血球が上がり始めてすぐ、妹から珍しく連絡があった。 

何かと思い見てみると動画が添付されていた。開いてみると、GReeeeNの「キセキ」のBGMと共に「お兄ちゃんへ」の文字が出てくる。妹からの手作りの動画だった。 

 文字とBGMと背景で構成された動画は数分ではあったが、そのなかには私を心配してくれる内容の言葉ばかりだった。また、「お母さんもさみしがっているから早く帰ってきてね」と。 

 それを見終えたときには涙が溢れていた。 

 妹に泣かされることなどないと思っていた。 

 高校に入ってから一層反抗期が増し、私が入院してもその反抗期は止まらなかった。一時帰宅で帰ると、遅くに帰宅した妹と母が喧嘩していて、妹が口汚く母を罵り母を傷つけていたり、真面目とは言いがたいような格好をした彼氏と付き合ったりと絵に描いたような反抗期を見せていたし、それに対して私もあまりよく思っていなかった。だけどもそんな妹だが私のことを心配し、こんな動画を作ってくれたかと思うと涙が止まらなかった。 

「悔しいなぁ、でもありがとう」 

 泣いたことはさすがに伝えなかったが素直に妹に「ありがとう」と連絡をした。 

また妹からは「頑張ってね」ときた。反抗する妹ではあるが変なところで憎めない。ちょっとずるい気がした。 

 

 その動画が送られてしばらくしてから体調や血球もマシになり、完全無菌室から一般病棟の個室に移動となった。とは言ってもまだ体にたくさんの管が着いていて、痛みを和らげるための麻薬も繋がっているし、移動だけでずいぶんと大がかりだった。 

 部屋移動の際少しの間立っている時間があったんだが、5分も持たずに足がガクガクし、息も半端ではないくらい上がり、なにかに寄りかからないと立てないほどだった。そこで私は改めて自分の筋力と体力の低下を実感した。 

 移植を乗り越えあと少し。ここで体調が安定すれば帰れるのだ。だが今、11月半ばの段階で私の体力は絶望的だった。まだ食事だってろくに取れていない。 

 しばらくの間固形物を口にしてこなかった私の胃は縮小しているのはもちろんだが、すぐに固形物を入れて食べると胃がびっくりして吐いてしまったりと胃自体がまだ固形物を受け入れられないらしかった。だからここからお粥を更にペースト状にして食べやすくしたやつから少しずつお粥に戻し、お粥から米などの固形物に戻すのだ。それを聞いたとき気の遠くなる話だと思った。 

 あと一ヶ月少しで年が明ける。年明けを病院で過ごすのだけは嫌だ。私は気を奮い立たせ、本来ならそのペースト状のお粥から始まるところ、お粥からのスタートにしてもらった。この段階で食べれるのはいわゆる「流動食」のみだ。スープや飲み物お粥などで、味も今現在あまり感じにくい。その感覚も戻したい。やることが一杯だった。 

 体力を戻し、お粥から米を食べられるようになり、更に味覚も戻す。 

 頑張るしかない。だが、一体どこまで、いつまで頑張ればいいのだろう。ストレスは溜まっていく一方だった。 

 

 

 

 

 

 

 薬を粉末に変えた日、先生から朗報があった。血球が上がり始めたから、これから回復に向かうということだった。それに加えて明日から30〜60分の面会が可能だということも伝えられた。久々の面会ではあったが私の体力も気力も尽きかけていた。 

 次の日父が面会に来てくれた。心配そうな顔をしているのが申し訳なかった。でも今は口内炎の腫れで喋ることは叶わず、スマホのアプリで、入力すれば自動で読み上げてくれるものを使って会話した。久しぶりの親との会話は嬉しかった。 

 後に母から聞いたことだが、母がこの日面会に来たとき、私の顔の変化に息を飲んだという。顔はパンパンに腫れ上がり、もともと痩せ型であった前の私からは想像出来ないほど顔が腫れ、髪も眉毛もまつ毛もない、その姿を見て、本当に息を飲んだ、と。私はその日の痛みを耐え抜くのに必死で、鏡なんてほぼ見なかったから、その具合がよくわからなかったし、もはやどうでも良かったから気にしていなかったのだ。 

 その日を境に口の中の口内炎は引きはじめ、先生の言うとおり回復へと向かいはじめた。口内炎が良くなると、飲めなかった薬も次第に飲めるようになり安心した。 

 だが熱も頻繁に出るようになってきたのだ。それが菌によるものなのか、感染源はどこなのか、というのも調べなくてはならない。発熱の原因の一つとして首の管がある。首の管はだいたい1ヶ月を目安に変えるのだ。それは1か月の間に固定のテープを取り替えたりしている間に菌が入り、管が原因で発熱している場合がある。その場合は管を抜いてまた入れ直すしかない。熱による合併症の危険性もあるし、私は不安でしか無かった。 

