朝から、仕事に関する勉強をしていた。

CSの番組をBGVのようにしていた。

2歳のときの父親の記憶しかない人と、
父親は従軍医として出征のために、
実質3年しか夫婦生活がなく、
戦地との往復書簡で心を繋いでいた、
母親との思い出を辿る番組が流れていた。

僕の父親は、志願兵として戦争へ行き、生きて帰った。
僕の母親は、戦後、沖縄から東京へ来た。

僕は、戦争の次の世代だけれど。

僕は、子供の頃を思い出した。
僕の子供の頃は、昭和30年代、40年代。


僕は、今もギリギリの生活だけれど。


隔世の感がある。


両親・家族と共にあった51年の記憶にあるものはこれだ。

当時の写真は手元にないけれど。僕の家も、日本も貧しかった。

 

 
 

   

 

 

 

僕には、もう一つの記憶がある。

もう一つは、彼の人と共にあった46年の記憶。


昭和54年(1979年)、僕は大学生だった。

 

 

 

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
山本伸一が中国の留学生と友誼の糸を紡いだ前日の四月八日、

故・周恩来総理の夫人で、中国の全国人民代表大会(略称・全人代)

常務委員会副委員長である鄧穎超が来日した。
彼女は衆参両院議長の招待で、全人代代表団の団長として日本を訪問したのである。

九日には、衆参両院議長、大平首相と会談したのをはじめ、天皇陛下との会見など、
七十五歳にして次々と精力的に行事をこなしていった。

伸一は、十二日午後三時半、
東京・港区元赤坂の迎賓館で約七カ月ぶりに鄧穎超と再会したのである。

前年九月、第四次訪中の折、彼は二度にわたって彼女と語り合う機会を得た。
その折、訪日の意向を尋ねると、「周恩来も桜が好きでしたので、桜の一番美しい、
満開の時に行きたいと思います」とのことであった。

ようやく実現した日本訪問であったが、あいにく東京は、

既に桜の季節が終わってしまった。
伸一は、ささやかではあるが、桜の風情を楽しんでもらいたいと、
東北から八重桜を取り寄せ、迎賓館に届けてもらった。
彼女は、大層、喜んでくれたという。

その桜は、会談の会場である迎賓館の「朝日の間」に美しく生けられていた。



この日の出席者には、団長の鄧穎超のほか、
周総理との会見で通訳を務めた全人代常務委員の林麗、
中国仏教協会の責任者である趙樸初副会長らの懐かしい姿もあった。

鄧穎超は、声を弾ませて語った。
「私の方から、あいさつに伺わなければならないのに、

こちらに来ていただいて申し訳ありません」

人を思う真心は、気遣いの言動となり、それが心の結合をもたらす。
伸一は恐縮しつつ、歓迎の言葉を述べた。
「お元気で何よりです。遠路はるばると、ようこそ日本においでくださいました。
お迎えできて、心から嬉しく思っております。
先生の訪日は、春の桜の匂うがごとく、歴史に薫り残ることになるでしょう」

山本伸一は、一冊のアルバムを用意していた。
そこには、故・周恩来総理の日本への思いに応えたいと創価大学に植えた「周桜」、
全青連の青年たちと記念植樹した周恩来桜と鄧穎超桜の「周夫婦桜」、
創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。

伸一は、アルバムを一ページ一ページ開いて、鄧穎超に見せながら、
「留学生も、しっかり勉強しています」と、近況を紹介していった。
彼女は、写真に視線を注ぎ、満面に笑みをたたえて言った。

「日本へ来る前から、創価大学には、ぜひ行きたいと思っていました。
しかし、その時間が取れずに残念です」

 

そして、前年九月の、伸一の第四次訪中を振り返り、懐かしそうに思い出を語った。

伸一は、その折、子々孫々の日中友好のために、
周総理の精神と輝かしい事績を紹介する周恩来展の日本開催などを提案していた。

迎賓館での語らいでは、この周恩来展をはじめ、日本訪問の印象、

天皇陛下との会見の様子、また、

「四つの現代化」に取り組む中国の現状などに話が及んだ。
友好的な意見交換がなされ、時間は瞬く間に過ぎていった。

鄧穎超は伸一に、「ぜひ、また中国においでください」と要請した。
彼は、「必ずお伺いします。中国での再会を楽しみにしております」と笑顔で答え、
約四十分間に及んだ和やかな語らいは終わった。

皆、席を立ち、出入り口に向かった。
伸一は“先生には、どうしても伝えておかなければ……”と思い、口を開いた。

「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」
鄧穎超の足が止まった。伸一を直視した。

「山本先生。それは、いけません。まだまだ若すぎます。
何よりあなたには、人民の支持があります。
人民の支持がある限り、辞めてはいけません」

真剣な目であった。
周総理と共に、中国の建設にすべてを捧げてきた女性指導者の目であり、
人民を慈しむ母の目であった。
 

鄧穎超は、念を押すように言った。
「一歩も引いてはいけません!」

彼女の顔に笑みが戻った。
「前も敵、後ろも敵」という断崖絶壁のなかで、
何十年もの間、戦い続けてきた人の言は重たかった。

進退は自分が決めることではあるが、山本伸一にとっては、
真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。

彼は、鄧穎超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、

故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。

伸一は、彼女との約束と日中友好の誓いを果たすために、
翌年の一九八〇年(昭和五十五年)四月、第五次訪中へと旅立った。

この時、鄧穎超は、伸一夫妻を北京市・中南海にある西花庁に招いた。
彼女が周総理と一緒に、長い歳月を過ごした住居である。

伸一たちが通された応接間は、人民大会堂が完成するまで、
総理が外国の賓客と会っていた部屋であるという。
さらに、彼女は、「ぜひ、ご覧いただきたいと思っていました」と言って、

中庭を案内した。海棠の花が淡い桃色のつぼみをつけ、

薄紫のライラックの花が芳香を漂わせていた。
庭を散策しながら友誼の語らいは続いた。

伸一が次に訪中したのは、八四年(同五十九年)六月のことであった。
鄧穎超は人民政治協商会議の主席として人民大会堂に伸一を迎え、
中日の青年交流をさらに拡大していきたいとの希望を語った。

