釈尊の生きた時代。
インドに、文字に記す文化は根付いていなかった。

ゆえに、文献学的には仏説はどこにもない。


植木雅俊氏は語る。

”2500年、5000キロ、
ブッダの教えはどのように伝わったのか、
壮大な伝言ゲームの果てに。”
 

 

文献学的には仏説はどこにもないからこそ、
仏法は、歴史上の実在の釈尊を超え、

人類とともに、思想として深化することが出来たとも言える。

釈尊が生きた時代。
バラモン教が支配的だったとされる。

 

 

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バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、
徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。

バラモンとは司祭階級のこと。
バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、
宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。

最高神は一定しておらず、
儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。

階級制度である四姓制を持つ。

司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、
ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなる。
また、これらのカーストに収まらない人々は
それ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)とされた。
カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
 

@ 教義

神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、
天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、
司祭階級が行う祭式を中心とする。
そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。
輪廻転生の思想によれば
「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、
人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。
この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。
善因は善果、悪因は悪果となる。
そして、あらゆる生物が六道
①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道
を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。
これを六道輪廻の宿命観という。
何者もこの輪廻から逃れることはできない。
それは車が庭を巡るがごとしと唱える。

 

@ 歴史

紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、
先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、
バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成される。
紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、
バラモンの特別性がはっきりと示される。

しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。
現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。

新思想が生まれてきた理由として、
経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。
カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、
特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。

1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形で
シヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、
ヒンドゥー教へと発展、継承された。

 

@ ヒンドゥー教との差異

バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。
たとえばバラモン教に於いては、中心となる神はインドラ、ヴァルナ、

アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、

バラモン教では脇役的な役割しかしていなかった

ヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。

ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、
叙事詩(ギータ)『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』『プラーナ文献』
などの神話が重要となっている。

ウィキペディア バラモン教
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釈尊当時のインドは、都市の発達によって、人々が部族という分断の枠を超え、
新しい結びつきのなかで「共生」しなければならない時代になりつつありました。

そうしたなか、思想的には唯物論から快楽主義、苦行主義に至るまで、
混乱の極みに達していた。
~ 「法華経の智慧」 池田大作

 

 

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釈迦の時代のインドの都市では、商工業者たちが貨幣経済によって栄え、
ギルドのような組織を作って経済的な実権を握り、
それまでの祭祀を司るバラモン、
政治を握るクシャトリヤが社会を支配する旧体制は崩れ、
物質的な豊かさと都市文化の爛熟で自由享楽的な空気になっていた。

バラモン教ヴェーダ学派を否定する自由な思想家が多数輩出し、
ヴェーダの権威を否定する諸学説を提唱して盛んに議論していた。
時代の変革で生まれた新興勢力に支持されたのが、
こうした反ヴェーダ思想であり非正統バラモン思想の自由思想家たちである。

その中には六師外道と呼ばれた思想家だけでなく、釈迦も含まれる。
六師外道と呼ばれた思想家たちの思想は、新しい時代の新しい思想の動きであり、
その影響下でジャイナ教・仏教の思想と活動が生まれていった。

ウィキペディア 六師外道
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文献学的には仏説はどこにもない。
いま、あるのは仏説ではない。


釈尊が描いたであろう仏法。

釈尊滅後、口伝により仏典結集したとされる、
頭陀第一の迦葉・多聞第一の阿難が描いた阿含経。

数世紀の伝承から生まれたとされる、
智慧第一の舎利弗が描いた法華経。

インドから中国、竜樹・天親・天台・伝教を経て、
日蓮大聖人が描いた南無妙法蓮華経。

 

 

 

相対論で宇宙のすべてが語れるわけではない。

けれど、宇宙をマクロな物理の目で見たとき、絶対時間は否定され、
時間は、僕らが動いている速度や重力により変わる。
 

 

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重力による空間の曲がりが大きいほど、
本質的に時間がゆっくり流れるのです。

地球の地表付近では、
そのはるか上空を飛行している人工衛星よりも
重力によって時間がゆっくり進んでいる。

人工衛星が感じる時間の遅れは、
地上に対して100億分の4.45秒というとても小さな値です。
ですが、この時間の遅れを考慮しない場合、
GPSによる位置計測の誤差が数百メートルにもなってしまうそうです。

【相対性理論ではなぜ時間が遅れるのか?】 はてなクマのひらめき研究所
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僕らが感じる時間とは、この宇宙の一つの太陽系の惑星・地球の上で、
共に生きているものだけが共有できる特殊なものとなる。

