法華経は不思議な経典だ。
今を語るとともに、過去を語り、さらに未来をも語り、
会座は実在の霊鷲山から虚空へ移りまた霊鷲山へ戻り、
他の無数の仏国土が繋がり、
諸仏・諸菩薩が他の世界から参集し、
未来の仏菩薩が大地を割って出現する。
永遠の思想闘争として読まなければ全く理解できない。

 

霊鷲山

 

自らが説く法華経が唯一の法華経ではなく、

自らが唯一の仏ではなく、
過去にも、時代時代に、
新たな法華経が説かれてきた、
未来にも、新たな法華経を説く仏が出現する、
と説く経典である。

 

 

時代が末法を迎えるたびに、
次々と生まれる新たな法華経が、
どんな時代の限界をも打ち破っていく。

この法華経の釈尊からすれば、
阿含経だけを説いたとする文献学上に現れる、
歴史上に彼らが想定する釈尊、原始仏教、部派仏教の釈尊は、
思想的にも、人間の境涯的にも余りにも小さい。

 

釈尊の末法に日蓮大聖人、その700年後、
すでに、戸田先生が名付けた創価学会仏は出現している。


ユダヤ・キリスト・イスラム、
『啓典の民』として同根の三宗教は、いままさに末法の時代を迎え、
人類が新たな精神文明の扉を開こうとするのを阻み、
ヤファエの神、アッラーの神は世界と人類を貶めようとしている。

絶対神や外部の救済者を装うだけ、
阿含経の釈尊より、さらにたちが悪い。
 

 

新たな法華経は、
ヤファエの神、アッラーの神を相手にしなければならない。

創価学会仏をさらに荘厳し、
現代の世界に、この新たな法華経を説いていくことは容易ではない。

 

新たな法華経は、救いとともに、
自身の苦悩を打開する希望と生命力と、
妥協なくあらゆる悪と戦う思想の力を与えられなければならない。

 

 

『仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、
故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり』
(四条金吾殿御返事)

『瞋恚は善悪に通ずるものなり』
(諫暁八幡抄)


彼の人。

「怒りをもってこそ正義は発現される。
怒りなき人生は正義なき人生と同じである」
 

 

『仏法と申すは道理なり』

(四条金吾殿御返事)

仏法に秘密などない。
誰かがつくりだしたものではなく、
はじめを語るのではなく、終わりを語るのでもなく、
実存するあるが儘の普遍的なことについて説いているのに、

 

日蓮大聖人が遺した著作・書簡のすべて「日蓮大聖人御書全集」
を読み切った僕からすると、日蓮大聖人という人間と、
三大秘法という言葉は、あまりにもかけ離れていて、

僕は、いまでも違和感がある。

三大秘法という言葉を用いているのは、
太田乗明、最蓮房日浄、富木常忍、清澄寺の兄弟子、浄顕房・義浄房など、
密教に親しみのある門下等に与えられた数点の御書にすぎない。



僕が昨日読んだ本は、鎌倉時代に関する詳細な知識を要し、
読み解くのはとても難しいものだった。

以下については、表現などに異論はあるかもしれないが、
一つの視点としてはあり得ると思うので、ここに引用する。

それが何故生まれたのかについて語ってくれている。

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
@ 題目と念仏

鎌倉時代初頭、仏教界は他宗を否定する専修念仏を邪教であると断じ、
さらに幕府に念仏禁制を徹底するよう直訴していた。
しかし念仏の流布は衰えず、幕府の禁制を凌駕して広まっていく。

「立正安国論」の提出後まもなく、日蓮の名越の草庵が襲撃される。
この経緯について日蓮は、浄土宗の良忠(然阿)が真言立宗極楽寺の
良観房忍性に讒言したことによると認識している。

安房、下総での対立の延長といえよう。

念仏信仰の魅力は、端的にその平易さにある。

日蓮が安国論で指摘するように、当時は相次ぐ天変・疫病・飢饉・戦乱
によって社会は荒廃し、末法の到来を肌で感じる時代相であった。
にもかかわらず鎮護国家を旨とする既存の仏教界は、
仏の救済を願う個人の要求に応えられず、
唯一、念仏信仰だけが時代の要請に応えていた。

・・・

 

