の中で最も高く評価されます。すなわち「政敵でさえ自分たちの論戦の相手を著名な人物だと認め」(135ページ)ざるを得なかったのです。それらの理由でこの演説「フィリッピカ」は弾劾演説の代名詞となったのです。

 

  フィリッポス二世没後マケドニア王となったアレキサンドル三世(大王)は大帝国を築きますが(治世紀元前336年~)323年に没します。デモステネスはこれを契機に民主制のギリシャは独裁支配マケドニアの支配を脱するべく活動するのですが、敢え無く失敗して大王没の翌年自殺に追い込まれます。 

 

  キケロの「フィリッピカ」 

  『プルターク英雄伝』でデモステネスと並べられているキケロ(紀元前106年~ 紀元前43年)はローマの弁論家であり、政治家であり、詩人であり、第一級の知識人です(序でながらですが214ページによると、現在の使い方と一致しているわけではありませんが、(英語で言いますと)「真空」や「空地」を導いたウアクス(ヴァキューム)、今では「個人」の意味で使われている(「分けられない」意の)インディヴィドウス、「理解 、コンプリヘンション」を導いているコンプリヘーンシオー等はキケロの作った語彙なのだそうです)。

 

  彼はあのカエサル(「賽は投げられた」「お前もか、ブルータス」で知られるジュリアス・シーザー)と時には敵対し、時には連携したりして波乱の人生を送っています。そのキケロが「フィリッピカ」を書いたと言ってもフィリップス王弾劾演説を書いたのではありません。

 

  紀元前44年にカエサルが暗殺された後、ローマではカエサルの後継者となったオクタヴィアヌス(のちのローマ初代皇帝アウグストス)と(栗山:『プルターク英雄伝(十一)』「デーメートリオス」8ページによると「情欲が強くて酒飲みで戦争好きで気前がよくて贅沢で横暴で、(・・・)」生涯を通じて甚だしく成功し甚だしく失敗し、多くの物を獲得し多くの物を喪失し、思掛けなく失脚し又望みもせずに復活し続けた」アントニウスの力が拮抗していました。キケロはオクタヴィアヌスに力入れをしていたのですが、独裁的なアントニウス弾劾の演説をします。これをデモステネスの独裁フィリッポ王弾劾演説のヒソミに倣って「フィリッピカ」と称したのです。

 

  オクタヴィアヌスとアントニウスは和平協定を結ぶのですが、その条件としてアントニウスはキケロの処刑を強硬に求めます。最後にはオクタヴィアヌスが折れます。キケロは逃亡するのですが、アントニウスは厳しく追及します。追及者ヘレンニウスは「キケロに気づき、召使にそこへ車を卸せと命じた。そうしていつものように左の手で顎を抑え、殺しに来た人をじつと見たが、髪の毛はくしゃくしゃに振り乱し顔は物思いに窶れていたので、ヘレンニウスが殺す間、大部分のものは顔を覆っていた。車からのり出した途端に咽喉を斬られたのである。六十四歳であった。アントニウスの命令通りにその首と「フィリッピカ」を書いた両手を切断した」(225ページ)のです。

 

  「フィリッピカ」   

   民主制擁護の演説フィリッピカと通常言われているのは前述のようです。鴎外全集の註はデモステネスのみ挙げています。ではありますが、多くの政治家によって、さらには、『鶏』に見られるように、多くの隣人によって幾多のフィリピッカは実行されては消えていったことでしょう。

 

  デモステネス著、中村善也 訳『ピリッポスを攻撃する演説(一)(二)(三)』は世界文学大系63 「ギリシア思想家集」(筑摩書房、1965年、91ページ以下)で、キケロー著、長谷川博隆 訳『フィリッピカ第二演説』と『第三演説』はhttp://elib.bliss.chubu.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=XC19100003&elmid=Body&fname=N04_017_039.pdf 、及び

http://elib.bliss.chubu.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=XC19101011&elmid=Body&fname=N04_018_001.pdf でご覧になれます。

 

  鴎外の生活態度   

  お菓子「鶴の子」を取り上げました拙ブログ文で、『鶏』は「鴎外の生活態度が垣間見える作品です」と申し上げました。同じ箇所で「人が土産を持って来るのを一々返しに遣る」を引用しまして「生活態度」の一端を見ていただきました。

  石田が雇っていて、石田は吝嗇で馬鹿だと思っていた婆あさんが石田の家から何や彼を持ち出しているのが分かります。その処理について167ページに次のようにあります。

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 石田は常盤橋を渡って(口入れ屋の窓口の人)へ寄って、お上さんに下女を取り替えることを頼んだ。()翌日口入れのお上さんが来て、お時婆あさんに話をした。年寄りに骨を折らせるのが気の毒だと、旦那が云うからと云ったそうである。婆あさんは存外素直に聞いて帰ることになった。石田はまだ月の半ばであるのに、一箇月分の給料を遣った。

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 ここにも鴎外の「生活態度」の一端があります。

 蛇足ですが、上の引用に「常盤橋を渡って」とあります。拙ブログでの「鶴の子」紹介時に「長崎街道の起点の常盤橋の東にあった久志記というお茶屋さん」で作られていた(http://318guan.la.coocan.jp/contents46.html )と記しました。お時さんは鴎外の寓居の近くの常盤橋東の久志記で鴎外に「鶴の子」を買ってくれたのです。

 

 

  鴎外の小品『鶏』から明治より令和と続くお菓子の話とギリシャよりローマと続く政敵弾劾演説の話に続きまして鴎外の「生活態度」に一端を見ました。これで

 

  伊藤野枝からデモステネスまで   

  100年前の伊藤野枝虐殺から松下竜一、副島辰巳、森鴎外、中野重治、ニーチェ、お菓子「鶴の子」と「呉橋」、プルタルコスのデモステネスとキケローに飛んだ他愛無い談義は終わります。松下竜一も森鴎外も中野重治もニーチェもプルタルコスのデモステネスもキケローも、それぞれツマミ読みでしたが、面白かったお菓子「鶴之子」「鶴の子」「呉橋」美味しかった。鴎外は「鶴の子」「まづいなあ」と言ったそうですが