五年後の八九年(平成元年)六月四日、中国では第二次天安門事件が起こった。

 

以来、欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、
日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国際的に孤立した。

伸一は思った。
“結果的には、中国の民衆が困難に直面している。
私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。
それが人間の信義であり、友情ではないか!”
窓が開かれていてこそ対話も可能となる。

山本伸一は当初、一九八九年(平成元年)九月に中国を訪問し、
建国四十周年の関連行事に出席する予定であった。
しかし、諸情勢から延期を余儀なくされた。
彼は代理を立て、鄧穎超あてに、明春には必ず訪問する旨の伝言を託した。
また、周夫妻の等身大の肖像画を贈った。

 

“中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。
そして翌九〇年(同二年)五月、
創価学会第七次訪中団と友好交流団の計二百八十一人が、

大挙して中国を訪れたのである。
それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、
関わりを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。

伸一と峯子は、この折、

再び北京市・中南海にある鄧穎超の住居・西花庁を訪問した。
彼女は八十六歳となり、入院中であったが、
わざわざ退院して、玄関に立ち、伸一たちを迎えたのだ。
彼は、駆け寄って、手を取った。彼女の足は既に不自由であり、

衰弱は誰の目にも明らかであった。
しかし、頭脳はいたって明晰であった。

 

伸一は、祈る思いで訴えた。
「人民のお母さんは、いつまでも、お元気でいてください。
『お母さん』が元気であれば、『子どもたち』は皆、元気です」

彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、

自身が愛用してきた玉製の筆立てを、
「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。
「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。
その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。

彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。
これが最後の語らいになったのである。

鄧穎超は、二年後の九二年(同四年)七月、八十八歳で永眠する。
しかし、彼女が周総理と共に結んだ、両国間の友情と信義の絆は、

民衆交流の永遠の懸け橋となった。心は見えない。

しかし、その心と心が、固く、強く結ばれてこそ、真実の友好となる。

迎賓館で鄧穎超と会見した翌日の四月十三日午後、山本伸一は、
東京・新宿区内で、松下電器産業(後のパナソニック)の創業者である

松下幸之助と懇談した。深い交友を重ねてきた松下翁にも、

会長を辞任する意向であることを伝えておかなくてはと思った。

「私は、次代のため、未来のために、会長を辞任し、

いよいよ別の立場で働いていこうと思っています」

松下翁は、子細を聞こうとはしなかった。笑顔を向けて、こう語った。
「そうですか。会長をお辞めになられるのですか。私は、自分のことを誇りとし、

自分を称賛できる人生が、最も立派であると思います」

含蓄のある言葉であった。

立場や、人がどう思い、評価するかなどは、全くの些事にすぎない。
自分の信念に忠実な、誠実の人生こそが、人間としての勝者の道である。

この日、伸一は、神奈川県横浜市に完成した神奈川文化会館へ向かった。
翌十四日に行われる開館記念勤行会に出席するためである。

午後八時過ぎに、新法城に到着した。

 

 

 


文化会館は、地上十階、地下二階建てである。
赤レンガの壁が重厚さと異国情緒を醸し出していた。

恩師・戸田城聖は、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、
ここ神奈川県横浜市にある三ツ沢の競技場で行われた

東日本体育大会「若人の祭典」の席上、
「原水爆禁止宣言」を発表している。

いわば、神奈川は、創価学会の平和運動の原点の地である。

会館の前は山下公園で、その先が横浜の港である。
船の明かりが揺れ、街の灯が宝石をちりばめたように、美しく帯状に広がっている。

「七つの鐘」を鳴らし終え、平和・文化の大航路を行く創価の、
新しい船出を告げるにふさわしい会館であると、伸一は思った。
星空に汽笛の音が響いた。新生の朝が、間近に迫りつつあることを彼は感じた。

神奈川文化会館の開館記念勤行会は、
十四日、昼夜二回にわたって、同志の喜びのなか盛大に行われた。
山本伸一は、いずれの勤行会にも出席し、
これまでの皆の労苦に最大の感謝の意を込め、全力で励ましを送った。

席上、彼は、初めて神奈川県横浜市の座談会に参加した、懐かしい思い出を語った。


「それは、三十年前(一九四九年)であったように思う。

当時、私は二十一歳でした。
国鉄(後のJR)鶴見線の国道駅近くの幹部のお宅が、座談会の会場であった。
そこには、未入会の友人が五人、おみえになっていた。
青年だけでなく、婦人も、年配の壮年も参加していました。
私は、若人らしく、元気に体験を語り、師匠・戸田先生の指導を通して、

大確信をもって、日蓮大聖人の仏法の偉大さを訴えていった。
その五人の方々は、全員、入会を決意されたように記憶しています」

弘教の最大の力は、豊富な人生経験もさることながら、
御本尊への確信であり、相手の幸せを思う真剣さである。
ゆえに、若くとも確信と思いやりに満ちた言葉は、

人びとの生命に響き、共鳴をもたらすのだ。

「私は、この神奈川でも、弘教に、座談会に、地区講義に、個人指導にと、

走りに走った。それは、すべて青年時代の楽しい有意義な思い出となっています。
また、共に活動に励んだ方々は、かけがえのない忘れ得ぬ同志として、

深く心に刻まれています」
 

伸一は思った。

“自分の会長辞任が発表されれば、少なからず皆は驚くにちがいない。
しかし、何があろうが、いささかたりとも、信心に動揺があってはならない。
そのために、不動の信心の確立を叫び抜いておかねばならない”

彼は、言葉をついだ。

「学会においても、幾つかの転機があり、乗り越えるべき節があります。
いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、
初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、

広宣流布の大精神であります」

創価学会は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就するために出現した、

地涌の菩薩の集いである。ゆえに、初代会長の牧口常三郎も、

第二代会長の戸田城聖も、万人の幸福の実現に思いを馳せ、
死身弘法の決意で、広宣流布の道を切り開いてきた。

われらもまた、その創価の師弟の精神を受け継ぎ、
今世のわが使命を果たすために、誇り高く、勇んで弘教に走る。

どのような事態になろうが、創価の師弟の大道を守り抜く限り、

慈折広布の前進がとどまることはない。

世界の平和へ、人類の幸福へと歴史の歯車は回り、

一人ひとりの桜花爛漫たる幸の人生が開かれていく
――山本伸一は、全同志に、その確信を、断じて持ち続けてほしかったのである。

四月十六日の午後、伸一は、
来日していたアメリカの前国務長官ヘンリー・A・キッシンジャー博士

の訪問を受け、東京・渋谷区の国際友好会館(後の東京国際友好会館)で会談した。約四年ぶりの対面である。

 

