信じる人には、疑う人でなければなりえない。
信じさせる人には、疑わせる人でなければなりえない。
疑うことと、信じることは切り離すことはできない。
疑わせることと、信じさせることは切り離すことはできない。
そうでなければ、狂信者か、詐欺師となるか、
あるいは、信じてはいないが救いだけは求める者となるしかない。
宇宙・地球の起源と歴史、生命の誕生と歴史、人類の祖先と歴史、
宗教と哲学の誕生と歴史、戦争の起源と歴史、芸術の起源と歴史、
学術の起源と歴史、、、、
思いを致すほど、単一から二元、二元から多元、多元から多様へと、、、
あらゆるものはとどまってはいない。
君は何を美しいと感じるか。
君は何を醜いと感じるか。
君は何を得だと思うか。
君は何を損だと思うか。
君は何を善だと思うか。
君は何を悪だと思うか。
君は何を正しいと思うか。
君は何を不正だと思うか。
変わるものと変わらないものはある。
それは、生きるものの本質に根差しているのかもしれない。
それでも、何を美しいと感じるか。
何を得だと思うか。
何を善だと思うか。
何を正しいと思うかは、
僕らが、いま依って立つ場所による。
僕という、一人の人間のあり方による。
僕らが、ともに生きてきた時の流れによる。
僕らが、そして彼らが生きている世界の違いによる。
僕らが、そして彼らが信じ疑ってきたものの違いによる。
何を信じるかは、何を疑うかとともにある。
そこまで思いを致した人は、
何を信じるかではなく、何に殉じるかに辿り着くのではないだろうか。
この21世紀に、世界は、
いまだに、殺し合い、奪い合う愚かな世界のままだ。
まるで19世紀を生きているのかと思うような、
それを指揮する者と、強権のもとで声を上げられない者。
ソ連が崩壊して、ロシアは変わっただろうか。
いま、中国の共産党独裁が崩壊すれば、中国は変わるだろうか。
タリバン政権が崩壊すれば、宗教による抑圧はなくなるだろうか。
何を信じるか、何を疑うかは、誰かが示唆することはできたとしても、
何に殉じるかは、誰かが上から決めることはできない。
僕たちは、違う道を探さなくちゃいけない。
宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』では、
主人公・眞人が、死の先の、天上と地上の境の指揮者となることを拒んで、
誘い込まれた者とともに、殺し合い、奪い合う愚かな世界に戻ろうとする。
それが何を意味するのか、映画は語ってはいない。
「君たちはどう生きるか」というタイトルと、この曲だけがある。