もし、他の星に生命が存在するならば、
彼らが共有する時間は、僕らのものとは違うのかも知れない。

時間が、マクロな物理学的には相対的でしかないならば、
この生命の星に生きる人間は、その特殊な時間という共有感覚を、
この地球に生き続けるという実存から、
思想的にさらに捉え直すことも可能となる。


物理学の世界から、仏教学の世界へ移り、博士となった氏の著作を、
まだすべて読み切ったわけではないのだけれど、
とても示唆に富んだ視点を提示してくれている。

 

 

天台大師は、一切経を釈尊一代で説かれたものとして、
総合的に矛盾なく理解しようとし、
華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五時としたとされる。

そこでは、歴史上の実在の釈尊がどうなのかはすでに問題ではない。

さらに、日蓮大聖人はその上で、
法華経に説かれる長大な絶対時間を、一挙に超えてしまうことで、
仏法思想を、末法万年尽未来際、この地球に生きる人間に、
その共有する絶対時間を、一人の人間それぞれが一瞬に凝縮して、
すべてを転換させようとする”能生の思想”の力を生み出した。

そして、それを現実にすることが出来るかどうかは、
一人一人の側にあるとした。

つまり、自力でもなく他力でもなく、
すべての生命が持つ本然の力を引き出せるかどうかにあるとした。

「御義口伝」をもとに、植木雅俊氏は語っている。

 

 

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日蓮の時間論と思われるところを紹介しておこう。
それは、『法華経』寿量品第十六の「我実成仏已来無量無辺」
について論じたところである。

これは、『法華経』のストーリーの中では、
「我れ実に成仏してより已来、無量無辺なり」と読み下され、
「私が成仏してから無量無辺の天文学的時間が過ぎ去った」
という意味である。

ところが、日蓮はここに用いられている一つひとつの漢字に
次のような意味を付与する。

我とは法界の衆生なり、十界已已を指して我と云うなり、
実とは無作三身の仏なりと定めたり、此れを実と云うなり、
成とは能成所成なり、成は開く義なり、法界無作の三身の仏なりと開きたり、
仏とは此れを覚地するを云うなり、
已とは過去なり、
来とは未来なり、
已来の言の中に現在は有るなり。
我れ実と成けたる仏にして、已も来も無量なり無辺なり。

「我」というのは全宇宙(法界)に存在する衆生のことであり、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・独覚・菩薩・仏の十界
おのおのの衆生を指して「我」と言うのだ。
次の「実」というのは、その「法界の衆生」、あるいは「十界已已」
が本来あるがままの仏(無作三身の仏)であるということが
生命の真実であるということだ。

すなわち、寿量品で明かされる如来とは、われわれのことであり、
われわれこそがその主人公であるということを一貫して主張している。

次の「成」という文字について「成は開く義なり」とし、
「なる」ではなく「開く」と読み替えている。
「なる」では現在の自己を全否定して別のものになるという意味になるが、
「開く」は現在の自己を全否定するのではなく、自己に秘められたものを
開き現わすという意味になる。

 

そのように読み方を替えて、
「法界無作の三身の仏なりと開きたり」と言っている。
全宇宙が、あるいは小宇宙とも言うべき自己の生命が、
無作の三身の仏であると開く、ということだ。

とすると、成く者(能成)はわれわれ自身であり、成かれるもの(所成)は
「無作の三身の仏」ということだ。

①法身[ほっしん](仏が覚った真実・真理)
②報身[ほうしん](最高の覚りの智慧をはじめ、

仏と成った報いとして得た種々の優れた特性)
③応身[おうじん](人々を苦悩から救うためにそれぞれに応じて現実に現した姿、慈悲の側面)

無作とは「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」ということだから、
「無作の仏」とは三十二相といった特殊な姿を具えるような荘厳身ではなく、
執着や妄想を離れた凡夫のあるがまま(真如)の仏ということであろう。

現在の自己に即して、凡夫のままで成仏するというのだ。

「無作の仏」といっても、それは自己に「成く」べきものであるのだから、
「仏」というのは、それを成いて覚知した人のことを言うのである。
だから、「仏とは此れを覚知するを云うなり」である。

仏であるか、衆生であるかという違いは、それを覚知しているか、
していないかという違いがあるだけである。

それは、サンスクリット語のブッダが「目覚めた(人)」

という意味だったことに通じている。
 

「ブッダ」とは、「目覚めた人」、「覚った人」、「覚者」ということであって、
釈尊の固有名詞ではなかった。普通名詞だった。
しかも、原始仏教ではしばしば複数形で用いられている。
釈尊のみを特別扱いしていなかった。目覚めれば、だれでもブッダ(仏陀)であった。