博士は、一九二三年(大正十二年)にドイツで生まれ、
少年時代にナチスによるユダヤ人への弾圧を逃れ、一家でアメリカへ移住する。
ハーバード大学で政治学を専攻し、さらに博士号を取得。

六二年(昭和三十七年)に同大学の教授となる。

ニクソン政権では大統領補佐官、国務長官を歴任。

その間に、ニクソンの訪中、訪ソを推進し、
米ソ戦略兵器制限交渉、ベトナム和平、中東和平などを手がけ、

彼の外交手腕は、世界の耳目を集めた。

七三年(同四十八年)にノーベル平和賞を受賞。七七年(同五十二年)、
カーター政権の誕生を機にホワイトハウスを去り、

ジョージタウン大学の教授等を務めている。

「ようこそ! お待ちしておりました」
伸一は、博士と固い握手を交わし、一緒に会館の庭を散策しながら、

近況を語り合った。
彼は、対話を通して、恒久平和の道を開く手がかりを、共に探し出そうとしていた。
語らいによる啓発から新しい知恵が生まれる。

山本伸一とキッシンジャーは、庭を散策したあと、応接室で語り合った。
キッシンジャーは、自身の回想録が、間もなく発刊の予定であることを伝えた。
「ここに書かれた内容は外交政策についてであり、私の行ったことです。
私の人生についてのものではありません」

すかさず伸一が、

「“現実に何を行ったか”こそが、外交上も、人生を創造していくうえでも、

最重要です」と言うと、彼は照れたように笑いを浮かべた。
 

話題は多岐にわたった。
それぞれの人生を振り返りながら、影響を受けた人びとや、
“今の青少年に伝え残すべきことは何か”などが語り合われ、

世界の諸情勢へとテーマは広がった。
戦争の危機に話が及ぶと、伸一は、平和には裏づけとなる哲学、思想、

宗教が必要不可欠であると主張。キッシンジャーも全面的に同意した。

そこで伸一は、インドの歴史に触れ、アショーカ大王の治世に言及し、
平和の礎となる仏法の法理について訴えていった。

「アショーカは、仏法の教えというものを根幹にすることによって、
理想的な政治を行うことができたといえます。
仏法は本来、すべての人びとが『仏』という尊極無上の生命、

すなわち『仏性』を具えていると説いています。
それこそが、生命尊厳の確たる裏づけであると同時に、

万人平等の哲理ともなります。

また、そこから平和主義、人間主義の思想も生まれます」

二人は、提起し合った問題を掘り下げていくには、多くの時間を要するため、
将来、もう一度、対談し、

二十一世紀を建設するための示唆を提供していこうと約し合った。

それが実現し、一九八六年(昭和六十一年)九月、

二日間にわたって語らいが行われた。これに往復書簡もまじえ、

月刊誌『潮』に翌八七年(同六十二年)一月号から八月号にわたって

対談が連載された。

そして同年九月、単行本

『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』として潮出版社から刊行されている。

山本伸一は、今こそ、平和の礎となる、

仏法から発する生命の尊厳と平等の哲理を世界に伝え、広め、
二十一世紀の時代精神としなければならないと決意していた。

彼は、「聖教新聞」の創刊二十八周年にあたる四月二十日には、
インドの新聞「インディアン・エクスプレス」の

S・ムルガオンカル論説総主幹と神奈川文化会館で会談し、
平和建設と新聞の使命などについて語り合った。

伸一は、世界平和の実現という壮大なる目標に向かって、

指導者、識者らとの対話を進める一方、
一人ひとりの同志の幸福を願い、家庭訪問や個人指導に余念がなかった。
神奈川文化会館にあっても、何十人もの来館者に声をかけ、激励と指導を重ねた。

“何があろうと、いかなる立場になろうと、私は尊き学会員を励まし続ける。

庶民と共にどこまでも歩み続ける”
――彼は、そう固く心に決めていたのである。

 

一人の人を大切にし、守り励ますことも、世界平和の建設も、同じ原点をもつ。
万人が等しく「仏」であるとの、

仏法の哲理と慈悲から生じる実践にほかならないからだ。

神奈川県青年部長の大賀孝芳をはじめ、青年たちとも語り合った。
「君たちの舞台は世界へと広がるよ。

同じ人生ならば、私と一緒に、世界広布の大ロマンに生きようじゃないか!」
決意に燃える青年たちの瞳に、伸一は無限の希望を感じた。

彼の脳裏には、

戦争、飢餓、貧困等々で苦しむ世界の民衆が鮮明に映し出されていた。
彼は、何よりも人類を引き裂く東西冷戦にピリオドを打つために、

自分ができることは何かを問い、考え抜いてきた。

“一人の人間として、一民間人として、世界の首脳たちと対話を重ね、

人間と人間を結ぶことだ。
いかに不可能に見えようが、それ以外に、平和の創造はない!”

