先週一週間、僕は苦しんでいた。

一年前、数か月かけて整理した技術資料を見直していたら、
さらにいくつもの疑問が持ち上がり、その答えを探しつづけた。

一週間かかって、やっと今日、分かった。
僕が20年間、理解していたはずの根底が間違っていたのだ。

それは、限界まで複雑な構成のシステムでなければ、
気にする必要もないし、問題が浮上することもない。
だから理解が間違っていたとしても済む。


でも、その限界より先へ進もうとするならそうはいかない。
 

なぜ、それに気が付いたのか。

僕は、同時に三冊の本を読んでいたから気が付いたのだ。

書物にすべての答えが書いてあるわけではない。
それに気付くことができるかにかかっている。

前へ進もうとするから、
あるべき姿を追い求めつづけるから、
アウトプットしようとするから自分の誤りに気が付けた。

 

仕事に限らない。
テニスでも、僕は2つの別のスクールへ通っている。
この数年見出せなかったことを、あるコーチが教えてくれた。

視点を変えられなければわからないことがある。

何も新しいことをつくりだしたわけではない。
でも、僕には達成感がある。喜びがある。

 

 

 

人間は何故思考するのだろうか。


ユダヤもキリストもイスラムもマルクスも、
プーチンも習近平も、、、、、

あらゆる原理主義者は、はじめと終わり、
世界を宇宙を生命を、定義し支配しようとする。

彼らは、人が思考することを許さない。

 

 

数年前から、読みたいと思って手に入れていた本がある。

いよいよ読むときが来たのかもしれない。
 

 

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科学の諸分野の諸理論が分断され分立して、
狭い範囲での権威が成立していったのは何も科学者だけの責任ではない。
そうさせる背景があるからこそ、各分野のセクショナリズムが現われ出たのだ。
根本的責任は、還元主義にある。
すべての事物をその最小要素に還元してそれを再び組み合わせれば理解できる
という還元主義の思考が、狭い範囲での理論の自立を可能に見せかけた。
これもまた近代市場社会の思考様式の柱石であって、
ユダヤのカバラに依拠するような神秘主義が体系の外からの絶対的理由を
持ち込むものとして排除された結果採られた思考様式でもあったのだ。
つまり、還元主義は一つの閉じた言語体系の中ですべてを語りたいという
意志によって生まれ出たものだった。

還元主義への一方のドライブ要因は、科学が神を語らなくてもよいものに
なりうるのではないかという甘美にすぎる誘いであった。

ヨーロッパにおける科学者も思想家もほとんど全てが信仰者であったが、
同じくほとんど全てが神の名の下に提出された
アプリオリの事物観に悩んでいたのだった。

神の存在や神秘の名による思考停止がたしかに存在した。
近代主義の科学者や思想家たちはこれに抗して、
事物の隠された本性を暴くことに意を尽くした。
かくして、十七世紀以降の科学の展開は
疑いもなく還元主義を主役として果たされたものだったのである。

「意味と生命」 栗本慎一郎
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彼は、神秘主義をはじめとするあらゆる原理主義を、さらにあらゆる還元主義を、
一つの閉じた言語体系の中ですべてを語ろうとすることの誤りを、
この書物のなかで論じている。

 

 

僕のはじまりは何だろう。
僕は、生まれた瞬間を思い出すことができない。
僕は、自分のはじまりを理解することができない。

君が、ユダヤやキリストやイスラムやマルクスや、
プーチンや習近平ならば、
君は、君のはじまりと終わりを知っていると言うだろう。
君は、世界、宇宙、生命のはじまりと終わりを知っていると言うだろう。
 

 

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ナラティブ(narrative)とは、
「物語」「話術」「語り」といった意味を持つ言葉です。

ナラティブはもともと、文学理論の用語として用いられてきました。
1960年代、フランス構造主義を中心とした物語の役割について関心が高まるなか、
「ストーリー」と異なる文芸理論上の用語として定着したといわれています。

「ストーリー」では物語の内容や筋書きを指します。
主人公はじめ登場人物を中心に起承転結が展開されるため、
そこに聞き手はおろか、語り手も介在しません。

一方の「ナラティブ」は語り手自身が紡いでいく物語です。
主人公は登場人物ではなく語り手となる話者自身。
変化し続ける物語に終わりはありません。


ナラティブとは?【意味をわかりやすく】ストーリーとの違い
(カオナビ人事用語集)
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ストーリーには、はじめと終わりがある。
ナラティブには、はじめも終わりもない。

ストーリーとナラティブ。
この言葉を聞いて、僕が思い出したのはゲーテだ。

 


