私が入院している最中、時々一時退院で帰った時に妹の彼氏を何度か見てはいたし、さすがにあの妹でも妊娠まではしないだろうと思ってはいたが両親共々、あの妹ならやりかねないと一抹の不安を抱えていた。だから父に至っては警戒していたし常に彼氏に声をかけたり、直接言わずとも、あんま変なことするなよ的なニュアンスで注意はしていたのだが、それも虚しく無駄に終わってしまった。 

「マジか、ついにか…」 

私の口からもため息混じりの言葉が漏れる。 

 その後すぐに父が到着し、妹を除いた家族会議が始まった。 

 まず内容としては、『子供をどうするか』という内容だった。妹はまだ齢16である。仮に産んだとするならその後妹は周りの同級生とは全く異なり自由とは言い難い生活になる。 

 これから始まる自由と青春を諦め、子供を産むのか、でも産んだ後はどうするのか。誰がどう面倒を見て、誰がどう援助するのか。はたまた援助するのかどうか。 

 産まないとなると、早々に堕さなくてはならない。だが堕すにもリスクがあり、堕す際に子宮が傷つくと将来不妊になる可能性もある。本当に将来結婚して子供が欲しいとなった時子供が出来ないというリスク。 

 私は今回の治療で不妊になった。実際になってみて、意外にそのショックは大きかった。人として欠陥しているのでは無いか。そんな感覚に見舞われる。それに将来、もし結婚して子供が欲しいとなった時自然妊娠は出来ないのだ。精子保存はしているので人工的に妊娠することは可能だが、体外受精には大金が必要になるし、年数が経てば経つほど、経年劣化により妊娠の確率が下がることもあると言う。 

 男性は女性より子供を欲しいという意識が薄かったりするので、私は大丈夫かと思っていた。でも、実際に不妊になると精神的にも負担が凄かった。そう考えるともし、妹が不妊になってしまい将来それで悩むことになったらと思うといたたまれない。 

「妹はなんて?」 

母に問うと、妹は産みたい。という事だった。 

 産ま無いという選択肢を選ぶなら早い方が良いと病院の先生から言われたらしく、期限は1週間とのことだった。 

「父さんは?」 

 父は産むのには反対だと言う。当然だと思った。まだ産むには、苦労するには若すぎる。高校だってあるし、まだまだ若いからこそやれることがたくさんある。早くから子供を産んで苦労してきた人を知っている、だから自分の娘にはそんな思いをして欲しく無いとのことだった。でも、堕す事になったら妹の精神的な負担だってあるし、もし不妊にでもなったら。 

「堕すならもちろんそのあとのケアもする。でもあいつがどうしても産むなら、産んだ後もちゃんとフォローする」 

父の中でもどうしたら良いかわからない葛藤があるようだった。 

 期限は1週間。まだ彼氏とどうするかも決まっていないと言う。明日彼とその両親と話すらしいがどうも雲行きは良く無いらしい。彼としては堕して欲しいと言うことを言われたらしく、その問題もある。堕す堕さない、産むんだ後産まなかった後、高校のこと、問題は山積みでとても1週間で解決できるとは思えない。でも解説するしか無い。解決というよりは取り敢えずの方針を決めると言うところだろう。だが、それだけにしても時間が足りない。何せここで話していることは、人ひとり、殺すか殺さないかの話でもあるのだから。 

『事実は小説よりも奇なり』 

 まったくその通りだと思った。 

 その日は結論は出ず取り敢えず解散となった。まだ自分の退院すら決まっていないのに。ため息が思わず漏れる。きっと両親は私以上に頭を抱えていることと思う。これからどうするのかどうなるのか、別の意味で不安しかなかった。 

 

 

 

 




お久しぶりです。

物語はいよいよ終わりに近づいています。
話としては取り敢えず退院したら終わりかな、と思っています。
と言うのもこの話は父の日記を頼りに書いているのですが退院した後のことは書いていなくて、詳細な話が書けないと言うのがあります。
でも実際白血病は退院後も通院し免疫抑制剤の調整やGVHDと呼ばれる症状の様子を見ながら、体調が落ち着くまで通院を続けます。免疫抑制剤等の詳細は後々お話ししますが、そこを乗り越えて、ようやく安定した生活を送れます。取り敢えずそこまで書ければそこまで書こうと思ってます。