人間主義の旗を高く掲げ、二十一世紀の新大陸へと進む創価の新航路が、

ありありと彼の瞼に浮かぶのであった。

四月二十二日、山本伸一は総本山に足を運んだ。日達法主と面会するためである。
うららかな午後であった。澄んだ空に、富士が堂々とそびえていた。

雪を被った頂の近くに雲が浮かんでいる。
山頂は、風雪なのかもしれない。しかし、微動だにせぬ富士の雄姿に、

伸一は心が鼓舞される思いがした。

 



彼にとって法華講総講頭の辞任も、学会の会長の辞任も、

もはや未来のための積極的な選択となっていた。
もちろん辞任は、宗門の若手僧らの理不尽な学会攻撃に終止符を打ち、

大切な学会員を守るためであった。
しかし、「七つの鐘」が鳴り終わる今こそ、

学会として新しい飛翔を開始する朝の到来であると、彼は感じていた。
また、これまで十分な時間が取れず、やり残してきたこともたくさんあった。
世界の平和のための宗教間対話もその一つであったし、功労者宅の家庭訪問など、

同志の激励にも奔走したかった。

伸一は日達と対面すると、

既に意向を伝えていた法華講総講頭の辞任を、正式に申し出た。
そして、二十六日には辞表を提出する所存であることを告げた。
日達からは、

「総講頭の辞表を提出される折には、名誉総講頭の辞令を差し上げたい」

との話があった。

さらに伸一は、十九年の長きにわたって創価学会の会長を務めてきたが、
学会がめざしてきた「七つの鐘」の終了にあたり、

会長も辞任するつもりであることを述べた。

彼は、新しい体制になっても、平和、文化、教育の運動に力を入れながら、

皆を見守っていくこともできると考えていた。
学会は、民衆の幸福のため、世界の平和のために出現した広宣流布の団体である。
ゆえに、その広布の歩みに停滞を招くことは、断じて許されない。
彼は、自分は自分の立場で新しい戦いを起こす決意を固めるとともに、

創価の新しき前進を祈りに祈り抜いていた。
“必死の一人がいてこそ道は開かれる。わが門下よ、師子と立て! 

いよいよ、まことの時が来たのだ”と、心で叫びながら――。

山本伸一は、四月二十四日付の「聖教新聞」一面に

所感「『七つの鐘』終了に当たって」と題する一文を発表した。
これは、学会の首脳幹部と検討して、決まったことであった。

 

彼は、学会が目標としてきた「七つの鐘」の終了にあたり、
苦楽を分かち合って戦ってくれた同志へ、感謝を伝えるとともに、

新しい出発への心の準備を促したかった。

「私どもは、初代牧口会長以来、広宣流布の大道に向かって、

七年ごとのリズムを合言葉にして進んでまいりました。
ここに来る五十四年(一九七九年)五月三日を中心に、
ついに『七つの鐘』の総仕上げともいうべき記念の日を迎えることができました」

そして、慈折広布の聖業に不屈の奮闘を重ねてくれた同志に、深甚の敬意を表した。

「戸田前会長逝いて二十一年、私もおかげさまで会長就任から満十九年、

あしかけ二十年に及ぶ長き歳月を、皆様方と共に苦難と栄光の歴史を綴り、

今日にいたりました。浅学非才な私を、陰に陽に、守り支えてくださり、

広布のために走りに走ってくださった妙法の勇者の皆様方に、
重ねてここに謹んで感謝いたします。

この貴重な足跡は永遠の生命の宝となることを確信していただきたいのであります。
もとより、私どもは、末法の凡夫の集いであります。幾多の試行錯誤もありました。前進もあり、後退もありました。しかし、常に波浪を乗り越え、上げ潮をつくり、

その潮流を、立正安国と人類の幸福と平和のために安定ならしめる

努力を傾けてきたのであります」

伸一には、断固たる確信があった。
“日蓮大聖人の仰せ通りに、

死身弘法の実践をもって広宣流布の道を切り開いてきたのは誰か

――それは創価学会である。
私と共に身を粉にして戦ってくれた同志である!
まさに、創価の旗のもとに地涌の菩薩が雲集し、大聖人の御遺命たる

『末法広宣流布』を現実のものとしてきたのだ。
学会なくば、大聖人の言説も虚妄となるのだ!”

 

山本伸一は、人類の危機が現実化しつつあるなかで、

地涌の菩薩の連帯は世界九十数カ国に広がり、
日蓮仏法が唯一の希望となっていることに言及し、未来への展望に触れた。

「いまだ世界にわたる平和と文化の実現は、緒についたばかりの段階でありますが、
この地球上には、確実にその種子は植えられ、芽をふいております。
これについては、私も今まで努力を積み重ねてまいりました。
しかし、本格的に取り組むのはこれからであり、
信仰者としての私どものなすべき大きな未来図として描いていかねばならない。
平和、文化の魂は宗教であり、その潮流の力は、国家を超えた人間の力であります。
古来、文化とは宗教が生命であった。
平和もまた、人間の心の砦のなかに築いていくしかない。
一つの基盤が整った時は、恒久的な文化、

平和へと歴史の流れを私どもの力でつくっていくしかないのであります」

宗教者が、宗教という枠のなかだけにとどまり、現実世界の危機に目をふさぐなら、
その宗教は無用の長物といってよい。宗教は社会建設の力である。
仏法者の使命は、人類の幸福と世界の平和の実現にある。
ゆえに日蓮大聖人は、「立正安国」を叫ばれたのだ。

文豪トルストイも、こう記している。
「宗教は、過去に於けると同様に、人間社会の主要な原動力であり、

心臓であることに変わりない」
(「宗教とは何ぞや並びに其の本質如何」『トルストイ全集18』所収、

深見尚行訳、岩波書店、現代表記に改めた)

 

伸一は続けた。

「ともあれ、ここに広布の山並みが、

はるかに展望し得る一つの歴史を築くことができました。
既に広布への人材の陣列も盤石となり、

あとには陸続と二十一世紀に躍り出る若人が続いている。
まことに頼もしい限りであります。私どもは、この日、この時を待ちに待った。
これこそ、ありとあらゆる分野、立場を超えて結ばれた信心の絆の勝利であり、

人間の凱歌であります」

それは、彼の勝利宣言でもあった。
創価学会が、わが同志が成し遂げた、厳たる広宣流布の事実は永遠不滅である。

偉業は、継続のなかにある。
真の大業は、何代もの後継の人があってこそ、成就するものだ。

山本伸一は、さらに所感で述べていった。
 

「ここで大事なことは、広宣流布は、不断の永続革命であるがゆえに、

後に続く人びとに、どのように、

この松明を継承させていくかということであります。

一つの完結は、次への新しい船出であります。一つの歴史の区切りは、再びの新たなる壮大な歴史への展開となっていかねばなりません。
私は、二十一世紀への大いなる道を開くために、

