『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、
天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、
我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん
拙き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし』
(開目抄)
私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、
必ず仏界に至るのである。
天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。
現世が安穏ではないからと嘆いてはならない。
私の弟子に朝にタに教えてきたけれども、
疑いを起こして、皆、法華経を捨ててしまったようだ。
弱い者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうものである。
御本尊について書かれた「観心本尊抄」とならぶ「開目抄」は、
日蓮大聖人御自身の仏法上の立場を表明している。
しかし、最も重要なことは、
『我並びに我が弟子』とあえて書かれていることにある。
日蓮大聖人は、ご自身だけが特別だと言ってはいないのだ。
今日の聖教新聞。
”ストーリーズⅡ 池田先生の希望の励まし”
を読んだ。
1988年暮れからの2年半。
僕も彼女と同じだった。
僕も、死魔と闘っていた。
僕も、彼の人の言葉をノートに書き写していた。
僕も、心臓がいつ止まるかと感じていた。
彼の人と、純真な学会員を守りたい、
そのためなら死んでも構わないという大感情が、死魔をも突き抜けた。
~
「師子であるならば、千尋の谷から這い上がれ」
「定まらない弱い一念では、宿命を転換することはできない」
死魔をはね返す一日一日が始まった。
『ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし』
時には、そのまま永眠してしまうのではと感じ、眠ることが怖かった。
一方で、命の限りを思うと、眠る時間さえ惜しかった。
闘病記録をノートにつづり、先生の指導を書き込んだ。
強盛に祈りを重ねた。
その中で、惑う心を突き飛ばすことができたと感じる瞬間があった。
「その時の心境が、歓喜の中の大歓喜でした」
「広宣流布という法戦においても、最終的に勝敗を決するものは、
一人また一人の胸の奥に刻み込まれた、金剛にして不壊なる
一念という大感情であることを決して忘れてはならない。
”正”と”邪”、”善”と”悪”、”幸”と”不幸”、
”仏”と”魔との戦いであり、仏が、正法が、善が勝たねばならないのである」
「仏法は勝負です。
仏法は証拠主義、実証主義であり、観念論、抽象論ではない」
「信心を続けている人は、まことの大聖人の弟子となります。
その人が病気になろうが、悩みがあろうが、
本有常住にしてすでに仏界を涌現した人になり、
本有の妙法に照らされた人になります」
「師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、
師匠と『同じ誓願』『同じ理想』『同じ行動』を貫くならば、
必ず師匠と同じ境涯に達することができる」
~
これが、日蓮仏法が他の宗教と一線を画す最も重大な核心なのだ。