(ファウストが、バイブルの「ヨハネによる福音書」を
ラテン語からドイツ語に翻訳しようとするとき)

こう書いてある。
「はじめに言葉ありき」と。
すでにここで、おれはつかえてしまう。

誰の助けをかりて先へすすめばいいのだろう。
おれは言葉をそんなに高く評価することができぬ。
別の訳し方を考えずばなるまい。

おれの心が霊の光に照らされているなら、
何とかうまくできるかもしれぬ。
こう書いてある、「はじめにこころありき」と。

軽率に筆を下さぬように、
第一行を慎重にしなければならぬ。
あらゆるものを創り出し、
あらゆるものを生動させるのが意(こころ)だろうか。

むしろ、こう書いてあるはずだ。
「はじめに力ありき」と。
しかし紙の上にそれを書いているうちに、
どうやらそれも完全ではないような気がしてくる。

霊のたすけだ!おれはとっさに思いついて、
安心してこう書く。
「はじめに行いありき」と。
~ ゲーテ
 

 

仏教は、釈尊ひとりからはじまったけれど、
釈尊は神ではなく、一人の求道者だった。

だから、八万宝蔵といわれるように、思想の深化・展開が可能となった。

 

あらゆる原理主義者は、生き延びようとするとき、

権威の頂点に立つ者が詔勅として自らの過去を過ちとしていくしかない。

 

彼らは、自らつくり上げたストーリーを自ら書きかえていかなければならない。

 

書きかえることと、はじめも終わりもなく書きつづけることとは、

本質的に何かが違うのではないだろうか。

 

コロナ禍の中国で、習近平独裁に対して、南京の一人の大学生が白い紙を掲げた。
SNSを通じ賛同者は中国全土に増え、抗議デモに発展し、

上海や北京など20以上の都市に広がった。
なぜ、人々が白い紙を掲げたのか、

習近平体制では厳しい言論統制が敷かれているため、
”自由に発言できない故、無言の抵抗である” ことを示すためだった。
これだけ大規模な抗議活動は天安門事件以来だといわれる。

 

いま、アメリカの大学では1000人以上の逮捕者を出しながらも、
体制側からの停学という強迫にも屈しないガザ支援の学生運動が起こっている。

彼らは、唯一絶対の答えを知っているわけではない。
彼らは学びつづける者だ。
けれど、彼らは闘う。何のために。


独裁者は、世界を閉じた世界にしつづけることはできない。
何者かに自らの運命を委ねることを拒む者たちから、革命は必ず起こされる。

 

人類は、ようやく気づきはじめたのではないだろうか。

相手にすべきなのは誰なのか。

 

数が問題なのではない。
それが誰なのかを感じることのできない人間は去るべきだ。

闘争心は自分の誤りにも向けられなければならない。

 


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近年、さまざまな分野で
「ナラティブを語ること」の重要性が指摘されています。
「ナラティブ」とは、直訳すると「物語」です。
しかし、同じく「物語」と訳される「ストーリー」とは、
その意味合いが異なります。
 
分野によって解釈の仕方に違いはありますが、
「ストーリー」は物語の筋書きを意味します。
筋書きですから、当然、語り手が誰であれ、物語は変わりません。
 
対して、「ナラティブ」は、語り手自身が、
一つ一つの経験をどう感じ、どう意味づけていったのかという物語です。
ゆえに、経験それ自体は同じだったとしても、語り手の数だけ物語があります。

今の青年世代を特徴づけるものとして、
人物や企業などを評価する際に“ホンモノ感”があるのか
――言い換えると、“ありのままが伝えられているか”“表裏がないか”
に重きを置く傾向性があるといわれています。
 
だからこそ、100点満点の完璧な「ストーリー」よりも、
弱さも失敗も、ありのままにさらけ出しながら、
それでもなお、その人ならではの、等身大の物語を紡ぐ「ナラティブ」のほうが、
ホンモノ感を重視する青年世代には、“刺さる”ともいわれています。

こうしたことを踏まえると、この「ストーリー」か「ナラティブ」かは、
私たちが座談会や訪問・激励、活動者会などで語り合っている、
体験談や活動報告にも通じると思います。

従来の発想ですと、とかく結果ばかり強調しがちですが、
プロセスや、その過程での胸の内を語るなかに、
本当の意味での共感が生まれるということです。

また、目に見える結果にはつながらなかったとしても、
あるいは、まだゴールにたどりついていないとしても、
その挑戦そのものに価値があるということです。

〈第2回本部幹部会・関西総会〉 原田稔会長 2024/04/13
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