また皆様方の安穏と幸福のために、さらにお子様たちが、
正法正義を受け継ぎ、永遠に繁栄していくために、その流れをどうつくりゆくか、

ということに、日々月々に煩悶し思索し続けてまいりました。

これが時代とともに歩みゆく、私の責任であったからであります。
そして今ここに、化儀の広宣流布の歩みは、渓流から大河に、

さらに大河から大海へと新しい流れをつくるにいたりました」

続いて、この大河の流れを安定、

恒久ならしめなければならないことを痛感しているとの心情を披瀝。
広宣流布は「大地を的とするなるべし」との日蓮大聖人の御金言を

深く深く心に刻み、たゆまざる信行学の前進を再び誓い合っていきたいと強く訴え、結びとしたのである。

伸一のこの所感「『七つの鐘』終了に当たって」が掲載された「聖教新聞」

を見た学会員は、同志に対する伸一の深い感謝の心と新出発の気概を感じ、

新たな決意に燃えた。

この日に会長辞任が発表されるなど、誰も予想だにしなかったのである。

実は、学会員は、大きな喜びに包まれ、この朝を迎えたのだ。
前々日の二十二日、第九回統一地方選挙を締めくくる東京特別区議選、一般市議選、町村議選などの投票が行われ、
二十三日夕刻には、学会が支援した公明党の大勝利が確定したのである。

四月二十四日午前十時、東京・新宿文化会館で県長会が開催された。
同会館は、信濃町の学会本部、聖教新聞社からも、徒歩十分ほどのところにある。
統一地方選挙の支援活動を大勝利で終え、

全国から集ってきた参加者の表情は晴れやかであった。
まだ、会場に山本伸一の姿はなかったが、開会を告げる司会の声が響いた。
 

冒頭、理事長の十条潔が登壇した。五月三日を前にした新出発の県長会である。
しかし、彼の顔には、笑みも精彩もなかった。

十条は「七つの鐘」の淵源を語り始めた。

「山本先生は、戸田先生が逝去され、

皆が悲しみに沈んでいた一九五八年(昭和三十三年)五月三日の本部総会で、
『七つの鐘』の構想を語ってくださいました。
かつて戸田先生が、『学会は創立以来、七年ごとに大きな前進の節を刻んできた』

と話されたことを確認されて、
この年が、『第五の鐘』を鳴らす時であると訴えられたのであります。

それによって私たちは悲しみを乗り越え、

『第七の鐘』が鳴り終わる一九七九年(同五十四年)を目標に、
未来に希望を仰ぎ見ながら、新しい出発をいたしました。

今、その『七つの鐘』が、

いよいよ鳴り終わる時を迎えようとしているのであります。今後は、

明一九八〇年(同五十五年)から五年ごとのリズムで広宣流布の歩みを進め、
さらに二十一世紀から、再び新しい『七つの鐘』を鳴らし、前進していく構想を、

先生は既に発表してくださっております。

山本先生は、会長就任以来、広宣流布の流れを渓流から大河へ、大河から大海へと、大きく発展させながら、時代に即応できるよう、

さまざまな改革に着手してこられました。

運営面での民主的な下意上達の組織づくりをされ、

合議制も深く根差してまいりました。
七四年(同四十九年)には代表役員を会長から理事長にするよう推進されました」

伸一は、未来のために新しい体制づくりを進めてきた。
時代即応の適切な布石がなされてこそ、創価学会の永遠の栄えがあるからだ。

未来を展望する時、社会も、学会も、ますます多様化していくにちがいない。
したがって、山本伸一は、これまで以上に、さまざまな意見を汲み上げ、
合議による集団指導体制によって学会を牽引していくべきであると考えていた。

もちろん会長はその要となるが、執行部が、しっかりとスクラムを組み、
力を合わせ進んでいくことを構想していたのだ。

また、彼の組織像は、全同志が会長の自覚に立って、互いに団結し合い、

活動を推進していくというものであった。

理事長の十条潔は話を続けた。

「山本先生は、ご自分でなくとも、会長職が務まるように、制度的にも、

さまざまな手を打たれてきたのであります。
先生は、以前から、私たちに、よく、こう言われておりました。
『私がいる間はよいが、私がいなくなったら、学会は大変なことになるだろう。

だから今のうちに手を打っておきたい。
いつまでも私が会長をやるのではなく、近い将来、会長を交代し、

次の会長を見守り、育てていかなければならない』
また、『君たちは、目先のことしか考えないが、私は未来を見すえて、

次の手を打っているんだ』とも言われております。
その先生が、今回、『七つの鐘』の終了という歴史の区切りを見極められ、

会長辞任を表明されたのであります」

この瞬間、誰もが息をのんだ。耳を疑う人もいた。
愕然とした顔で十条を見つめる人もいれば、目に涙を浮かべる人もいた。
十条も万感の思いが込み上げ、胸が詰まったが、自らを励まし、言葉をついだ。

「先生は、『次の創価学会の安定と継続と発展のために、

新しい体制と人事で出発すべきである』と言われ、
熟慮の末に会長勇退を決意されたのであります」

弟子のために道を開くのが師である。そして、その師が開いた道を大きく広げ、

延ばしていってこそ、真の弟子なのである。
この広布の継承のなかに真実の師弟がある。

山本伸一の会長辞任は、あまりにも突然の発表であり、

県長会参加者は戸惑いを隠せなかった。
皆、“山本先生は宗門の学会攻撃を収めるために、

一切の責任を背負って辞任された”と思った。
だから、十条潔から“勇退”と聞かされても、納得しかねるのだ。

宗門との問題が、会長辞任の引き金になったことは紛れもない事実である。
しかし、伸一には、未来への布石のためという強い思いがあった。

 

十条の額には汗が滲んでいた。
彼は、皆の表情から、まだ釈然としていないことを感じ取ると、一段と大きな声で、
「山本先生は、ご自身が勇退される理由について、次のように語っておられます」

と言い、伸一の話を記したメモを読み上げた。


「第一の理由

――十九年という長い会長在任期間のため、体の限界も感じている。

したがって学会の恒久的な安定を考え、

まだ自分が健康でいる間にバトンタッチしたい。

牧口・戸田門下生も重鎮としており、

青年の人材も陸続と育っている今こそ好機である。


第二の理由

――一九七〇年(昭和四十五年)以来の懸案としてきた、社会と時代の要請に応える学会の制度・機構の改革も着々と具体化した。
それを踏まえた会則も、このほど制定される運びとなった。

