2クール目が始まり10日ほど経つと妹がドナー患者として入院することになった。

 妹は習い事としてバレエも通っていたのでなかなかお見舞いには来られず会う機会はなかったのだが、今回ドナーとして入院することになってから頻繁に私の部屋に訪れるようになった。特にすることも放すこともないのだが、時々来ては私のパソコンでタイピングの練習をしたり、スマホをいじったり、夜には一緒にテレビを見たりしていた。普段はあまり会話もすることがなかったが、病気がきっかけで家族との距離は縮まっている気がした。

 現にあまり仲がよくなかった妹が部屋に来てくれ、妹を邪険に扱うような態度をしながらも存外私は居心地が悪くないと思っていた。

 

 妹が入院してから5日後には妹の白血球を無事採取できたとの報告があった。採取に際して麻酔はするが大腿部から太い管を入れるのは相当痛かったらしく後からその報告も受けた。

 ありがとう、と本来は言うべきなのに恥ずかしくて言えなかった。

 

 翌日から私は逆隔離になり妹も退院となった。面会制限も加わり私にはつらい日々の始まりである。父にも母には長時間話すことができない。一人の時間が増えるため孤独感が増す。その日は一気に部屋が静かになった気がした。

 

 2クール目は病院に戻ってきてから半月ほどで終わった。先生から一時退院の許可が再び出たときは嬉しくて仕方なかった。1クール目は一ヶ月近く苦しんでいたし、存外早く2クール目が終わり、また解放されると思うと楽しみで仕方がない。それに今回は『外泊』ではなく『退院』扱いになるので以前よりも長めの帰宅を楽しめるのだ。

 すぐに父に連絡をし、退院なので多少手続きに時間はかかったがそれでも無事病院を出ることができた。ただ少し気になったのが胸の圧迫感だった。何事もないことを祈り、父と我が家へ帰った。

 その日は結局疲れて夜の八時には寝てしまった。だが、胸の圧迫感はとれないばかりか、心臓の鼓動も早くなり息苦しい。大丈夫だろうかと恐怖を感じながら眠りについた。

 次の日も圧迫と心臓の鼓動や息苦しさ、さらには熱も出てしまい、病院に連絡すると明日検査するので病院に来てほしいとのことだった。せっかくの一時退院を私は全く楽しめていない。

 ここで問題が見つかって入院になったら嫌だな・・・。

 嫌な考えばかりが巡って、その日の夜もなかなか寝付けなかった。

 翌日父と一緒に医大へ向かった。不安は拭えない。

 休日だったために救急外来で採血をした。主治医の先生は当番ではなかったらしく別の血液内科の先生が見に来てくれた。だがその先生からは「安全を見て入院した方がいいのではないか」という話をされた。まだ検査結果が出てないし、主治医の先生の意見を聞いたわけでもないから確定ではないにせよ、私にとってその宣告は苦しいものだった。

 せっかく、せっかく半月耐え抜いて、やっと初めての『一時退院』で、食べたいものとか行きたいところとかたくさんあるのに、なんで?まだ2日しか経ってない。まだ何もしてない。不調のせいでろくに家のご飯も楽しめていないのに!

 考えれば考えるほど涙が溢れてくる。

どうして、どうして、どうして!

「検査結果次第だよね、大丈夫」

 また父がそう励ましてくれる。

 

 

 

 

 

 

(番外というか書き忘れの追加)

 

 

 

 ひどい抗がん剤治療に耐えながら、気分のいい日にはテレビをつけていた。

 その日テレビでは二十四時間テレビがやっていて、私は首に管がつながったままそれを見ることにした。

 ただその夜にやっていた内容は私と同じく「白血病患者」の物語だった。十代の頃から白血病になり再発などを繰り返しながらも、必死に闘病する青年の姿が写されていた。

 彼は病を患いながらも結婚したがその後結局亡くなってしまった。奥さんが涙ながらに旦那さんの話をし、写真や動画などが次々とテレビに映し出され涙を誘うようなものだった。