このエッセイを書き始めてから身近に同じ人がいたり、自分がなっているなっていた人がいたり、応援のコメントをいただいたり私としてこれを書いているうちに励まされました。
私はその後も実は入退院を繰り返していて、その経験も含め、今同じ病気の人やそのご家族の人たちの手助けになれればと思っています。
施設の設備や細かい病気の違いはあれど、入院の時あってよかったモノや、治療中しておいて良かったこと、しなきゃ良かったことなどもしあればコメントをくだされば、お答えします。
求められているかは分かりませんが、少しでも力になればと思っています。
また、この話は同じ白血病の人やその家族に向けて書いているつもりです。
単純に白血病と聞くと死を連想してしまいますが、最悪移植になってもちゃんと生き延びることはできるので前向きに闘って欲しいと言う願いを込めています。治療は大変ですが生き残ると言うことは大切なことだと思います。
現実はそう簡単でも甘くも優しくもないですが、これを見てくださってる皆さんを含め健やかに幸せに日々を過ごせることを祈っています。

エッセイの方、もうしばしお付き合いください!m(__)m

 

 

 

 

 個室に移動になり数日の間はお粥を食べていたが、なにせ味が薄くて美味しくない。一応工夫としてお粥の中にふりかけを混ぜて食べたり、お茶漬けの元を入れて混ぜ食べたりと工夫を凝らしながら、しばらくを乗り越えつつ、味覚を元に戻すために父に頼んで匂いが強く味を鮮明に思い出せるモスバ-ガーのクラムチャウダーを頼み、味の確認をした。幸いクラムチャウダーは私の知っている味で、若干薄く感じたが、それでも味を感じることにうれしさを感じた。 

 その中で移植前よく食べていたカップ麺のうどんを食べたが味が全くしなかった。あげく食感ももそもそとしていて、まるで靴紐を食べているようだった。その後も何種類か麺類を食べてみたが軒並み全滅。どれも麺の食感とは言いがたい食感でとても食べられたものではなかった。ただ、コーンスープやクラムチャウダーは味もしたし食べられたのでそのまま継続して定期的に食べたり、飲み物もリンゴジュース以外を買ってきてもらって味がするしないかを確かめt利した。 

 問題が起きたのは食事が意外と順調に進んでいたときだった。下腹部に嫌な痛みを感じたので主治医にその旨を伝えるとしばらくしてからCT検査を受けることに。 

 嫌な予感がした。その予想は当たり、先生から臓器に炎症が見られるとのことだった。その炎症を抑えるために数日の間食事が禁止になった。せっかく順調に進んでいた食事が止められた。一歩進んで二歩下がるような状態だ。 

 また、退院が遠のいた。心が折れそうになる。 

 熱もなかなか下がらず食事もできない。 

 食事ができない間は、点滴から高カロリー液を流しカロリーを摂取する。それでも経口摂取とは比べものにならないし、カロリーもそれだけでは不十分だ。焦りは増すし、熱は下がらない。最悪だ。 

 

 結局絶食は4日間続いた。 

 絶食開けには父親に頼みクラムチャウダーを頼んだ。久々に食べた食事はよく染みたし、早く帰りたいという気持ちが一層強くなった。 

 解禁されてからすぐに先生に現状食べられるもので母が作った味噌汁波動だろうかと提案した。保温容器にできてすぐの味噌汁を入れて持ってくるのはどうかと。すると先生は首を縦に振ってくれた。早速母に連絡をし、私の好きだったもやしのお味噌汁を頼んだ。昼過ぎ頃に母が持ってきてくれた。正直味が一番心配だった。もし味がしなかったりしたらどうしよう。せっかくの母の味が感じられなかったら、と不安だったが、それも杞憂に終わった。久しぶりに食べる母の味噌汁。1ヶ月以上ぶりだ。懐かしい母の味が胸いっぱいに染み渡る。とてつもない満足感と満腹感が広がる。 

 また少しずつ食べられるようになり、個室に移動してから本格的に始めたリハビリも順調だった。まだベッド上での運動が中心だが体力の回復も感じる。米もあのあとすぐにお粥から米になり、米も半分を必ず食べるように努力して、毛なり無理矢理詰め込んではいるが帰るためにと必死に頑張った。 

 そんなときだった。12月に入ったばかり。その日は母が夕方にお見舞いに来た。午前は忙しかったらしい。だが、母が私の個室を開けたとき、いつもとは違う重い雰囲気を感じた。 

 冬の夕方nあので日はもうだいぶ沈み始め私の個室は薄暗くなっていた。 

 また感じた嫌な予感。胸騒ぎ。母の疲れ切った顔。嫌な予感は、よく当たる。 

 

 

続く