次代へ向け、協議し合って進みゆく体制も整った。

会の運営を安心して託せる展望ができた。


第三の理由

――近年、仏法を基調とした平和と文化・教育の推進に力を注いできた。
この活動は、今後、日本、世界のために、さらに推進し、

道を開いていかなくてはならないと感じている。
また、一緒に歴史を創り、活躍してくださった全国の功労者宅への訪問や、

多くの執筆等も進めていきたい。
それには、どうしても時間を必要とする。
以上が、山本先生の会長勇退の理由です」

人も、社会も、大自然も、すべては変化する。
その変化を、大いなる前進、向上の跳躍台とし、

希望の挑戦を開始していく力が信心であり、創価の精神である。

県長会のメンバーは、十条潔の説明で、

山本伸一が会長辞任を決意した理由はわかったが、心の整理がつかなかった。

十条は話を続けた。

「先生は、この際、創価学会の会長だけでなく、

法華講総講頭の辞任も宗門に申し出られました。
こちらの方は、宗門との間に生じた問題の一切の責任を負われてのことです。
先生が会長を辞められるというと、どうしても、

私たちは悲しみが先に立ってしまう。
しかし、大切なことは、先生の決断を、その心を、しっかりと受けとめ、
未来に向かい、明るくスタートすることではないかと思う。
力のない私たちではあるが、これから力を合わせて、
『先生。ご安心ください』と言える創価学会をつくることが、

弟子の道ではないだろうか!
なお、今後の流れとしては、先生の勇退のお話を受けて、本日、

午後から総務会を開催し、
勇退が受理されたあと、記者会見を開き、正式発表となる予定であります」

彼の話は終わった。拍手が起こることはなかった。
婦人の多くは、目を赤く腫らしていた。虚ろな目で天井を見上げる壮年もいた。
怒りのこもった目で一点を凝視し、ぎゅっと唇を噛み締める青年幹部もいた。

その時、伸一が会場に姿を現した。
 

「先生!」

いっせいに声があがった。
彼は、悠然と歩みを運びながら、大きな声で言った。

「ドラマだ! 面白いじゃないか! 広宣流布は、波瀾万丈の戦いだ」

皆と一緒に題目を三唱し、テーブルを前にして椅子に座ると、

参加者の顔に視線を注いだ。
皆、固唾をのんで、伸一の言葉を待った。

「既に話があった通りです。何も心配はいりません。

私は、私の立場で戦い続けます。
広宣流布の戦いに終わりなどない。私は、戸田先生の弟子なんだから!」

彼は、烈風に勇み立つ師子であった。創価の師弟の誇りは、勇気となって燃え輝く。

山本伸一は、力強い口調で語り始めた。

「これからは、新会長を中心に、みんなの力で、新しい学会を創っていくんだ。
私は、じっと見守っています。悲しむことなんか、何もないよ。

壮大な船出なんだから」

会場から声があがった。

「先生! 辞めないでください!」

すすり泣きがもれた。それは次第に大きくなっていった。号泣する人もいた。

一人の壮年が立ち上がって尋ねた。

「今後、先生は、どうなるのでしょうか」
 

「私は、私のままだ。何も変わらないよ。どんな立場になろうが、

地涌の使命に生きる一人の人間として戦うだけだ。
広宣流布に一身を捧げられた戸田先生の弟子だもの」

青年の幹部が、自らの思いを確認するように質問した。

「会長を辞められても、先生は、私たちの師匠ですよね」

「原理は、これまでに、すべて教えてきたじゃないか!
青年は、こんなことでセンチメンタルになってはいけない。
皆に、『さあ、新しい時代ですよ。頑張りましょう』と言って、
率先して励ましていくんだ。恐れるな!」

次々に質問の手があがった。

「県長会には出席していただけますか」

 壮年の質問に伸一は答えた。

「新会長を中心に、みんなでやっていくんだ。

いつまでも私を頼っていてはいけない。
これまで私は、全力で指導し、皆の育成にあたってきた。

すべてを教え、伝えてきた。卒業のない学校なんかない」

「各県の指導には回っていただけるんでしょうか。ぜひ、わが県に来てください」
 涙を浮かべながら、婦人が言った。

「ありがとう。でも、今までに何度となく各県を回ってきたじゃないか。
これからは、平和のために、もっと世界を回りたい。

いつ戦争になるかわからない国もある。できる限りのことをしておきたいんだよ」

平和への闘魂がほとばしる言葉であった。

会場の中央にいた男性が立ち上がった。まだ三十代の東北方面の県長である。
彼は、県長会の参加者に怒りをぶつけるかのように、声を張り上げて訴えた。

「皆さんは、先生が辞任されるということを前提に話をしている。

私は、おかしいと思う。そのこと自体が、納得できません!」

沈黙が流れた。

 

伸一の声が響いた。

「辞任が大前提でいいじゃないか。私は、そう決めたんだ。

これで新しい流れができ、学会員が守られるならば、いいじゃないか。
声を荒らげるのではなく、学会は和気あいあいと、穏やかに、

団結して進んでいくことだよ。
私と同じ心であるならば、今こそ、同志を抱きかかえるようにして励まし、

元気づけていくんだ。
みんなが立ち上がり、みんなが私の分身として指揮を執るんだ!
初代会長の牧口先生が獄死されても、

戸田先生がその遺志を受け継いで一人立たれた。
そして、会員七十五万世帯を達成し、学会は大飛躍した。
その戸田先生が逝去された時、私は、日本の広宣流布を盤石にし、

必ずや世界広布の流れを開こうと心に誓った。
そうして今、大聖人の仏法は世界に広がった。
物事には、必ず区切りがあり、終わりがある。
一つの終わりは、新しい始まりだ。その新出発に必要なのは、断固たる決意だ。
誓いの真っ赤な炎だ。立つんだよ。皆が後継の師子として立つんだ。

いいね。頼んだよ」

県長会は、涙のなかで幕を閉じた。

 