法華経は諸経の王、諸経中第一と呼ばれ、
聖徳太子のころから大事にされた特別な経典です。
源頼朝も熱心な法華経信者として有名でした。
ところが、本来の法華経信仰は、特別な教養と財力がある貴族にしか
許されないものだったのです。

法華経では、その修行を、経典の受持・読・誦・解説・書写に求めています。
法華経の入手と所持、読経、暗唱、解説、書写することが、
法華経の修行であり、法華経信仰だったのです。

当時圧倒的多数を占めていた下層民(農民・下人)は、生まれた土地で農作業
などに汗水流して生涯を終えていきます。文字も読めません。
こうした人々に、法華経信仰は無縁なものでした。

では、鎌倉時代の主役である東国武家は、どうしていたのでしょう。

平安末に急速に力をつけ、歴史の舞台に躍り出た東国武士でしたが、
鎌倉時代に入っても漢文を読むことは難しかったようです。

多くの御家人は、漢文の読み書きができる貴族を文官として抱え、
政務・法務にあたらせていました。

この時代、専門家が書写したり、版木で刷って華麗に表装された経典を、
莫大な費用を払って入手するだけでも大変なことだったでしょう。
しかも、漢文の経文を読み、暗唱し、解説し、書写することを法華経は
修行として説いています。漢文に慣れ、教養と財力に富んだ貴族には、
当たり前だった法華信仰ですが、
東国の土着の武家にすんなりと受け入れられるものではなかったのです。
源頼朝が、毎日、法華経を読誦していたのも、貴族だったからです。
 

一方、法然房源空は、南無阿弥陀仏と唱えるだけで誰でも極楽往生できる
と説きました。法然は称名念仏だけが、唯一、極楽往生する道だ、と言いました。
しかも、称名念仏だけに専念しなければならない。
それ以外の信仰は、往生の妨げになるから捨てなければいけないと、
称名念仏への専修を説いて浄土宗を興したのです。

これには仏教界のすべての宗派が猛反発しました。
自分たちの教えが全否定されたのだから当然でしょう。
後に幕府も念仏の禁止を命じました。

しかし、法然の浄土宗は、この激しい反発と禁制を乗り越えて、
大変な勢いで広まっていきます。
やむなく朝廷は、法然を流罪にして、浄土宗の波及を押さえようとしました。

法然が浄土宗を興したのは、一一九八(建久九)年で、讃岐に流されたのは九年後の
一二〇七(建永二)年です。この九年間は、鎌倉では一一九九(建久十)年に

頼朝が没し、その後、北条氏が着々と権力を掌握して北条義時が一二〇五(元久二)年に執権となった時期と重なります。

法然が流罪されても、浄土宗の勢いは止まりません。
鎌倉においても道教房念空らの布教によって、

称名念仏は武家社会に急速に広まっていきました。

朝廷や幕府の禁止令を超えて、なぜ、称名念仏は広まっていったのでしょう。
 

 

@ 称名念仏に沸き返る鎌倉

朝廷や幕府の禁止令を超えて、なぜ、称名念仏は武家社会に広まっていったのか。
理由は主に三つあると思います。

一つは、浄土宗が穏健になったことです。

念仏だけが唯一の往生の道であるとして過激な専修念仏が、

度重なる弾圧で勢いを失い、
代わって他宗の教えも尊重して、さまざまな修行も認める
穏便な教えが浄土宗の主流となりました。

これで、仏教界との争いはなくなり、称名念仏は、

他宗の僧も唱える修行の一つとして広まっていきました。

もう一つは、武士の残虐な立場と関係しています。
戦闘と殺人を勤めとする武士は、自身の死後の恐怖とも戦っていました。
ところが、それまでの仏教は、莫大な財力と高い教養を前提として、
天皇家や貴族の要望に応えるものだったので、漢文の読み書きさえおぼつかない
東国の武家には、とても敷居の高いものでした。
この状況を一変したのが念仏信仰です。

死んで地獄に堕ちる――この切実な恐怖を念仏が救ってくれるのです。
特別な教養も、財力も必要なく、南無阿弥陀仏と声に出して称えるだけで、
極楽往生を保証してくれるという有り難い教えに、