 会場の芸能人たちは涙を流していた。でも私はとても涙など流せなかった。きっと多くの視聴者は涙を流しているのだろう。

「がんばったね」

「残念だったね」

「かなしいね」

 そう感じるのだろうが、私たちは恐怖で震えていた。

 偶然点滴を交換に来た看護師さんに思わず聞いてしまう。

「私も死んじゃうんですかねー・・・」

 看護師さんはテレビを一瞥した後

「それほかの患者さんも見てて心配してました。毎年それをみてそうおっしゃる患者さん多いんですよね」

 別にお涙ちょうだいのテレビを批判するわけではないが、二十四時間テレビのような人に希望を与えたりするはずなのに、と感じた。

 細かに描写された白血病患者のその後が、自分のその後を描いているようで怖かった。ぼんやりだった「死ぬ」という道筋が明確になったような気がした、

 父にそのことをぼんやりと話すと、父は言葉を詰まらせながら、そうだな。とだけ言って静かに涙を流していた。

 あ、しまった。申し訳ないと気づいたときには遅かった。また父を泣かせてしまったことに罪悪感を覚える。

 私はせめて、今も頑張って闘病している人や病気を克服して今はこんなに幸せですって言う人をテレビで紹介してほしかった。闘病の末亡くなってしまったという話は美談ではないし、ただの感動する話としてテレビにあげられるのは嫌だと感じた。一般の人には悲しい話として同情されたり一つの娯楽として処理されるかもしれないが、私たち闘病患者やその家族にとっては、明日は我が身なのだ。せめて二十四時間テレビのようなものではすべての人に希望を与えてくれるような映像を流してほしいと強く思った。

 母にその話をすると、

「やだね~」

とだけでそんなに重く感じてはないようで少し安心した。

 半分愚痴のようにその話をして母とは話が少し盛り上がった。

 

 結局あの日を酒井に私は二十四時間テレビを見るのをやめた。

 私は未だにあの話が怖かったりするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日は土曜だったので昼前から友人たちが来てきてくれて、スマホゲームの協力プレイで遊んだ。昨日残ったお菓子や飲み物を食べながら笑い、時間はあっという間に過ぎた。

 最終日にも友達は来てくれて、帰るときに「またね」と言った。昔とは重みの違う「またね」だったが、私も「またね」と返した。

 夕方6時に家を出てすぐに病院に着いてしまった。

 再び戻る現実がいやだった。母と父と妹の三人で一通り会話をしたあと、面会終了のアナウンスが鳴る。

「帰らないで!」

「おいてかないで!」

なんて言えようか。その言葉たちをぐっと飲み込んだ。

 

「じゃあそろそろ帰るね。また明日来るから」

エレベーターが閉じ、三人が見えなくなったので自分の病室に戻る。静かになった病室が、さみしかった。

『三日間、ありがとう』

親にそう連絡をし、私は真っ白で硬いベッドの上で眠りについた。

 

 

 外泊から帰ってきてから一日が経った。

 早くも今日から首から管を入れ、そこから抗がん剤を投与する予定が入っていた。

先生たちの予定に合わせ、時間になると処置室に案内される。

上半身を脱ぎ、ストレッチャーに横たわる。そこで首を消毒し、麻酔を打ってから管を入れる。管を入れた後は固定のために糸で縫い止める。そしてガーゼで覆い、管が血管に入ったか確認するまで仮止めをする。

 処置中は心臓がいつも以上に鼓動を刻む。首に針や管が刺される恐怖は尋常ではない。いくら麻酔がかかっているとはいえ所詮部分麻酔で、管が首の血管に入ってくる感覚がある。処置が終わっても首に残る異物感。ものを食べるときの飲み込みにくさ。

 処置が終わると上着を着て、管がちゃんと血管内に入ったか確認するためにレントゲンを撮る。レントゲン室までは車椅子で押されて行き、レントゲンが終わり入っているのが確認できると仮止めされていたガーゼを外し、消毒液で管を入れた部分を中心に広めに消毒。その後専用の保護テープを貼る。

 自分の病室の鏡で確認すると生々しく首に管が入っている。

 違和感は数日でとれるらしいが、このなんとも言えない感じがいやだった。

 こうしてまた抗がん剤による化学療法。2クール目が始まった。