 ただ日に日に良くなっていく口内炎はありがたかった。口内炎が良くなりはじめたので私は冷蔵庫にあったゼリーを食べれるようになった。抗がん剤等による味覚障害も不安だった。ゼリーの味はずっと飲んでいた馴染みのある味だったからかあまり変化は感じられなかった。そのあとはりんごジュースを試してみたが微妙に味がしなかった。 

どうしよう!と急に不安になった。看護師さんから人によっては一年経っても戻らない人がいると聞いていたので私はひどく怯えた。このまま食事を楽しめない体になるかと思うとそれだけでも十分な恐怖だった。 

 パックのリンゴジュースの匂いを嗅いで必死に味を想像の中で思い出す。昔何かのテレビで、ただのクッキーをVRでチョコクッキーに見せて、匂いもチョコクッキーの匂いを漂わせて食べるとチョコクッキーの味だと勘違いする、というのを思い出し、それを参考にりんごジュースの匂いを嗅ぎ、頭の中でりんごジュースの味を思い出す。そうしてもう一度りんごジュースを、飲むと先ほどよりもりんごジュースの甘みを感じたのだ。少しずつ、少しずつ良くはなっている。ただ、私はいつ帰れるのだろうか。もう11月も半ば。熱も治らない。不安と希望で言えば圧倒的に不安が私の中で占めていた。 

 帰りたい。その一心だった。 

 

 

 

※ 閲覧注意

 

 

 

 抗がん剤による副作用は思ったよりも早くで始めた。食事の匂いを嗅いだだけで吐き気に襲われ、トイレは息を止めてするようになった。 

 血球はほぼゼロに近いため感染すればアウト。そのため、感染予防は欠かせず、トイレで大便をすればウォシュレットで洗い流し、その後拭き取って、さらにアズノール軟膏を肛門に塗り、感染を防ぐ。もちろんその後手を洗わねばならない。投薬の影響か便が緩くなり、頻繁に便に行くことが多い。ついさっき行ったのにまた行きたくなる。また行けば体力がない中、便をしてウォシュレットして拭いて軟膏を塗って最後にてお洗う。途轍もなく億劫だ。歩くのがだるくなり腰が曲がる。 

 特に粘膜系はかなりあれることが多く、口内炎もその一つだ。 

 移植してから数日後口内炎ができはじめ、さらに腫れ始める。ご飯はもう口にするどころか受付を拒否。ゼリーさえ喉をなかなか通らない。口から食べることが困難になり始め、内服が点滴に変わるが、いくつかは経口摂取しなくてはいけない。 

 必死だった。 

 飲まなきゃいけない薬。それが大きく苦い。看護師さんに毎回手伝ってもらい、四等分し、さらにそれをスプーンの上でゼリーと一緒に流し込む。たった一日3回のこの作業さえも苦痛で、口が喉が痛い。口の中は乾燥し口の中を少しでも動かすと口内炎に激痛が走る。喋れない。手元のスマートフォンのアプリで打った文章を読み上げてもらいコミュニケーションをとることになる。 

 そして体を動かすのも大変で、体を洗うときはベッドに横たわった私の下に防水シートを敷いて看護師さんに陰部洗浄を含めしてもらうまでになった。 

 まだ年若い18歳の私がベッドに横たわり無言で看護師さんに陰部洗浄を含め介護のような状況は悲しくて虚しくて仕方がなかった。なにやってるんだろう。そうぼんやり考えながら、涙が出そうになるのを抑えるのに必死だった。 

  

 この間に一日は忙しく、朝6時に起きて体重を量り、血圧を測り、熱を測るのを看護師さんが手伝ってくれる。朝8時に食事はできないので薬だけを飲み眠る。9時過ぎに先生らの見回りが来て終わって寝る。12時にまた薬だけ飲み寝る。13時過ぎに点滴の様子を見ながら看護師さんに体を洗ってもらう。18時に薬を飲んで寝る。 

 何もない。何もする気さえ起きない。体がだるいから。体がだるいのにトイレには行きたくなる。一日に何度も何度もトイレに通い一連の感染予防をする。さらには点滴が常に始まったり終わったりするのでそのたびに看護師さんがやってくる。体には何か合ったときのための心電図が着いていて重い。抗がん剤系を投与するときは血圧体温を測り10分後にまた変化がないかチェックに来る。 

 口の中の痛みにストレスにいつ終わるかもわからない不安。起きているより寝ている方が楽だった。何も感じないしすぐに一日が終わるから。 

 生きているのがつらかった。いつこの苦しみから解放されるのだろうってずっと考えていた。看護師さんは曖昧な応えしかくれず絶滅さえ感じた。 

 何の意味もないようなくそみたいな、苦しい時間は私の中で、冗談ではなく、永遠にさえ感じた。 

 そして移植から十日ほど経ち、必死に飲んでいた経口摂取の薬さえ、喉を通らなくなった。 

 ああ、終わったとさえ思った。せっかく頑張っているのに、これを飲まないとだめなのに、ついに飲めなくなってしまったと看護師さんに泣いて訴えた。看護師さんは焦りながらも優しく、次は粉砕して粉状にしてみようと提案してくれた。もう私の精神はいよいよ崩壊しかけていたとさえ思う。