一旬驕話(ま):森鴎外の『鶏』での 「鶴の子」から「鶴之子」を経て「呉橋」まで

 

  鴎外の『鶏』    

  中野重治の鴎外遺言論を読んだ序でに久しぶりに鴎外の作品をめくってみました。「めくってみた」と言うと怒られそうですが、椅子にちゃんと座って精魂を入れて読む気力は無くなっているので、所詮おじいちゃんがぺーをめくった程度です。そのめくっている本(「森鴎外全集第一巻」筑摩書房、昭和四十年)には『舞姫』や『ヰタ・セクスアリス』が収録されているのですが、それらは「またの日に」と敬遠しまして、『鶏』という聞いたことのない、と思いますが、読んでいたとしてすっかり忘れてしまっている、短編が目に入ったので読んでみました(156172ぺー)。主人公が小倉に着任した折の世知辛い世相を書いていまして、鴎外の生活態度が垣間見える作品です。

 

  ここで鴎外の生活態度をアレコレ説明して良し悪しを述べようという訳ではありませんで、フーンそうだったのか、と思った一、二を紹介するだけです。

 

  名物の鶴の子    

  当該書の160ページですが、

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(主人公石田の雇った)婆あさんは腹の中で、(石田を)相変わらず吝嗇(ケチ)な人だと思った。この婆あさんの観察した処では、石田に二つの性質がある。一つは吝嗇である。肴は長浜の女が盤台(ハンダイ)を頭の上に載せて売りに来るのであるが、まだ小鯛を一度しか買わない。野菜が旨いというので、胡瓜や茄子ばかり食っている。酒は丸で呑まない。菓子は一度買って来いと言われて、名物の鶴の子を買って来た処が、「まづいなあ」と言いながら皆平(タイラ)げてしまって、それきり買って来いと言わない。今一つは馬鹿だということである。物の値段が分からない。いくらと言っても黙って払う。人が土産を持って来るのを一々返しに遣る。婆あさんは先ずこれ丈(ダケ)の観察をしているのである。

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とあります。

 

  明治の中ごろは女の人が頭の上に魚を入れた桶を置いて街に売りに来ていたのです。私は初めて知りました。今一つ初めて知ったのは小倉の名物に「鶴の子」というお菓子があったことです。マシュマロのお菓子「鶴乃子」は福岡(博多?)では知られています。「鶴之子」は福岡、小倉は湖月堂の栗饅頭、と私は思っていました。小倉の「鶴の子」は聞いたことがありませんでした。

 

  小倉の和菓子「鶴の子」     

  鴎外がいい加減なことを書いている筈はありません。「小倉の鶴の子」「小倉の鶴の子」と言いながらウエブで検索してみました。「鶴の子」は小倉藩小笠原家でもお茶の時に使用されていた落雁で、「長崎街道の起点の常盤橋の東にあった久志記というお茶屋さん」で作られていたそうです。これを紹介している今井愚庵さんの「日本文化【お茶 その至福のとき】http://318guan.la.coocan.jp/contents46.html によると、 優雅で「味といえば、少々米の粉の匂いが残る、江戸の昔の味わいそのままに、現代人の嗜好におもねることなく伝統の味と形を守ってきた、貴重なお菓子」だったとのこと。

 

  「けん」さん( http://poreporetraveler.blog96.fc2.com/blog-entry-1540.html )によると、「倉藩御留菓子であった鶴の子は明治維新とともに製法が公開され小倉城下の複数のお店が作り始め戦後も2軒のお店が製造していたそうで」して、「そのうちの一軒が江戸時代は小倉藩御用菓子司だった福田屋というお店」で「昭和52年の廃業」。「戦後も鶴の子を製造していたもう一軒のお店である久志記(くしき)は明治元年創業のお茶屋さんで、(……)残念ながら2007年に廃業」しています。上記の福田屋さんで修業した「栗饅頭の湖月堂」が福田屋の閉店後に各方面からの慫慂があり引き継ぎ「鶴の子」を作るようになりました……とあります。 

 

  「鶴の子」は福岡にだけではなく小倉にもあるの? しかも「栗饅頭の湖月堂」のお菓子で! と急いで湖月堂のページに入ってみました。トコロガ「商品案内」に「鶴の子」は掲載されていません。これを書いているのが2024年です。久志記(くしき)の廃業は2007湖月堂に引き継がれた年は書いていませんが2008年として15年も前のことです。老舗が2軒売れなくて廃業した位のお菓子です。やはり売れなくて廃品にしたのだろうと思いました。念のためにウエブで問い合わせてみました。注文で作っていると回答がありました。店舗に行って注文しますと5日か6日で受け取ることが出来ました。

 

  大きな餡が入っている小さな落雁でした。落雁の部分が皮ですが、餡が大きいのでこの皮はとても薄いのです。黒文字を使うと薄い米粉の皮はボロボロと壊れてしまいます。それでは食べにくいので、指でつまんで一口で食べるお菓子です。前記の今井氏の言われるように「少々米の粉の匂いが残る」味でした。

 

  私はお菓子の評価は出来ないのですが、クッキーやケーキに疲れた方は「江戸の昔の味わいそのままに、現代人の嗜好におもねることなく伝統の味と形を守ってきた、貴重なお菓子」の「鶴の子」を試してみてはいかがでしょうか。

 

  福岡の「鶴之子」と宇佐の「呉橋」    

  という訳で現在は福岡石村万盛堂の1910(明治43)年に作られ始めた「鶴之子」と予約販売の湖月堂「鶴の子」 tsuru no ko と呼ばれるお菓子についての他愛ないお話ですが、書くと「鶴の子」と「鶴之子」二つあります。「鶴の子」は落雁ですからまったくの和菓子ですが、「鶴之子」はマシュマロで餡をくるんでいる菓子です。餡が入っているので和菓子ではありますが、生粋の和菓子ではありません。この「生粋」でないところが「鶴之子」が売れ続けている所以かもしれません。

 

  tsuru no ko とは関係ないのですが、大分の宇佐に餡が入っていてカステラのように長い「呉橋」という落雁があります。小倉にしても福岡にしても tsuru no ko は一口で食べます。小倉の「鶴の子」はお茶の菓子だったそうですから上品なTPO では一口では食べなかったのかもしれませんが、マ、あまり上品ではないおじいちゃんは一口で食べると思います。福岡の「鶴之子」 はごく普通に一口です。

 

  宇佐の落雁「呉橋」は、https://usa-seigetsudo.com/service/ にありますように、一口では食べません。カステラのように切らないと食べることが出来ない珍しい餡入り落雁です。ではありますが、食べるたびにナイフを入れなければなりません。今では多くのカステラは適当な幅で切っていまして、家でナイフを入れる手間は不要です。「呉橋」もそうなっていましたらおじいちゃんとしては食べ易くはなりますが、技術的に費用的に簡単にはいかないものでしょうネ。

 

   tsuru no ko と言いましても・・・・・・    

  上は鴎外の『鶏』をめくっていましてオヤと思ったところから始まった小倉と福岡の tsuru no ko のお話です。当ブログ子は小倉と福岡の地以外での tsuru no ko につきましては不案内です。各地、または上記以外にtsuru no ko や「鶴の子」がありましても別のお菓子ですし、別の歴史を持っているでしょうから、ご留意ください。     (この項続く)