1990年7月、彼の人はクレムリンでゴルバチョフと会っていた。
「来年の春、桜の花の咲くころ」との約束通り、
ゴルバチョフは日本を訪れた。

実は同じ7月。

彼の人は、大石寺で法主・日顕と対面している。

法主・日顕は、机を激しく叩き、
「憍慢だ! 憍慢謗法だ!」と怒鳴り散らし、
「あんたを懲罰にかける」と恫喝した。

その直後、大石寺で行われていた学生部の夏季講習会で、
彼の人は、権威・権力を糾弾する激しい言葉を吐いた。

100年に一度の闘争宣言はこのときにあった。

 

 

1991年4月18日。迎賓館。
彼の人はゴルバチョフ大統領と会見した。

彼の人は、冒頭ゴルバチョフに語りかけた。
「”夜明け前に最も深い闇が訪れる”という言葉があります」

ゴルバチョフは答えた。
「哲学的で心惹かれる言葉です」

その年の夏、軍部のクーデターでゴルバチョフ夫妻は捕らえられ、
ソ連は崩壊へと向かう。

作家であり友人のアイトマートフがゴルバチョフに以前、語っていた寓話が
現実となったが、それは覚悟の上だとゴルバチョフはその時すでに語っていた。
 

 

今、僕は極悪との長い闘争の渦中にある。
だからこそ、これを書く資格が僕にはあると思っている。

極悪とは何か。
僭聖増上慢との生命を賭した闘争とはいかなるものなのか。

遠くは、鎌倉時代の極楽寺良観と平左衛門尉頼綱。
近くは、日蓮正宗日顕。

 

 

天国への扉はどこにあるのか?

ヤファエの神、アッラーの神か、阿弥陀の仏か、禅やヨーガやスピリチュアルか。


僕が大好きな人が二人いる。
そのうちの一人。

37年前の3か月。

その方が書き残した文書をすべて読んだ。
この人は一体どういう人なのか。
毎日、涙が溢れて止まらなかった。

 

 


日蓮の修行法は、驚くほどシンプルです。
「南無妙法蓮華経」。この七文字の題目を唱えること。それだけ。
「南無」は「帰命」、すなわち「命を懸けてよりどころとする」の意味です。
「妙法蓮華経」は法華経のこと。
合わせると、「法華経の教えに命を懸けて帰依します」という宣言になります。

なぜ経典全体を読まなくていいのか。

日蓮はこう考えました。
法華経二十八品のすべてのエッセンスは、その題名に凝縮されている。
蓮の花が泥の中から咲くように、煩悩の中にいる私たちにも 仏性がある。
その真理のすべてが「妙法蓮華経」の五文字に収まっている、と。

学問がなくても唱えられる。病に伏せっていても唱えられる。
この点では、念仏の「南無阿弥陀仏」と似た構造を持っています。 

しかし決定的な違いがあります。
念仏は阿弥陀仏という「仏」に帰依する。
題目は法華経という「法(教え)」に帰依する。
日蓮にとっては、仏よりも法のほうが根本的でした。
仏が偉大なのは法華経を説いたからであり、
法華経こそが仏を仏たらしめている、という立場です。

日蓮の思想には、他の鎌倉 仏教にはない際立った特徴があります。

個人の心の平安だけを求めなかったことです。

法然の念仏は、一人ひとりが阿弥陀仏の救いを信じること。
道元の坐禅は、一人ひとりがただ座ること。
どちらも個人の内面に向かう修行です。

日蓮は違いました。

国家と個人の命運は切り離せない。
正しい法(法華経)が国に行き渡れば国土は安泰になり、
誤った法が広まれば災いが起こる。

立正安国論の「立正」とは正しい法を立てること、
「安国」とは国を安んじること。

個人の信仰と社会の変革が、日蓮の中では直結していたのです。

~日蓮とは? 法華経に命を懸けた僧が日本仏教に遺したもの
 

 

 

僕は、法華経の行者とは
特定の宗派に属し信仰者として生きる人間に限るものだとは思っていない。

『仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり』
(世雄御書)

いま、プーチンは何の根拠もない戦争をつづけている。
ネタ二エフはアメリカの支援を背景にイスラムを殲滅しようとしている。
習近平は経済規模を背景に武力による世界制覇を狙っている。

あらゆる極悪と生命を賭して闘い死ぬことの中にしか真の幸福はない。

 

 

敵が強大であるほど自分の力は引き出される。
カギは生命力と根拠なき自信だろう、と僕は思っている。

その二つがあるならば道は開ける。

ただ、より困難な道を選ぶ覚悟があるならば、という絶対条件がつく。

それを可能にするものはどこにあるのか。
僕は、彼の人と共にした生命を賭した闘争から学んできた。


革命に生きるとは日蓮大聖人と同じように生きるということなのだ。
それ以外に安楽はないのだ。

天国への扉は、死の瞬間まで妥協なき極悪との闘争を貫くなかにある。
 

 

『火にたきぎを加うる時はさかんなり。大風吹けば求羅は倍増するなり』
四条金吾殿御返事(此経難持の事)

『釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。
今の世間を見るに、人をよくなすものは、
かとうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり。眼前に見えたり。
この鎌倉の御一門の御繁昌は、義盛と隠岐法皇ましまさずんば、
いかでか日本の主となり給うべき。
されば、この人々はこの御一門の御ためには第一のかとうどなり。
日蓮が仏にならん第一のかとうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、
平左衛門尉・守殿ましまさずんば、いかでか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ』
(種々御振舞御書)