武家がこぞって傾倒していったのは、とても自然なことでした。

そして武家が信仰した念仏は、
領内の農民・下人などの下層にまで広範に受け入れられていったに違いありません。

庶民の眼前に、初めて自ら信仰できる仏教が現れたのです。

東国における急速な念仏信仰の広まりは、
このように武家社会の発展と軌を一にするものでした。

 

三つ目は、時代と社会に対する不安です。

平安時代の末から、仏教では「末法」と呼ばれる時代に突入します。
末法は、釈迦の教えが失われて世の中が乱れるとされた時代です。
この時代には天候不順や地震などの天災、飢饉・疫病の流行も頻繁にありました。
餓死・病死は逃れがたく、鎌倉には放置された死体が溢れていました。
死体が腐乱して白骨になっていく地獄の世界は目の前に広がり、
人々が末法の到来を肌で感じる時代でした。
ここにも、念仏信仰が人々の救いとなって広まっていく要因があったのです。

称名念仏の圧倒的な流行の中で、
つい先日まで諸経の王と崇められてきた法華経信仰から、
人々の関心は薄れていきます。それは、幕府を担う為政者も同様でした。
かつては源頼朝でさえ大事にしていた法華経に代わり、
念仏が重用されたのは時代の流れであり、仕方のないことでした。
 

・・・

経巻の入手に膨大な費用を必要とし、しかも御家人でさえ漢文の素養に
恵まれなかった時代である。仏典を読める者は貴族出身に限られていた。
このように財力と教養に富む貴族・武家にしか許されなかった法華経の
読誦や書写などと違い、念仏は万人に開かれた宗教性を有していたのである。

鎌倉初期には篤く受容されていた法華経信仰は、宗教的素養に未熟な
武家の台頭と符節を合わせた念仏の普及によって急速に衰退していく。

・・・
 

この状況を変えようとしたのが、日蓮だったのです。

日蓮は、中国の智顗(天台大師、五三七~九七)、

日本の最澄(伝教大師、七六七~八二二)の流れをくむ正統派の僧として、

法華経信仰の再興を目指したのです。

日蓮の目には、念仏の広まりが、

法華経信仰を否定する邪教からの挑戦と映っていました。

では、念仏信仰の広がりを抑えて、再び幕府の為政者に法華経を信仰させるには、
どうしたらいいか。念仏が南無阿弥陀仏と唱える称名念仏という方法によって、
広範な信仰を獲得している以上、それに対抗する口唱の方法を法華経信仰が確立し、
広めなければならないと日蓮は考えました。

 

南無妙法蓮華経の唱題は、こうして誕生します。

・・・

 

日蓮が法華経信仰を再興しようとした時、南無妙法蓮華経の唱題という
形態をとったのは偶然ではない。

法然の念仏流布から遅れること八十年、後発の日蓮は南無阿弥陀仏の易行
にたいして南無妙法蓮華経という法華経の題目を唱える易行をもって、
法華経信仰の再興を図ったのである。

念仏は法然以前から行われていた修行だが、日蓮もこれに対し、
すでに平安時代に一部で行われていた南無妙法蓮華経の唱題を、
法華経修行の易行として理論化する。

妙法蓮華経の題目五文字に法華経のすべてが集約されていると論考した
智顗(天台大師)の「法華玄義」を根拠に、
題目の信受は法華経全体の信受と等価であると主張した。

唱題の提唱は、それ自体が念仏に対する折伏であり、
法華経信仰も万人に開かれた宗教性を有することになった。

日蓮は「権教の題目流布せば実教の題目もまた流布すべし」として、
こうした信仰形式の変化を、仏法が人々の願望に応えてより広く
一般化するための知恵であると歓迎している。

・・・

 

唱題の確立によって、当時の東国に、
武家から下層の庶民に至るまで信仰できる仏教として、
再び法華経が立ち現われました。

日蓮は、南無妙法蓮華経の唱題を流布することによって、
真正面から称名念仏の流布と対峙し、
念仏信仰の波及を押し返そうとしたのです。

日蓮が当初、強く意識したのは、称名念仏との勝負であり、
それを弘める念仏僧との闘争だったといえるでしょう。

・・・

 

@ 法華経

法華経というのは、万人が成仏できることを教理的な裏付けと、
さまざまな証明をもって説いた唯一の経典です。

それ以外の経では女性は成仏できない、とさえ説いていました。
ですから仏教は法華経まで、とても差別的な教えでした。
法華経で、はじめて実質的に万人を平等に尊ぶ思想が説かれるのです。

