ここ数か月の読書と思索から、僕の考えを先に述べる。

 

ソクラテスも釈尊も、理由は異なるけれども、
みずからの思想を文字として残すことはなかった。

ソクラテスには、プラトンという傑出した弟子がいたため、
その思想は歴史に残り、結実していったともいえる。

 

 

釈尊には、それぞれ秀でた十大弟子はいたものの、
その思想全体を体現し得るほどの者がいなかった。
智慧第一といわれた舎利弗は釈尊より前に逝去し、
残された迦葉や阿難や優波離らによって、
最も初歩的な小乗的修行の狭隘なものの伝承にとどまり、
それが仏教を、原始仏教・部派仏教という隘路に閉じ込めていってしまった。
 

だが、生前の釈尊の思想は、いま歴史的記録として認知されているところの、
仏典結集に関わった迦葉や阿難や優波離だけに伝わったのではない。

 

頭陀(欲望制御の修行)第一といわれた迦葉。

多聞第一といわれた阿難。

持律第一といわれた優波離。

彼らによって釈尊の思想は、偏った形でしか伝わらなかった。

 

舎利弗が釈尊の逝去後も生きていたとしたら、
原始仏教も部派仏教もなかったのかもしれない。

 

やがて、500年、1000年単位の長大な時間を経ることで、
釈尊の真意から、遠くかけ離れたものになってしまった仏教を、
民衆のものに取り戻そうとする原点回帰運動が、
実在の釈尊を遥かに凌ぐ八万宝蔵もの智慧の発露となり、
そのことが、江間浩人氏が云うところの、
「信じさせる人」と「信じる人」という対立概念を超える、
壮大な大乗思想へと結実していったともいえるのではないか。
 

僕は、いまそう考えている。

 

 

出口治明氏は、ソクラテスについて書いている。
 

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
BC5世紀前後、世界に数多くの考える人が登場してきました。
そして今日まで残るようなさまざまな思考の原点が、
草木が一斉に芽吹くように誕生したのです。

この時代を、20世紀のドイツの哲学者カール・ヤスパースは
「枢軸の時代」と呼びました。

世界規模で”知の爆発”が生じたのです。

BC5世紀前後には、鉄器がほぼ世界中に普及していました。
そこに地球の温暖化が始まります。
鉄製の農機具と温暖な太陽の恵みを受けて、
農作物の生産力が急上昇します。
その結果、余剰作物が大量に生産されて、
豊かな人と貧しい人の格差が拡大しました。

財産にゆとりのできたお金持ちは、自分は働かず、
使用人に農作業をやらせるようになります。

それと同時に、中国では”食客”と呼びましたが、
お金持ちの家では、ある種の人々を何も仕事をさせず、
食事を与えて遊ばせておくようになります。
笛をたくみに吹く人や、星の動きに詳しい人、
要するに現代の芸術家や学者のような人たちです。

社会全体が貧しければ、みんな農作業で手一杯です。
歌う時間も夜空を見つめる余裕も生まれないし、
生について考えているひまはありません。

生産力が向上し、有産階級が生まれたことで
知識人や芸術家が登場してきたのです。

そしてその過程で知の爆発が起こったのです。
それはギリシャで始まり、
ほぼ時を同じくしてインドや中国でも知が爆発しました。

 

ギリシャでは、BC9世紀からBC7世紀にかけて、
偉大な叙事詩人であったホメロスやヘシオドスが、
ギリシャ神話を体系づけて、『イリアス』や『オヂュッセイア』、
そして『神統記』を記しました。

それらの内容は、
エーゲ文明の諸神話を融合させながら完成させたものです。

こうしてギリシャ神話の世界が生まれました。
この時代の人々は、世界は神がつくったものだと固く信じていました。
この時代を「ミュトス(神話・伝説)の時代」と呼んでいます。

ミュトスの時代を経て、枢軸の時代に登場してきた学者たちは、
まさか世界を神様がつくったはずはないだろうと考え始めます。
「何か世界の根源があるはずだ。それは何だろう」
そのことをミュトスではなく、自分たちの論理で、
すなわちロゴス(言葉)で考え始めたのです。
そして、その「万物の根源」となるものをアルケーと呼びました。
ミュトスではなくロゴスによってアルケーを考えること。
そのことに最初に答えを出したといわれる哲学者がタレスです。

