『高山に登れば頭(こうべ)を天に捽(う)ち、
幽谷に下れば足(あし)雲を踏む。
鳥に非(あら)ざれば渡り難く、鹿に非ざれば登り難し』
(忘持経事)

山は天に届くかと思われるほどあまりにも高く、
谷は雲を見下ろしその上を歩くほどあまりにも深い。


無常、苦、無我、不浄という生あるものが持つ負の側面に対して、
あるものは、四顛倒の反転に逃げ込もうとする。

それはシェルターにはなり得ても、それ以上の力はない。

自身のカルマ・宿業との終わりのない格闘によってこそ、
常、楽、我、浄の力を自身のなかから湧き出させることができる。


『上行は我を表し、無辺行は常を表し、
浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。
有る時には一人に此の四義を具す。
二死の表に出づるを上行と名づけ、
断常の際を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、
五住の垢累を超ゆる故に浄行と名づけ、
道樹にして円(まど)らかなり故に安立行と曰うなり』
(御義口伝)

『天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、
諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、
我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、
信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず』
(松野殿御返事)
 

 

けれど、世間の価値観との対決は避けられない。


「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し」
(法華経従地涌出品第十五)

『智者とは、世間の法より外に仏法を行わず』
(減劫御書)

 

 

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智者とは、世間の法から外には出ない。
真の宗教は、社会のまっただ中で勝ちゆく源泉なのです。
宗教は、社会の向上のために活動する使命がある。
社会を離れて宗教はない。
社会に対して何の貢献もせず、聖職者が供養を貪るならば、
懶惰懈怠の姿と言わざるを得ません。
・・・
妙法は「生活」と「社会」と「宇宙」の根本のリズムです。
観念ではない。道理である。
“ただ拝めばなんとかなる”という、安っぽい低次元の宗教ではない。
真剣な祈りから出発する。
そして、これ以上ないという努力を重ね、死力を尽くす。
これが「信心即生活」の生き方です。そこに、諸天も動くのです。

「御書と師弟」池田大作
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仏の生命力を出せば、無敵です。
師子奮迅の力用を発揮すれば、何ものにも敗れることはない。
すべてを楽しむことができる。
私たちの祈りとは、悩みや苦しみと真正面から向き合う力にほかなりません。
~

 

きょうは、朝から題目をあげながら車を走らせた。

38年前、君と二人で行った道を一人で走った。

一緒に食事した双葉寿司はきょうも行列ができていた。

濃霧のなか、天城の山道を走らせた。
8年前に行ったときにはまだ残っていた落合楼はすっかりなくなっていた。

君と最後に言葉を交わしてから35年。

君は自分で気がついていないかもしれないけれど。
君はダイヤモンドの原石です。
僕が一番知っています。


君はもうこの世にはいないけれど。
そして、僕の人生はいまも苦難の連続だけれど。

いまも、こうして君を想いつづけられる。
それが僕の最大の幸福です。