ところが、この法華経は、実は釈迦以前にも何度も説かれてきたということが
前提になっています。つまり、法華経とは釈迦が説いたものだけを指すのではなく、
今、我々が法華経と呼ぶ経典は、正確には「釈迦の法華経」と呼ぶべきもので、
他の仏が説いた法華経も存在したのです。

例えば、法華経の不軽品には、過去に法華経を説いた威音王仏という仏の存在と、
その仏が没した後に不軽菩薩が二十四文字の法華経を説いた、

という物語が説かれます。
この二十四文字の法華経が何を説いていたかというと、

端的に「皆、仏になれる」と万人の成仏を説いているのです。

威音王仏が説いた法華経も同様です。
ですから、逆からいえば、万人の成仏を説いた経を、
法華経と名付けているとも言えるでしょう。
しかも、釈迦は、過去の不軽菩薩が、現在の釈迦自身である、とも述べています。

ここから分かるのは、法華経と呼ばれる万人の成仏を説く教説は、
過去から繰り返し説かれ、
その法華経を説く仏も過去から繰り返し出現してきたということです。

そして法華経こそが様々な仏と経典を産み出す根源だったということです。

仏教では、ある仏の入滅後その教えが世から失われていく様子を、
正法・像法・末法の三つの時代に分けて理解します。

 

正法は仏の教えが世に行きわたって安定した時代、
像法は形骸化が始まり不安定になる時代、
末法は教えが世から失われ不幸に見舞われる時代です。
先の不軽菩薩は、威音王仏の像法の末に現れて法華経を広めたと説かれます。

この不思議な状況設定は、そもそも何を表そうとしているのでしょうか。

簡単に言うと、万人の平等を説く教え・思想が、時代の変化とともに失われて
世の中が不幸になった時、新たな人物が再び万人の平等を説き、
その思想を広めていく――これが永遠に繰り返されるということです。
威音王仏→不軽菩薩→釈迦は、その流れの中にあるわけです。
そして、その時代その時代に、
新たな法華経が説かれてきたことを示そうとしているのです。

日蓮は、釈迦という仏の末法時代にいます。
釈迦が説いた法華経への信仰が、念仏の流布によって急速に失われ、
世が不幸に見舞われている。そう日蓮は理解しています。
日蓮は南無阿弥陀仏の称名念仏に対抗して南無妙法蓮華経という
法華経題目の唱題を広め、
新たな法華経信仰、五文字・七文字の法華経を説いているのです。

日蓮は、当初、自らの仏法上の立場について、
釈迦の法華経を、釈迦滅後の像法時代に中国で広めた天台大師、

日本の伝教大師に連なる正統な僧と位置付けていました。

ところが後には、釈迦が説いた法華経の文脈からみれば、
日蓮は教主釈尊の久遠からの弟子であり、

釈迦仏法の末法に五文字の法華経流布を託された菩薩である、と述べて、

威音王仏→不軽菩薩→釈迦→日蓮の系譜に移しています。

 

 

@ 二度の流罪が、日蓮を変える

日蓮が広めた唱題は、称名念仏の勢いを押し返していきました。
「念仏無間地獄」との激しい攻撃や、
「立正安国論」で示した日蓮の予言が蒙古襲来によって的中したことは、
念仏僧たちに大きな動揺をもたらし、幕府内には政治的な葛藤も生まれていきます。
そうしたなか一二七一(文永八)年十月、日蓮は佐渡に流されました。
流罪の経緯には、念仏僧たちによる謀略もありましたが、と同時に、
幕府内の対立抗争に日蓮が巻き込まれた面もあったのです。

日蓮は、「立正安国論」を幕府に提出した翌一二六一(弘長元)年に

伊東へ流されていますから、
日蓮は10年で二度の流罪に処されたことになります。
二度の流罪というのは、法華経者である日蓮にとって特別な意味がありました。
それは、法華経の予言が的中した証だったからです。

