お久しぶりです。

無事退院しました。

高校も紆余曲折、先生たちのお陰で卒業できました。あまり詳しくは書きませんがとても感謝しています。
公立校だったので、履歴にその高校の名前をかけるのは私にとって誇りにさえ思います。

エッセイは正直退院したとこで終わりかなって思ってます。
そのあともありますが、小説みたいにもう書けないので、もっと崩した日記のような書き方になると思います。

あと何回かで終わりにしようとも思ってます。

ここまでありがとうございました(^人^)






 退院したあとは1週間に1度医大にて検診という形で通院して、血液検査の結果をもとに免疫抑制剤を含めた薬の調整を行うとのことだった。
 退院する頃にはリハビリのおかげもありある程度の体力は戻ってはいたものの、家で普通の生活をするだけでも疲れてしまった。
 寝床も2階の自室から1階に移し、リハビリがてら2階に行くという形をとった。
 
 退院してから妹の問題はようやく完結した。
 結局、彼氏からは養育費を受け取らず認知もしない事で今後会わない約束をして妹と縁を切る。そして妹は、子供を産む決意をした。
 高校はすぐに通信高校へ転校することで、また新たに一年生からやり直さなくていい方向になった。あとは出産を待つばかりとなった。
 
 退院後の私の体調はまだまだ不安定で、感染症やGVHDによりまた入院するなどの可能性は高く手放しに喜べる体調ではなかった。
 だが4月には無事高校を卒業できた。卒業式自体には参加できなかったがその前日にクラスメイトに会いに行った。
 マスクと帽子をした完全装備で、クラスメイトにもマスクをしてもらって。
 久々に会うこともあり緊張もあった。私の知らない間にみんな進路が決まっていて、就職なり進学なりそれぞれの道が決まっているのに、私は何も決まっていない。その劣等感にも似た感情を抱えながら教室のドアを開けた。
 教室で待っていたのは、私が入院した時と変わらないあのままのクラスメイトだった。
 気さくに、何も私に感じさせないように気を遣ってはくれているのだろうけど、それが嬉しかった。
 担任からも少しの説明と、私から少しの挨拶があったあと、写真を撮って、私の体調もあり解散となった。
 その日クラスに配られた卒業アルバムにクラスメイトが名前を書いてくれて、話しかけてくれて、でも少しずつ教室から人が消えていって。きっと私がいない5ヶ月の間に色々あって、明日の卒業式で泣けるんだろうと思うと、羨ましかった。
 あらかた人がいなくなったあと、残りのクラスメイトに別れを告げて帰宅した。
 みんなに会えた満足感と、明日みんなで卒業式を迎えられるんだという嫉妬。
 この病気になってから複雑な感情ばかり芽生える。新しい感情ばかり芽生える。
 私は結局その後数日してから校長や副校長に、担任と学年主任がわざわざうちに来てくれて、自宅で1人の卒業式を行った。父と母も学年主任も泣いていた。なんてありがたいんだろうと思った。先生方の尽力と配慮があって実現出来たことだった。
 私は無事、高校も卒業することができたのだった。



 

 

 

 

頻繁に続いた。 

彼両親と話し合いをしたらしいが、うまくいかなかったらしい。 

両親と妹は今後彼と関わりたくないというのが総意で、認知や養育費の支払いも拒否する方向らしい。 

妹も、妊娠を伝えたときの彼の態度や発言を見てそう決めたらしかった。父親も彼やその両親に呆れていて、何の悪びれもない態度に腹が立ったとも言っていた。 

何度か話をしていくうちに父も含め私たちは妹の意志を汲んで、産むというならそれらのサポートを全力でしようという話でまとまった。 

そのころには首に刺さった管もようやく取れ、大部屋への移動となった。まだ血球は下がったままだが点滴も薬に切り替え身軽になった。ここまでくると退院は目前だった。 

12月の9日と11日に仮退院で、そこで何も問題がなければ2・3日後本当に退院できるとの説明も受けた。正直実感が湧かなかった。でもその頃には食事も取れるようになり、気づけば味覚障害や麺を食べたときに感じた、異物感も無くなっていた。 

 

9日の採決結果をその日の朝に主治医が教えてくれた。もうそわそわが止まらなかった。目はギンギンにさえていたし、でも動じに不安もあって。父が買ってきてくれたお守りをテーブルに置き願った。 

先生から出たのはオッケーサインだった。 

すぐさま両親に連絡を取り喜んだ。父は休みを取って病院の近くで待機していたので、すぐに迎えに来た。 

外は真っ白だった。 

雪が降り積もり一面が白く染まっていて、外に踏み出すと体に突き刺すような寒さを感じる。普段なら嫌な、寒さだが、病院では四季も温度の変化も感じない。だからこそこの久々に感じる”冬の寒さ”が愛おしかった。 

父の車に乗り込み、二人ともウキウキしながら帰路についた。 

だが、これはまだ仮退院で何かあったら本退院がおじゃんになっては困ると、家族で慎重に過ごそうという話になった。 

食事も火の通ったもののみを食べ、手洗いうがいは欠かさず、有人と遊ぶのも今回は見送った。 

 それらのおかげか無事2日を過ごすことができた。病院へ戻る日、初めてこんなにも心晴れやかに戻る日は無い。前日もぐっすり眠ることができた。 

 今までは戻ると治療で、首に管を刺したり腰に刺したりしなくてはいけなかったので、憂鬱な気分だったが今回見えているのは退院だ。あと数日、病院で過ごせば退院だ。 

 

 15日に私と両親を含めた面談があった。内容は退院後の生活の話だった。 

 たとえば、私の体へのリスクを考えるなら禁煙であること。納豆は納豆菌がどう体に作用するかわからないので基本避けること。生ものはしばらく禁止であること。免疫抑制剤といって新たに入れた妹の細胞が現状働き過ぎて私の体を攻撃しているので、それを押さえるための薬を使用するにあたって、グレープフルーツは飲み合わせが悪いので食べないこと。などなど感染症に十分気をつけることを中心にした内容だった。しかし、内容自体は退院を前提としたもので、私も両親も退院が近いのを確信し、喜びながらそれらを聞いていた。 

 その話の中で、最後に先生が「明日の採血がよければ退院です」と仰ってくれ、私たちは歓喜した。もう、心臓のドキドキが止まらなかった。 

 次の日の朝、私はお守りに必死に祈りながら採決結果を待った。病室に来る看護師さんにも、どうですか?結果でました?などと催促をしたり。 

 10時を過ぎた頃先生たちが来てその結果を教えてくれた。 

「うん、血液検査大丈夫だったから、退院しても大丈夫」 

 それを聞いてすぐにまた両親へ報告。 

父が到着してすぐに部屋のものを段ボールに詰め込みながら、やっとおさらばできるんだと喜びが隠しきれず終始ニヤニヤしていた。 

13時半には会計や荷物もまとめるのも終えて、いよいよ退院。 

退院するときにナースステーションから看護師さんがたくさん出てきてくれて私の退院を喜んでくれた。仲のよかった看護師さんは涙まで流してくれて、それを見て、「ああ、私はやっと退院するんだ」と思った。 

12月の16日、闘病を初めて約5ヶ月。やっと退院することができたのだった。