そして、以上のことを踏まえて、
「已とは過去なり、来とは未来なり、已来の言の中に現在は有るなり」として、
ここから時間論が展開される。

「已」というのは、「すでに」と読み、

すんでしまったことであって過去を意味する。
「来」というのは、これから来ることであって、未来を意味する。
この一節に示される時間論は、過去といい、未来といっても、
現在のことにすぎないということである。

時間といっても、今現在しかない。

過去といい、未来といったって、観念の産物である。
過去といったって、過去についての「現在」における記憶である、
未来といっても、未来についての「現在」における予想でしかない。

所詮、現在である。
その意味で、過去といい、未来といっても、現在を抜きにしてはあり得ない。

こうした時間論を踏まえた上で、我が身を「無作の仏」と覚知したときのことを、
「我れ実と成けたる仏にして、已も来も無量なり無辺なり」と結論されている。
この読み方と、これまでの、「我れ実に成仏してより已来、無量無辺なり」
という読み方とを比べると、違いが明らかである。

両方とも、漢字だけを順に拾って読むと、

「我実成仏已来無量無辺」となって同じだが、
後者のほうは、成仏したのは遥かな過去であって、

時間的に現在とは大きな隔たりがある。
前者は、現在の瞬間において我が身を無作の仏と成くことにより、

過去と未来の意味が、現在の瞬間において無量無辺に開けてくる。
瞬間即永遠と開けてくる、というような意味となる。

 

過去の一時点ととらえる考えは、
因果を時間的に隔たったものとしてとらえる因果異時の発想である。
これだと、因が劣り果が勝れているという前提で、

因から果を目指すということになり、
現在の凡夫としての自分を否定して、未来に特別な存在になるということで、
現在という時点の意義が薄れてしまうことになる。
それに対して、日蓮の考えは因果俱時であり、時間的隔たりの中で因果をとらえず、
現在という瞬間において因果をとらえるので、
現在という瞬間こそが重要な意味を持ってくることになる。

「我れ実と成けたる仏」が立っているところは、今現在である。
それは、現在の瞬間に生命の本源たる久遠を開いていることである。
その現在の生命は、時間的に過去と未来を含んでいるわけで、
現在における歓喜の充満と、意味の輝きで、
過去(已)と未来(来)が「無量無辺」に開けてくるのだ。

「無量無辺」とは、時間的な観点から言えば、「瞬間即永遠」ということになる。
空間的な観点から言えば、

「宇宙即我」「自己の宇宙的拡大」ということと言ってもかまわないと思う。

以上述べてきたように、時間というのは、実は今現在しか実在しない。
瞬間、瞬間が、常に「今」の連続である。
それなのに、無明によって妄想や執着が生まれ、時間の観念が形成される。

そして、今現在の重みに気付かずに、過去や未来にとらわれてしまいがちである。
過去に辛く忌まわしい経験をして、それを忘れることのできない人は、
過去を引きずるように過去に囚われながら「現在」を生きてしまうことになる。
あるいは、「現在」をいい加減に生きながら、

未来に夢想を追い求めている人もいる。
あるいは、過去の栄光に酔いしれて現在を生きている人もいる。
いずれにしても、妄想に生きていることに変わりはない。

 

日蓮が言うのは、今現在という瞬間に、
生命の本源としての無作の仏の生命を成き、智慧を輝かせる。
そこに、瞬間が永遠に開かれるということだと思う。

哲学者の三木清(1897~1945)が、1917年に「友情――向陵 生活回顧の一節」
と題する小文の末尾に記した次の言葉は示唆に富んでいる。

 現在は力であり、未来は理想である。
 記録された過去は形骸に過ぎないものであろうが、
 我々の意識の中にある現実の過去は、
 現在の努力によつて刻々に変化しつつある過去である。
 一瞬の現在に無限の過去を生かし、
 無限の未来を注ぐことによつて、
 一瞬の現在はやがて永遠となるべきものである。

原始仏典の『マッジマ・二カーヤ』においても、
釈尊は現在の重要性を次のように語っている。

 過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、

 すでに捨てられたのである。
 また未来は未だ到達していない。そして現在のことがらを、

 各々の処においてよく観察し、
 揺らぐことなく、まだ動ずることなく、それを知った人は、

 その境地を増大せしめよ。
 ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。(中村元 訳)

このように、仏教が志向したのは、<永遠の今> である現在の瞬間であり、
そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを
日蓮は主張しているのであろう。

以上のことを踏まえると、成仏とは、この「我が身」を離れることではなく、
今自分がいる「ここ」を離れるものでもない。
要するに、「今」、「ここ」にいる「我が身」に無作の仏を開き、

具現するということである。

「仏教、本当の教え」 植木雅俊
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