法華経には、釈迦滅後の悪世において法華経を流布する者には

必ず三種の強敵が現れ、迫害を加えるだろうとの予言が記されています。

一つは、仏法に素養のない者たちからの迫害であり、
二つ目は、僧侶からの迫害、
そして三つ目は、高僧が権力者を扇動して二度以上にわたって逮捕・流罪

にするだろう、というものでした。

ところが、日蓮以前には二度以上の逮捕・流罪を経験した法華経者は

いませんでした。

そこで日蓮は、この予言を身で読んだのは、史上、日蓮ただ一人である、

と述べます。日蓮こそ、法華経を経文通りに実践した真実の法華経の行者である、

との宣言でした。

この日蓮の自覚から法華経を読むと、法華経の経文はすべて日蓮の登場を予定し、
日蓮のために残されたものだったということになります。

日蓮は、この自覚に立って自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と述べ、
日蓮こそ釈迦仏法が滅んだ時代の新たな法華経の再興者、仏である、と覚悟します。

 

 

@ 曼荼羅

日蓮は、佐渡流罪の以前と以後とで、

自分の教えが変わっていることを理解するよう、門下に通達します。

では、日蓮の教えは、どう変化したのでしょう。
最も大きな変化は、日蓮が曼荼羅を書きはじめたことにあります。

日蓮の曼荼羅は、中央に南無妙法蓮華経を大書し、その左右と四隅に仏菩薩、
諸神を書き連ねた独特のものです。

この曼荼羅は、書かれた時期、大きさによって、さまざまな変化がありますが、
中央の南無妙法蓮華経だけは不動であり、これが本尊であることは一目瞭然です。

問題は、ここで本尊とされた南無妙法蓮華経と、

唱題される南無妙法蓮華経の違いは何か、ということです。

日蓮は、伊東・佐渡による二度の流罪で、

法華経を経文の通り実践した史上唯一の真実の法華経の行者であり、

釈尊が末法に法華経流布を託した者である、との覚悟を得ます。

これは、端的に日蓮こそが法華経に帰命した者、妙法蓮華経に南無した者、
南無妙法蓮華経と呼称できる存在であるとの覚悟を意味しています。

つまり日蓮は、「真実の法華経の行者」=「南無妙法蓮華経」

を本尊とした曼荼羅を表したのです。

そして、それは紛れもなく日蓮自身のことを指していました。

曼荼羅を書きはじめた当初は、時期をはかったのか、

中央には書かなかった自身の署名でしたが、
やがて南無妙法蓮華経の真下に日蓮と書き入れ、

日蓮こそ南無妙法蓮華経そのものである、と公然と示すようになります。

南無妙法蓮華経の七文字は、佐渡以前には、

法華経に対する帰命の誓願として唱えられていました。
しかし佐渡以後は、法華経身読の真実の行者を表すことにもなったのです。
 

 

@ 念仏の次は、密教だ!

日蓮は、法華経の行者を本尊とする曼荼羅を、

どのような目的で書き始めたのでしょう。
曼荼羅の表示と並んで、佐渡以降、日蓮に顕著に見られた変化は、
密教(真言宗・天台宗)に対する攻撃です。

それまでも密教への批判がまったくなかったわけではないのですが、
佐渡流罪を境に本格的に準備し、攻撃を開始しました。

そもそも曼荼羅は、密教による世界観を図示したもので、大日如来を本尊とし、
祈祷・修法には欠かせないものでした。
この本尊を、大日如来から法華経の行者に代えた日蓮の曼荼羅は、
それ自体が密教の否定であり、攻撃だったのです。

・・・


日蓮は、曼荼羅中央に本尊(中尊)として描かれた絵像の大日如来を、
文字による南無妙法蓮華経に改め、
「法華経の行者」を本尊とする世界観を図顕したのである。

法華経で説かれる虚空会に基づく日蓮の曼荼羅には、
宝塔を中央に描いた密教の法華曼荼羅の影響が明らかだが、
日蓮がそれまでの伝統的な絵図を捨て、
本尊を「南無妙法蓮華経」と文字で示したのは、
見る者をしてさまざまに解釈が広がる絵図の持つ抽象性を嫌い、
意味内容が明解となる文理のもつ厳密性を必要としたからであろう。
徹して文理を重視した日蓮の学究性の反映といえる。

日蓮の曼荼羅の図顕は、
大日如来を第一とする密教への折伏そのものであった。


・・・

かつて念仏に対抗して、
帰命の対象を阿弥陀仏から妙法蓮華経に改めて法華経信仰の再興を目指した日蓮は、
今度は本尊を大日如来から法華経の行者である日蓮に改めた曼荼羅を示して