タレスはエーゲ海の東海岸(現トルコ)、
イオニア地方の都市ミレトスの出身です。
そのために彼につながる初期の哲学者たちを、「イオニア派」と呼びます。
また自然を探求する自然科学の立場を取っていたので、
後世になると自然哲学者たちとも呼ばれました。

インドではブッダや六十二見が登場します。
六十二見とは仏教関係の人々が、仏教以外の思想を62種類にまとめたものです。
見とは学説の意味です。その中で「六師外道」と呼ばれる6人の思想家が、
今日に名前を残しています。

知の爆発は中国ではどうだったか。孔子や老子がこの時代の人です。
また、陰陽五行説がこの時期に台頭します。

・・・

 

ソクラテスに始まる哲学の大きな特徴とは、一体何でしょうか。
世界の構造はどうなっているのか。
外部世界を一所懸命探求したイオニア派に対して、
ソクラテスは人間の内面に思索の糸を下ろしました。

世界はどうなっているんですか。そのことを問う人に対して、
ソクラテスは逆にこう問いかけた。

「世界はどうなっているのか、
と考えるあなたはあなた自身について何を知っていますか。
人間は何を知っているのですか」

ソクラテスはこの質問を人々に投げかけ、対話することで考えを深め、
人々に不知を自覚させようと努めました。

「ソクラテス以後」の哲学は、このように人間の内面に向かい、
生きることについての問いかけを始めたことに大きな意味がありました。

外面の世界から内面の世界へと思索を深めていく哲学が、
ソクラテスからはじまった。そのように考えられています。

・・・
 

ソクラテスは石工である父と助産婦である母との間に生まれました。
若い頃から雄弁であったようです。
長ずるに及んで、自然哲学者に学び、弁論術を修め、思索を深めていきました。
彼の歯に衣を着せない大胆な発言は、アテナイでは人気があり、
傾倒する若者も少なくありませんでした。

この当時、アテナイでは弁論術や修辞法が盛んでした。

ペリクレスの時代、
アテナイの市政には30歳以上の男性市民の全員が参加しました。
男性市民にとって、自分の主張を効果的に表現し、
相手との論争に勝利する弁論術を習っておけば、
それが自分の出世にもつながる時代だったのです。

身体的能力の高さを競う古代オリンピックが、
4年に一度オリュンピアで開催されたように、
市民が雄弁を競い合う弁論大会も開催されていました。

そういう時代ですから、
お金を受け取って弁論術を教える人々が登場してきました。
彼らは「ソフィスト」と呼ばれました。「賢い人」の意味です。

ソクラテスの弁論術は対話を重んじました。
相手にさまざまな質問をして、その答えを論破しながら事物の核心に迫り、
真実に近づく対話術です。

現在ではソクラテスの弁証法として定義づけされていますが、
当時は「産婆術」とも呼ばれていました。
若者たちに問いかけ、粘り強く彼らの誤ちを正していき、
若者を真理に到達させるソクラテスの話術は、
産婆さんが赤ちゃんを母親の胎内からていねいに取り出し、
誕生させるプロセスのようだと評されたからです。

彼が産婆術を駆使して教えようとした命題は、「不知の自覚」でした。
古代のギリシャでは神だけが知者であると教えられていました。
 

人間は知者ではないがゆえに知を愛求したのです。
すなわちフィロソフィーとは、もともと人間の知性が神と比較すれば
無に等しいことを自覚することからスタートするのです。

世界は広くて複雑である、
それなのに人間はついつい「何でも知っている」と過信しがちです。


そのことがいかに愚かなことであるかは、
繰り返される争乱や支配者の誤ちを見れば、明らかです。
不知を自覚できず、驕りたかぶる政治家や賢人がたくさんいます。


その一方でペロポネソス戦争とその後の混乱が続く時代に、
いつ戦いに駆り出されるかわからない若者が、
不安な日々を生きている
現実があります。

ソクラテスは、若者に世の中の真実について考えたり、
自分の人生について見つめ直す機会を与えるべきだと考えました。

ソクラテスは自分の人生を、
そのような人々との対話に投じるようになっていきます。

ソクラテスは朝食を終えると、粗末な衣服を身につけ、
裸足でアテナイの街へ出かけたといわれています。
そして広場や神殿などの人が集まる場所や人の行き交う道筋で、
誰彼となくつかまえると問答を仕掛けるのでした。