何があろうと、皆の心に峻厳な創価の師弟の精神が脈動している限り、

新しき道が開かれ、広宣流布は伸展していくのだ。

引き続き、午後には総務会が開かれた。
この席上、伸一の会長辞任の意向が伝えられ、受理された。
さらに総務会では、懸案であった「創価学会会則」の制定を審議し、採択。
これに基づき、新会長に十条潔が、新理事長に森川一正が選任され、

伸一は名誉会長に就任した。
それは、伸一にとって、壮大な人生ドラマの新章節の開幕であった。

二十四日の総務会で制定された「創価学会会則」は、学会が宗教団体として、

どのように宗教活動をしていくのか、
また、どのように会員を教化育成していくのか、さらに、

そのために組織をどのように運営していくのかなど、
原則的な事項を定めたものである。

つまり、学会が宗教団体として活動を進めていくうえでの基本的な規範といえよう。

それまで学会は「創価学会規則」のほか、総務会規定、

人事委員会規定など個別の事項について定めた規定、
さらに創立以来培われてきた慣例等が運営の基本となってきた。
この「会則」は、学会の飛躍的、重層的な発展と、

「七つの鐘」終了にともなう新時代への前進に対応するため、
それらを整理し、成文化してまとめたものである。
「会則」は十五章からなり、会長及び理事長については、

総務のなかから総務会が選出することが明記され、任期は五年と定められていた。
(その後、改定=編集部注)

なお、この日の総務会には、副会長の鮫島源治からも役職辞任の申し出があり、

受理されている。
 

県長会が終了し、正午ごろになると、

「創価学会の山本伸一会長が辞任へ」とのニュースがテレビ、ラジオで流れた。
報道では、宗門の法華講総講頭も辞め、新会長には十条潔が就任し、

伸一は名誉会長となる見込みであることなどが伝えられた。
既に情報が流されていたのである。

全国の学会員にとっては、まさに寝耳に水であった。
“そんなことがあるわけがない。とんでもない誤報だ”と思う人もいれば、

“本当なのだろうか”と、首をひねる人もいた。
また、“なんで先生が会長を辞めなければならないのか!”と憤る人もいた。

学会本部には、問い合わせや憤慨の電話が殺到した。電話口で泣きだす人もいた。

交換台は、大わらわであった。
海を進む船は、荒波にも揉まれる。疾風怒濤を越えてこそ、新天地へと至る。

伸一は、ただ一人、船首に立って風に向かった。

県長会等のあとも、山本伸一は新宿文化会館にとどまり、

彼の辞任にいちばん衝撃を受けている婦人部の代表と懇談して励ました。
また、来客の予定があり、その応対にも時間を費やした。
夜には、創価学会として記者会見を行うことになっていたが、
既に新聞各紙は夕刊で、伸一が会長を勇退し、

十条潔が新会長に就任することになると、大々的に報じた。

それらの報道では、この日の「聖教新聞」に、

伸一の所感「『七つの鐘』終了に当たって」が掲載されたことに触れ、
それが「辞意」の表明であるなどとしていた。

記者会見の会場である聖教新聞社には、夕刻から、

次々と新聞、テレビ、ラジオなどのマスコミ関係者が訪れ、
午後六時過ぎには数十人の記者らでごった返していた。

午後七時、新会長の十条と新理事長の森川一正、

副会長の秋月英介・山道尚弥らが姿を現すと、
いっせいにフラッシュが光り、カメラのシャッター音が響いた。

伸一は、三十分ほど遅れて、会場に行くことにしていた。
新会長の十条を前面に立てなければとの思いからであった。
 

記者会見では、秋月が、

本日の総務会で会長・山本伸一の勇退の意向が受理されて辞任し、

名誉会長となったと報告。
そして、理事長であった十条が会長に、

副会長の森川が理事長に就任したことが発表された。

また、伸一の会長勇退については、

「七つの鐘」の終了という学会にとって大きな歴史の区切りを迎え、
新しい制度、機構も整い、人材もそろったので、会長職を辞して、
平和・文化・教育の活動に力を注ぎたいとの希望が出されたことなどが伝えられた。

マスコミ関係者の多くは、辞任の情報は耳にしていた。
しかし、昨日まで、まだ先のことではないかと思っていたようだ。
学会が未曾有の大発展を遂げたのは、常に未来を見すえて、
先手、先手と、素早く手を打って前進してきたことにこそある。

十条潔は、緊張した面持ちで新会長としての抱負を語った。
「山本第三代会長の後を受けまして、新しい制度による出発となりました。
これまでに山本会長は、学会の運営は皆で行っていけるように、

十分に指導してくださいました。これからも、学会の進み方に変わりはありません。
誠に大任ですが、決意を新たにし、この任を全うしていきたいと考えております。
今後は二十一世紀をめざし、五年単位の展望で前進してまいります。

特に最初の五年は人材の育成に力を注いでいく所存です。
そして、二度と戦争を起こさせない、社会の安定した平和勢力に、

学会を育てていきたいと思っております」

そこに、山本伸一が到着した。

彼は、記者たちに笑顔を向け、「大変にお疲れさまです」と言って礼をし、

十条にも会釈して隣に座った。

すぐに、「現在の心境と会長勇退の理由をお聞かせください」との質問が飛んだ。

「大きな荷物を下ろしてホッとした気持ちです。

ただし、新しい会長中心の体制、これからの前進を見守るという意味では、
また新しい荷物を背負ったような気持ちもいたします。

ゆっくり休ませてくれないんですよ」

彼の言葉に、どっと笑いが起こった。

どことなく重たかった空気が一変し、十条の顔にも笑みが広がった。
伸一は、新体制の出発を明るいものにしたかったのである。

ユーモアは暗雲を吹き払う。
彼は、話を続けた。
 

「既に説明もあったと思いますが、会長を辞任しようと思った最大の理由は、

足かけ二十年という歳月を、
一人で最高責任者をしていることは長すぎると判断したことです。

以前から、後進に道を譲ることで、
新しい活気に満ちた創造もなされると考えてきました。

また、疲れもたまっています。しかし、私は五十一歳であり、
今ならば、まだ皆を見守りながら、応援していくことができます」

人生は、闘争の連続であるといえよう。

山本伸一は、記者団の質問に答えて、今後の自身の行動について語っていった。

「学会としては、世界の平和をめざし、仏法を基調として、さらに幅広い平和運動、教育・文化運動等を展開していきます。私は、その活動に時間をあて、

行動していきたいと考えています」

伸一への質問は続いた。

「会長交代によって、今後、学会と公明党の関係は変わりますか」
 

記者たちの最大関心事は学会と政治との関係にあったようだ。
伸一は微笑みながら、

「それは、新会長に聞いてもらわないと。でも、これまでと同じでしょ?」

と言って、隣の十条潔の顔をのぞき込んだ。


十条は大きく頷いた。

「やっぱり、同じですって」また、笑いが広がった。

「これまで同様、

学会が公明党の支援団体であることに変わりはないということです。
公明党には、いちばん国民のために貢献していると言われる党に、
さらに成長していっていただきたいというのが、私の願いです」

