一旬驕話(の):序破急   

  小説での起承転結と劇での序破急   
  このブログでちょうど5ヵ月前、2023年8月10日更新の「一旬驕話(る):小泉八雲『蚊』 または起承転結」で小泉八雲『蚊』に見られる見事な起承転結について申し上げました。それを書いている途中に、そう言えば作劇術では序破急もあるナ~と思い出しました。

  起承転結は元々は詩について言われ、時には散文に適用されています。散文とは言ってもせいぜい『蚊』のような短編小説にではあります。さて序破急ですが……

  教科書は    
  序破急についてのニワカ学習の教科書は日本古典文学大系65 久松潜一、西尾實校注「歌論集 能楽論集」(岩波書店、昭和36年)と日本思想大系24表章、加藤周一校注、解説「世阿弥 禅竹」(岩波書店、1974年)に掲載されている(いずれも前者では西尾実、後者では表章の校注による)世阿弥『風姿花伝』、『花鏡』、『拾玉得花』、『風姿花伝』のうち序破急のテーマに特化した小編『能序破急事』です。

  上記いずれも奥ゆかしき古文に加えて当方は今までアプローチ、タッチしたこともない能の理論書ですし、奥義的雰囲気に満ちている近寄りがたい本ですので、おそるおそる覗いてみたというところです。

  序破急は元々は舞楽の用語で、舞楽では一曲が序破急三部に分かれていたそうです。すなわち一曲の構成法です。これは分かり易い。長距離走でスタートしばらくは様子を見ながら走り、まもなく周囲と駆け引きをしながらも自分の走りを走り、終盤になったらラストスパートをかけるという図です。

  一日上演における序破急     
  世阿弥(1363 ? ~ 1443年)は足利義満に取り立てられた能楽師ですが、舞楽で使用されていたこの序破急を能に適用したのです。すなわち音楽分野でのカテゴリーを演劇分野に拡張したのです。
教科書によりますと、当時は一日のうちに何番もの能を観ていました。観るといっても今のように舞台に向かって座って心を込めて、または心を込めたふりをして鑑賞するわけではなく、客と話しながら、酒を飲みながら、今ですとテレビに映っている演歌をチラチラ見る聞く如く耳にして目にしていたのです。一日のうちに五番あるとすると最初は「序」であるからして、祝賀の意のこもった目出度い能を披露し、二番目、三番目になると「破」、すなわち音の調子も動きもしとやかで落ちついた、優雅で情緒豊かな能を選ぶ。「急」ではたたみかけるような調子の身の動きも軽やかな能を選びます。


  BGM的な位置づけですから演者は宴たけなわの席に急に呼ばれることもあれば、主賓は序の時間には席にいなくて三番目、四番目の能の時に現れることもあります。そんな席で、先ず「序」の能だ、次に「破」のカテゴリーの能だ、というのはTPO違反と言うべきで、その場にあった能を演じなければなりません。能の座長は場の雰囲気を敏感に見て取り演目を決め、時には演じ方まで指示しなければならないマルチタレント、有能なプロデューサーでなければ務まらなかったのです。

  ここで説明されている序破急は一日のうちにいくつもの能が演じられる場合の序破急です。「なるほど、そんなものか」と思わないわけではありません。現在でも寄席では昼過ぎからいくつもの落語が語られますが、このような観点からの構成はされているのでしょうかネ~。私はそうたびたび寄席に行ったことはないのですが、今の三遊亭圓歌が三遊亭歌之介の時代に何度か聞いたことがあります。最後に演ずる歌之介はいつも「急」の雰囲気だったように思います。

  長丁場にわたる上演時の序破急  
  上では一日の間に四番も五番も演じる場合の序破急を見ましたが、何日も続いて、言わばお相撲さんの春場所、夏場所のように、演じる場合もあります。その時には日の順番によって演目を変えるだけではなく、出し物のテーマも序破急のセンスに従って変えるべきだと言います。このような長丁場で大掛かりな序破急は現在では見られません。

  単独作劇術での序破急      
  『拾玉得花』に「一番の中も面白く感じられるように序破急を勘考しなさい」と解されたり、「その日に演じた流れの中にも、一つの演目の中にも序破急は求められる」と解される一節があります。今までは何日も続く時や一日のうちに何番も演ずる場合の序破急を見たのですが、ここでは、一番の能の中にも序破急アリという訳です。
「序」の段階はこの物語の入り口、「破」は物語進行の主要な部分、「急」は物語の終わりの様子です。

  序ではありますが、ChatGPT でも Wikipedia でも(私が参照しました時にはWikipedia よりも ChatGPT の方が短くて簡明ではありましたが)「序破急」の説明はすべてこの一番、独立した一つの作品内での構成法と解して説明しています。そして作劇でも文章法でも、さらには「序破急」のビジネス適用においてもこれに類する解釈、説明に立脚しています。再び「私が参照しました時には」このようでした。皆さんが参照してみると事情は異なっているかもしれません。

  ではありますが……   
  いままで考えたこともない能についての古文を手に取り、慣れない難しい字をみつめ、入力したこともない字を扱い、すなわち頭も目も手も慣れない作業に疲れてきたので、
To be continued.  とさせてください。