『大事には小瑞なし。大悪おこれば大善きたる。
すでに、大謗法、国にあり。大正法、必ずひろまるべし。
各々なにをかなげかせ給うべき。
迦葉尊者にあらずとも、まいをもまいぬべし。
舎利弗にあらねども、立っておどりぬべし。
上行菩薩の大地よりいで給いしには、おどりてこそいで給いしか』
(大悪大善御書)

『賢者はよろこび愚者は退く、これなり』
(兵衛志殿御返事)

『二十余年が間、一時片時も心安きことなし。
頼朝の七年の合戦も、ひまやありけん。
頼義が十二年の闘諍も、いかでかこれにはすぐべき』
(単衣抄)

『山に山をかさね、波に波をたたみ、難に難を加え、非に非をますべし』
(開目抄)

『あるいはせめ返し、せめおとしすれども、かたきは多勢なり、
法王の一人は無勢なり。今に至るまで軍(いくさ)やむことなし』
(如説修行抄)

 

 


あらゆる魔との戦い、そしてそれに打ち勝つところにしか
真の「安穏」がないことを大聖人は確信されていた。
そのことを御自身の戦いを通して実証されたのです。
だから、そこにあるのは大いなる喜びなのです。
大聖人は、民衆を救うために、
末法の時代にはびこる魔性を打ち破る戦いを起こされた。
大聖人は、ただ難を受けられたのではない。
この「いくさ」を起こしたと仰せです。
そして「今に至るまで軍(いくさ)やむことなし」とあるように、
二十余年にわたって続いている。
戦い続ける人が仏です。
民衆を守るために、民衆の幸福を築くために、仏は戦い続けるのです。
末法という「悪世」の真ん中で戦っていくことを、むしろ喜びとされている。
なぜならば、その戦う生命にこそ「現世安穏」があり、
永遠の成仏の道があるからです。
戦う人が内証において現世安穏を成就しているからこそ、
その戦いを最後まで押し進めれば、
必ず「吹く風枝をならさず、雨壌(つちくれ)を砕かず」という、
だれの目にも明らかな現世安穏の世界が現出すると仰せです。
平穏無事に生きることが「安穏」なのではない。
何があっても揺るがない境涯を築くことです。
そうすれば、いつも「安穏」です。
信心の強き一念で戦えば、だれでもその大境涯を自分自身のものにできる。
だから、「難来るをもって安楽と意得べきなり」と仰せです。
大難に耐えぬいて、「難即成仏」の大道を身をもって切り開かれた。
凡夫成仏、人間勝利の真髄を示されたのです。
であればこそ、「例せば日蓮がごとし」、「日蓮さきがけ(魁)したり」、
「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」、
そして「わとうども(和党共)二陣三陣つづきて、
迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこえよかし。
わずかの小島のぬしら(主等)がおど(威嚇)さんをおじては、
閻魔王のせめをばいかんがすべき」と、後は弟子が続くよう促されています。
~ 「御書の世界」池田大作

 

 


このバトンは人類の希望である。
同時に我が身を焼き焦がす覚悟なくして握れない
“峻厳なバトン”である。
正義のためならば何ものをも恐れぬ獅子だけが、
「自己を支配する」王者だけが、
この栄光のバトンを受け継げる。
~  1991年3月15日



「革命は死なり。我らの死は妙法への帰命なり」

彼の人は、若き日の日記にそう記している。



ゲーテは、革命と生と死についてこう記している。

 


呑気に安楽椅子の上に寝そべるようになったら、
おれはおしまいだ。
うかうかと甘い言葉に乗せられて、
ぬくぬくとおれがいい気になって収まりかえるなら、
そして、欺されて快楽の夢に酔いしれるなら、
もうおれの最後の日だといっていい。

どこかでじっと立ちどまれば、おれは奴隷だ。
一刻も休まずに活動をつづけるのが男だ。

おれもちいさくかたまって、
幸福になろうなどとは思っていない。
戦慄は人間のもっとも深い精神の部分だ。

いくら世間が戦慄をわすれさせ、
人間を無感動な生きものにしようとも、
戦慄に打たれた人間でこそ、
とほうもないものを深く感じとることができるのだ。

人類叡智の最後の言葉は、こうだ・・・

「自由と生命をかちえんとするものは、
日々、新しく、これを戦いとれねばならぬ」

おれは人類全体にあたえられたすべてのものを、
内部の自己で味わいつくすのだ。

おれはおれの精神で、
もっとも高いものと、もっとも深いものをつかむ。
おれはおれの胸のなかに、
あらゆる幸福とあらゆる悲嘆をつみかさねる。

そして、おれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、
ついには人類そのものといっしょに滅びてみよう。
~ ゲーテ 『ファウスト』

 

 

「善意がつくり出されないようでは、社会は破壊され、
人類は破滅のほかない」
(バートランド・ラッセル)

「人間は、自分の死後に何が起ころうとしているかに、
思いをいたすことが大事である」
(バートランド・ラッセル)

「私たちは、人類として、人類にむかって訴える
――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。
もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかって開けている。
もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている」
(1955年 ラッセル=アインシュタイン宣言)