彼は、すべての質問に、率直に答えた。
午後八時前、記者会見は終わった。

受付の女子職員が、心配そうな顔で伸一を見ていた。
彼は、微笑を浮かべて言った。

「大丈夫! 私は何も変わらないよ!」

 

それから別室に移り、青年部幹部らと懇談した。彼は魂を注ぎ込む思いで訴えた。

「私が、どんな状況に追い込まれようが、

青年が本気になれば、未来は開かれていく。
弟子が本当に勝負すべきは、日々、師匠に指導を受けながら戦っている時ではない。
それは、いわば訓練期間だ。師が、直接、指揮を執らなくなった時こそが勝負だ。
しかし、師が身を引くと、それをいいことに、わがまま放題になり、

学会精神を忘れ去る人もいる。戸田先生が理事長を辞められた時もそうだった。
君たちは、断じてそうなってはならない。
私に代わって、さっそうと立ち上がるんだ! 皆が“伸一”になるんだ!」

山本伸一が聖教新聞社を出て、自宅に向かったのは、午後十時前のことであった。


空は雲に覆われ、月も星も隠れていた。


これで人生ドラマの第一幕は終わったと思うと、深い感慨が胸に込み上げてくる。

すべては、広布と学会の未来を、僧俗和合を、
愛するわが同志のことを考えて、自分で決断したことであった。彼は思った。

“これからも、学会の前途には、幾たびとなく怒濤が押し寄せ、
それを乗り越えて進んでいかなくてはならないであろう。
私が一身に責任を負って辞任することで、いったんは収まるかもしれないが、
問題は、宗門僧らの理不尽な圧力は、過去にもあったし、

今後も繰り返されるであろうということだ。
それは広宣流布を進めるうえで、学会の最重要の懸案となっていくにちがいない。
学会の支配を企てる僧の動きや、退転・反逆の徒の暗躍は、
広宣流布を破壊する第六天の魔王の所為であり、悪鬼入其身の姿である。
信心の眼で、その本質を見破り、尊き仏子には指一本差させぬという炎のような

闘魂をたぎらせて戦う勇者がいなければ、学会を守ることなど、とてもできない。

広宣流布の道も、全く閉ざされてしまうにちがいない”
未来を見つめる伸一の、憂慮は深かった。

 

玄関で、妻の峯子が微笑みながら待っていた。家に入ると、彼女はお茶をついだ。

 

 

「これで会長は終わったよ」

伸一の言葉に、にっこりと頷いた。
「長い間、ご苦労様でした。体を壊さず、健康でよかったです。
これからは、より大勢の会員の方に会えますね。

世界中の同志の皆さんのところへも行けます。
自由が来ましたね。本当のあなたの仕事ができますね」

心に光が差した思いがした。


妻は、会長就任の日を「山本家の葬式」と思い定め、

この十九年間、懸命に支え、共に戦ってくれた。
いよいよ「一閻浮提広宣流布」への平和旅を開始しようと決意した伸一の心も、

よく知っていた。彼は、深い感謝の心をもって、「戦友」という言葉を噛み締めた。

四月二十四日の夜更け、山本伸一は日記帳を開いた。

この一日の出来事が、次々に頭に浮かび、万感の思いが込み上げてくる。

“本来ならば、二十一世紀への新たな希望の出発となるべき日が、
あまりにも暗い一日となってしまった。県長会の参加者も皆、

沈痛な表情であった……”

彼は、今日の日を永遠にとどめなければならないと、ペンを走らせた。

 

日記を書き終えた時、“ともかく人生ドラマの第二幕が、今開いたのだ! 
波瀾万丈の大勝利劇が、いよいよ始まるのだ!”と思った。

そして、自分に言い聞かせた。

“荒波がなんだ! 私は師子だ。広宣流布の大指導者・戸田先生の直弟子だ。
新しい青年たちを育て、もう一度、新たな決意で、永遠不滅の創価学会をつくろう!”

闘魂が生命の底から、沸々とたぎり立つのを覚えた。
若き日から座右の銘としてきた一つの言葉が、彼の脳裏を貫いた。

――「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」

この夜、各地で緊急の会合が開かれ、伸一の会長勇退と新体制の発足が伝えられた。
関西では、登壇した幹部が、かつて戸田城聖が理事長を辞任した折、
伸一が戸田に贈った和歌を読み上げ、声を大にして叫んだ。

「『古の 奇しき縁に 仕へしを 人は変れど われは変らじ』
――この和歌のごとく、たとえ山本先生が会長を辞めても、
関西の私たちの師匠は、永遠に山本先生です」

すると皆が、「そうだ!」と拳を突き上げたのである。

また、テレビ、ラジオは夜のニュースで、会長勇退の記者会見の様子を伝えた。

学会員の衝撃は、あまりにも大きかった。
しかし、同志の多くは自らを鼓舞した。

“勇退は山本先生が決められたことだ。深い大きな意味があるにちがいない。
今こそ広布に走り抜き、先生にご安心していただくのが真の弟子ではないか!”
皆の心に、師は厳としていたのである。

「新・人間革命」第30巻 大山 池田大作
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 

 

彼の人。


このバトンは人類の希望である。
同時に我が身を焼きこがす覚悟なくして握れない、
峻厳(しゅんげん)なるバトンである。
正義のためならば何ものも恐れぬ獅子だけが、
『自己を支配する』王者だけが、
この栄光のバトンを受け継げる。
~ 1991年3月15日