密教に対抗し、末法における新たな法華経信仰を確立しようとしたのです。

日蓮は、自身を本尊とした新たな法華経信仰が、釈迦の末法において、
真実無二の仏法として海外に流布していくことになる、とも述べました。

念仏、密教への攻撃を通して法華経信仰を再興しようとした日蓮から、
闘争を差し引いてしまったら、果たして日蓮の独創性はあったでしょうか。

日蓮は徹頭徹尾、闘争の人でした。
闘争こそ日蓮の創造性と独立心の源です。

 

 

@ 三大秘法

日蓮が三大秘法を大切な法門としていることは間違いありません。
ただし、これは密教からの攻撃に対抗する中で提示されたものだ、
という前提を知っておかなくてはならないでしょう。

日蓮が、文字曼荼羅を顕わしたのは、密教破折が目的だった。
三大秘法の説示も、その延長線にあります。

法華経信仰は密教から、

「法華経には三密が欠けている」と強烈に批判されてきました。

密教の最も大事な法門に「即身成仏」があります。
人が、その身、そのままで成仏できる、という教説です。

日蓮は、この即身成仏の法門は、密教が法華経から盗み入れたもので、
もともと密教に説かれたものではない、と批判します。

密教で説く即身成仏には、身・口・意の三密の修行が不可欠である、とされました。
具体的には、手で印を結び(身密)、口で真言を唱え(口密)、
心に本尊を思い浮かべる(意密)ことを指します。

即身成仏に不可欠な三密のうち、法華経にはただ意密だけがあって、
身密と口密がないというのが密教からの批判です。

この批判に、法華経を尊重する顕教からは、有効な反論ができず、
天台宗ではむしろ密教に法華経を引き入れて、密教と法華経の同一を説きました。
これは法華経を最第一とする日蓮にとって許し難いことだったでしょう。

日蓮は、称名念仏に対抗する際、その形式を取り入れて唱題を説きましたが、
密教との対決でも日蓮の基本的な方法論に変化はありません。
人々が受け入れている形式を利用して、信仰の対象を法華経に代えようとします。

密教の即身成仏が法華経の根幹を盗んで成立した教説であることを、
再三、日蓮は指摘しています。
しかし、三密が即身成仏には不可欠だと考える人に、
日蓮は、成仏に三密は必要ないと議論をもって承服させるよりも、
法華経信仰の三密の方が優れていると思わせる方を優先しました。

 

日蓮にとって三密は、換骨奪胎して新たな法華経信仰に取り組んでしまえるほど、
形式的な問題だったのです。日蓮の三大秘法の法門は、そのような意図をもって
提示されたものです。

日蓮によって真言を唱える口密は、唱題に転換され、手印を結ぶ身密は、
授戒の儀式に転換されました。

叡山では出家して僧になる際、戒壇院と呼ばれる特別な施設において授戒が
行われました。日蓮は身密を戒壇に充てていますが、この場合の授戒は、
単に施設を指すのではなく、戒壇院に象徴される授戒儀式を指していて、
この儀式に用いられた身体的作法そのものを身密にあてたのだと思われます。

日蓮自身も叡山で授戒(授法)されていますから、この儀式の重要性、
僧を目指す者が抱く特別な羨望は十分理解していたはずです。

日蓮は新たな法華経信仰を興すと、
叡山に代わって徳を備えた弟子に阿闍梨号を授けます。
その際、どのような儀式を踏んだかは不明ですが、
日蓮が遺した最大の曼荼羅はタテ二四四cm、ヨコ一二五cmあり、
表装すれば優に三メートルは超える大きさがありました。
当然、密教同様に巨大な法華曼荼羅を掲げた戒壇において、唱題のなかで授戒し、
特別な儀式が行われたことでしょう。
日蓮にとって形式や儀式は、常に法華経信仰のために利用されており、
方便として位置付けられていたことが分かります。

 

やがて時代が下がって戒壇や授戒に馴染がなくなり、
日蓮の法華経信仰が広範な民衆に受け入れられると、
信徒が本尊に向かって唱題する場所、身体的作法、仏具、儀式など、
その全般を身密の戒壇として理解するようになっていったのでしょう。

