なめてはいけない。

単なる成功者の声は意味をなさない。

彼らは、ある条件のなかで、
自らの天賦の才をたまたま開花させることが出来たに過ぎない。

それが普遍的に誰にでも可能なわけではない。
彼らは自らの才に有頂天になっているに過ぎない。

宇宙、生命、人類という壮大なものが、
そんな安易なもので解決できるわけがない。

マルクス、ヤファエ、アッラーをはじめとする、
あらゆる下劣で下等な神を超え、人類を導くものは、
苦しみのなかで、それでも前へ進もうとしている、
あらゆる人間に届くものでなければならない。

それは、全宇宙、全生命、全人類に、
わが命を投げ出す覚悟なき人間には絶対に不可能だ。

マルクス、ヤファエ、アッラー!
なめるな!お前ら薄汚いコソ泥ども!

奈落の底を乗り越えようとする者だけが、
すべての人間に希望を与えることができるのだ。

 

 

 

僕はゴルフはやらないけれど、
テニスもゴルフも道具を使ってボールを打つスポーツで、
両手打ちとシングルハンドの違いはあるけれど、
フィジカルが前提だとしても、
メンタルスポーツであることを含めて共通する部分が多くある。

幸い仕事はリモートワークなので、
テニスとゴルフは、BGVのようにバックグラウンド音として聴いている。

音とリズムが心地いい。

運動脳と言われるように、フィジカル面だけではなく、
スポーツメンタルは仕事、闘争心にも好影響を与えてくれる。

この数か月、仕事上では自分の過去と向き合うことで、
モチベーションの問題を抱えながらも、苦しみながらも、
1つの壁を乗り越えられるところまでやっと辿り着くことが出来た。

ゴールデンウィーク前に、テニスエルボーになってしまい、
その後、約一か月テニスを休んでいたこともあり、
まったく運動脳の力を借りることが出来ずにいたけれど、
怪我をしないで、
ラケットの重さを利用する打ち方に変える方法を模索する日々がつづいた。

何が必要なのか、何が足りないのか、いまの自分に栄養を与えるだろう映像を見た。


それが、いままでのやり方を大きく変える機会にもなった。

毎日のように同じコーチの、
同じ言葉を繰り返しシャワーのように浴び続けることで、
とんでもない迷路へ入ってしまっていることに気がついた。

一か月休んだために、レッスンの振替がたまり、
それをいままで受けていなかった別のコーチのレッスンを受けることで、
それまでの閉じ込められたイメージ空間から抜け出すヒントをいくつも得られた。

精神空間をある特定の人間のものに同化させ、魂を売ってしまえば、
人生はその人間の精神限界に閉じ込められてしまう。

それはスポーツに限らず、思想、宗教という、
人間を殺害し、人類の未来を決定づけてしまう程の力を持つものにも言える。

きょう、僕はこの5年ほど受けていたコーチのレッスンを止め、
別のテニススクールの、より強度の強いレッスンに変えることを考えた。

認知が人間の全体だ。
厳しいけれど、それが人間の世界であり、人間は先へ進まなければならない。

僕は、フォアハンドのフラットスピンハードヒットで、

コーチである彼を圧倒するショットを打てるようになってしまった。
彼の主張を軽々と超えてしまう認知に到達してしまった。
いまや、僕が彼のレッスンを変化させなければならない状況に追い込んでいる。

ここが潮時なのだ。
これ以上、僕はここにいてはいけないのだ。

その意味を理解できる人間は限られている。

人間には忖度がある。彼の人間関係の忖度の中に自分を置きつづけてしまう。
それは、僕の問題ではなく、彼の問題でしかないのだと気づかなければならない。
彼の認知の限界にいては、自分の本当の能力を開発し切ることはできない。

人間は、みずから去らなければならない。

それは意志の問題なのだ。

 

彼らがいくら僕らに擦り寄ろうとも、
僕らは、その欺瞞・偽善の仮面を剥ぎ取る勇気を持たなければならない。

 

何がローマ法王だ!笑わせるな!

お前らは異端としてどれだけの人間を公然と殺害してきたのだ!