日蓮にとって、最も大事な法華経信仰の根本は、日蓮と同心にありました。
唱題と本尊も、日蓮との同心を欠いては意味をなさないものでした。
それさえ違えなければ、あとは人々の素養や理解に合わせて
柔軟に対応すべき問題だったのです。

日蓮が唱えた三大秘法も、密教からの批判に応えるとともに、
法華経信仰に転換させる目的で、その教説を利用したものです。
しかも、それは密教に親しんできた門下に対する説示のなかに現れる程度です。
日蓮の仏法の根幹を支える教理でないことは明らかだろうと思います。
 

・・・

日蓮は曼荼羅の図顕によって、秘法・祈祷についても密教に対峙した。

意密を「本尊」に、口密を「唱題」に、
そして法華弘通の震源となる「戒壇」での授戒儀式を身密に充てて三密とし、
それらを密教の三密を超える「三大秘法」と位置づけた。

密教からの批判を逆手にとって取り込み、日蓮は秘法・祈祷を唱題に集約する。
密教による複雑な儀軌(儀式の規則)による

特別な秘法・祈祷からの転換を図ったのである。

・・・

 

@ 天台僧の日蓮が、天台宗を撃つ

日蓮にとって、密教との対決は、とても難題で周到な準備が必要でした。
それは、なぜでしょうか。

日蓮は、仏教界では正統な主流派にいます。
当時の主流派は、最澄(伝教大師)の定めた通り、
比叡山(天台宗)で山家学生式に則った一二年に及ぶ山籠もりの修行を経た者です。
当初は、毎年、わずか二名の試験合格者にしか許されない修行で、
無事に終了すれば、師匠から阿闍梨号が授けられます。

日蓮は、叡山での十二年間、法華経をはじめ金光明経、仁王経などの

護国経と呼ばれる経典と、その解説書などを、徹底して暗記・暗唱し、

学んでいきました。
修養の第一は、何と言っても暗記です。

日蓮は叡山に登る前、清澄寺の本尊だった虚空蔵菩薩に

「日本第一の智者となしたまえ」と祈ったとされていますが、
この時、日蓮は記憶力増進の修養を行ったようです。
当時、暗記がいかに大事であったかが分かります。

日蓮は門下に宛てた手紙の中で、漢文のまま護国経の経文を数多く引用し、
それらを縦横無尽に活用しています。
また佐渡流罪の当初、主要な経典が散逸していたにもかかわらず、
日蓮の経典の引用に特段の違いはありません。
いずれも日蓮が経文を暗記していたからで、

叡山での修養のたまものと言えるでしょう。

叡山で授戒され、阿闍梨号を受けた日蓮は、中国の天台大師、

日本の伝教大師の流れを汲む正統派の法華経者として活動を始めます。
ところが日本仏教の総本山とでもいうべき比叡山の天台宗は、

九世紀には第三祖の円仁(慈覚大師)が密教を法華経の上位に置き、

密教化していたのです。
日蓮が浄土宗と争うことは、天台宗も専修念仏の禁止を求めていたので、
教義上も日蓮の立場からも難しいことではありませんでしが、

相手が密教となれば話は別です。

日蓮は、幕府に「立正安国論」を提出する際、次のように記しました。
「天台沙門日蓮撰」――天台宗の僧である日蓮が著述した、という意味です。
密教批判は、天台僧を名乗る日蓮が、

総本山の天台宗に弓を引く行為になるわけです。

日蓮の教えの蘇生には日蓮と同じ闘争が必要です。
したがって、闘争なき蘇生は成立しようがありません。
日蓮の門下には覚悟が必要です。

 

 

@ 寺社利権と弾圧の動機

ここで、忍性など高僧らが日蓮を排撃した理由を考察しておきたい。

そもそも日蓮排撃の理由が教義上の問題なら、なぜ日蓮が切望して止まなかった
幕府による公場の法論が実現しなかったのだろう。

日蓮の教義の排他性や選択の論理が問題だとしても、畢竟これも論争の枠を出ない。
実は彼らには教義問題以上に切実な日蓮排撃の動機が存在した。
政治的、経済的権益の問題である。

社寺は多くの寺領を領有しその経営にあたる領主であった。
当時の祭礼は武力にも匹敵するもので、社寺は、天災や戦闘に際して祈祷を行い、
日時や方角の吉凶を占い、法令や天災について進言する勘文を通じて、
幕府や有力者を助けると認識されていた。