その偏波な思想で人類をいつまで暗黒に沈め抑圧しようとするのだ!
みずからの思想と歴史を捨て去る覚悟なき者に人類の未来を語る資格はない。
お前は、二千年の権威の衣を纏っているにすぎない。

 

人間を殺害することすら辞さないような暗黒の歴史を刻む、

マルクス、ユダヤの神、キリストの神、イスラムの神を生んだ、
下劣で下等な人間の精神限界を超えることすらできないならば、人類に未来はない。


忖度に生きる人間と共に生き、死んではならない。

かつて、僕が所属していたレッスンを隣りに見た。

忖度に生きた人間の姿がそこにある。
相変わらずのレベルで彼らはプレーしていた。
彼らはもっと高みに行けたはずなのに、彼らはそうしなかった。

僕は、彼らの2つ上のレベルへの道を進もうとする。

人間は、自分の道を自分で選ばなければならない。

 

 

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@ 渋野日向子「落ちるところまで落ちた2023年」
  それでも”しぶこ”は前を向く「いろんなことに挑戦できるチャンス」

途中でけがもあったりして
もどかしい一年だったかなと思います。

ゴルフの内容もそうだし、自分のメンタルを全くコントロールできていなかった。

「どうしたらいいのかな」と終わってからも考えたりしてましたけど、
答えが見つからないままという感じでした。

結果、2024年シーズンのフルシード権を落とし準シード権となってしまい、
出場できる試合は少なくなったが、この状況をプラスにとらえたいと。

もう自分の中では「落ちるところまで落ちた」と思って
「これ以上悪くなることはない」という前向きな捉え方をしている分
いろんなことに挑戦できたり見直しできるなと思ったので
「見直す期間」「見つける期間」にと考えている。

去年は「一打に対してすごく気合が足りなかったな」
と思ってしまったので、

ボールを打つまでの気持ちの込め方・考え方は
いい準備をしてできることだと思う。

RSKイブニングニュース 2024年2月
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去年から今年前半まで、予選落ちがつづき厳しい状況の中でも、
予選を通らなくても、自分がイメージするスイングのために、
次の日も黙々と練習場で練習をしていたらしい。

そこからいなくなってしまう選手がほとんどなのに、
彼女は見事に復活しようとしている。

ゴルフの最高峰メジャー、全英女子オープンを制し、
その後、怪我と、

それ以上の上へ行くためのスイング改造に取り組み、苦しみ抜いた数年。

世界の最高峰に到達し、その後、落ちるところまで落ちても、
さらにその先へと突き進もうとする彼女は、
僕らには計り知れない道を進んでいる。
 

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@ 渋野日向子が辻村明志コーチとタッグ「見てもらっている選手に憧れもあった」

渋野日向子が今季から新たに辻村明志コーチとタッグを組む。
自身のシーズン初戦を前に「新しいものを取り入れなきゃいけない、
それが今の自分(だけ)では無理っていうのは分かっていたので。
これから上がっていくにも、年齢的にもすごく難しいなと思ったので、
やるしかないと思ったからこそできた行動かなと思います」と話し、
昨季終了後から師事していることを明かした。

辻村氏に依頼した決め手を

「やっぱり自分が打ちたいボールがドローだったから。
見てもらっている選手の身体の使い方とか、すごく憧れている部分もあった」

と説明。上田桃子、吉田優利といった

ドローヒッターを指導している点が大きかったという。

約3カ月間のオフも同門の上田らと練習する機会があった。
「(得られるものが)ありすぎ、ありすぎる」と笑いながら、
「(全く)同じものを取り入れようとか、そういうものではない。
100人いたら100通りのやり方があって、変な言い方だけど、
(ヒントになるものを)いろいろ盗めるか。
経験されていることの量が全く違うのは自分でも分かっている。
それでも、直接話を聞く機会がこれからもできるっていうのは、すごく重要なこと」

上田はコーチによる指導だけでなく、

ツアーでもひときわ練習する選手として知られる。
そんな37歳と一緒に腕を磨ける環境も大きなプラスになると感じている様子。
新たなチャレンジでシード返り咲きを目指すシーズンだが、
理想のドローボールを求めるところは一貫している。

「ドローは打つけど、また自分の中では違う感じ。
(やり方は)全く違うけど、その説明は難しい!」と苦笑い。アドレスに入る直前、
縦の動きを意識するようにバックスイングを確認するルーティンも

その一端とみられる。
「トップまでの上げ方というか、そこは自分の中でも大事な部分。
(トップの)高さばかり気にしていると、

また手(自体)に力が入ったりとかしちゃうので。
それまでの動きっていうのを大事にしたい」とうなずいた。
オフの取り組みをぶつける4日間になる。

(タイ・チョンブリ/亀山泰宏)

YAHOO! JAPAN ニュース 2024/02/21
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渋野のコーチは言う。


進歩には段階がある。

イメージを持てるかどうか。
それを練習で出来るかどうか。
それをコースに出て出来るかどうか。
それを試合で出来るかどうか。


まず、すべてはイメージから出発する。
イメージとは認知、知能の全体が到達できる場所。
 

どんなに辛くとも、
イメージを描くことを阻むものとは決別しなけばならない。

人間が生きるとはそういうことなのだ。