御家人は論功によって所領が安堵されたが、社寺は幕府や有力者の帰依によって、
所領の安堵が約束されていたのである。

日蓮は安国論で、念仏への「施を止めよ」と主張する。
そして一二六八(文永五)年、蒙古からの国書が届いて安国論での予言が的中し、
さらに一二七一(文永八)年には、忍性による祈雨の祈祷が叶わなかったことから、
日蓮の忍性攻撃は激しさを増した。
いずれも祭礼に関わる問題であり、忍性の経済基盤に直結する問題であった。

日蓮が佐渡に配流中、その布教によって佐渡の念仏者が相次ぎ日蓮門下となっていく
事態に対し、念仏僧たちは「日蓮を殺害しなければ、我らは餓死してしまう」
と嘆いている。

ここに日蓮を弾圧する動機が端的である。
念仏僧たちが恐れたのは「餓死」であり、日蓮門下の拡大は、
既存の仏教者がその経済基盤を失うことを意味していたのである。

 

当時、鎌倉には天変・飢饉によって多数の流人・非人が押し寄せた。

極楽寺の別当だった忍性は流人・非人を鎌倉境界で押しとどめ、これを組織し、
その労働力を使って大規模な建設事業を幕府から請け負って利益を上げていた。
また港湾施設である飯島の維持管理、および関料徴収の特権が認められていた。
さらに由比ヶ浜と材木座海岸一帯での殺生禁断の励行、取り締まり権も付与され、
ときには港湾に運ばれる材木などを、

その品不足に乗じて買い占めて暴利を得たようである。
これらの利権は、すべて幕府から極楽寺に与えられていた。
忍性は、連署・重時の帰依を得たことで、膨大な特権を享受していたという。

宮騒動と宝治合戦の際、時頼は、ほとんどの僧らが反時頼方に加担して
祈祷・呪詛したことから、これらの僧を放遂し、唯一、味方した隆弁を
鶴岡八幡宮別当・園城寺別当として重用した。

当時の僧がいかに政治抗争のうちに存在し、政治的・経済的影響力の保持と増進を
はかっていたかが分かる。

同様に、重時の帰依によって膨大な特権を受ける忍性を、名越家に近いとされる
日蓮が激しく批判し、しかもその批判は極楽寺の利権にも向けられた。

得宗家と極楽寺家が日蓮を政治的な脅威とみたのは当然であろう。

池上宗仲は父・康光から忍性の意向に添って勘当され、
後には八幡宮の造営に際して職を外される。

これも池上家が材木を扱う作事奉行として、

極楽寺の強い影響下にあったからである。

「日蓮誕生 いま甦る実像と闘争」 江間浩人
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僕にはそれを判断する程の知識はないが、上に引用した書物には、
日蓮大聖人の門下・支援者が幕府中枢に近いところに多くいたことを論じている。

当時、鎌倉幕府は、得宗家・極楽寺家と名越家の権力争いのなかにあったといい、
大聖人は名越家に近いところにいたとしている。
 

 

 

現代における新たな法華経として、ユダヤ・キリスト・イスラムと闘うには、

思想闘争とともに、巨大な彼らの利権とも戦わなければならないだろう。

 

利権は、点として存在するわけではない。
政治基盤・経済基盤から社会階層全体に及び、それが世論を形成する。
そこに長大な時間を要する困難さの所以がある。

政治、経済、思想、文化、言語をはじめとする、
あらゆる領域での総体的な取り組みがなければ為しえない。

彼の人は、1997年に、23世紀までの構想を語っているが、
世界に恒久平和の基盤を築くには、22世紀前半までかかるだろうとしている。
あと125年でやらなければならない。

次の三世代。



21世紀前半の50年では、アジアをはじめ世界の平和の基盤を築き、
21世紀後半の50年では「生命の尊厳」の哲学を時代精神、世界精神へと定着させる。
22世紀前半の50年では、世界の「恒久の平和」の崩れざる基盤をつくる。
22世紀後半の50年では、絢爛たる人間文化の花が開き、
・・・

 

パレスチナ自治区ガザ地区南部ラファで2024年3月13日、ロイター

 

 

日蓮と同意、法華経の行者となるならば、覚悟が必要となる。