ソクラテスは問答を仕掛けて、相手に自分の不知を自覚させようとしました。
しかし、自分の不知に気づかない相手を無明の闇から引っ張り出すには、
彼が不知なるがゆえに主張している論理を妥協なく否定する必要があります。
そのためには、相手の考えを強く論破したり、一笑に付す必要も生じます。

相手によってはソクラテスに対して感情的になり、殴りかかったり、
足蹴にしたりすることもありました。
そんなとき、決して抵抗しないソクラテスを見て、市民たちがあきれていると、
彼はつぶやくのです。

「もしロバが僕を蹴ったのだとしたら、
僕はロバを相手に訴訟を起こすだろうか」

彼は自分の言動に対する嫌がらせや妨害に少しも動じることなく、
禅問答を繰り返すような日々を続けていました。

そして夜になると帰宅する。朝になると出かけていく。
家にいるときのソクラテスは食事を摂るだけ、だったかもしれません。

ソクラテスに論破されて逆恨みから、彼に深い憎悪を抱いた人々は、
ついにソクラテスを告訴しました。

以下のような罪状です。

「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」

これに対してソクラテスは、公開裁判で堂々たる反論を行いますが、
死刑が確定します。

ソクラテスには刑の執行を逃れる機会もあったと伝えられていますが、
法の裁きを遵守し、毒ニンジンの杯をあおり刑死しました。


 

ところで哲学の歴史を振り返るとき、ソクラテスをどのように評価するかは、
実はかなり難しい問題です。
彼自身が書き記した文献が何も残っていないからです。

なぜ残っていないのか。それはソクラテス自身が、
書き残すことに価値を認めなかったからだといわれています。


彼の学問の方法は産婆術と呼ばれた対話によって、
相手にいろいろな気づきを与えながら、
思考の実を結ばせていくというものでした。
対話を重ねていくこと自体が、ソクラテスにとっては大切だったので
何も書き残さなかったのだ、いう説です。

では、ソクラテスの哲学や人物について、
何を資料として今日まで語り継がれてきたのでしょうか。

プラトンをはじめとする彼の弟子や、同時代の劇作家や哲学者が残した文章です。
しかし、それらの資料の中で圧倒的な量を占めるのはプラトンの著作物です。
特にソクラテスの哲学については、すべてがプラトンの文献に依拠している
といっても決して過言ではありません。

プラトンの著作物は今日まで、ほとんどすべてが現存しています。
このことは世界史の中では、奇跡的なことだと考えられています。

ソクラテスが42歳の頃に誕生したプラトンは、

ソクラテスの最晩年の弟子の一人でした。
プラトンはソクラテスについて多くの著作物を残しています。
その代表的な一冊に、

告訴されたソクラテスが公開裁判の法廷で語った内容を記述した、
「ソクラテスの弁明」があります。

プラトンが描くソクラテスは、知識の探究者として、
そして合理的思考を重んずる人物として描かれています。

 

その見事な弁論と論理構成を読むと、偉大な哲学者という印象が強く残ります。
後世の人たちはソクラテスの弟子の著述であり、
しかもプラトン本人が傑出した哲学者でもあったので、
プラトンが描くソクラテス像を疑うことなく真実として捉えてきました。

『哲学と宗教 全史』 出口治明
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彼の人が、ソクラテスとプラトンについて語っている。
 

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
さかのぼること、およそ2400年。
古代ギリシャで哲学史に輝く師弟の出会いが結ばれた。
ソクラテスとプラトンである。

 

プラトン          ソクラテス

 

釈尊、孔子、キリストと並び、「世界の四聖」と仰がれる哲人ソクラテス。
弟子プラトンは、冤罪で世を去った師匠の思想を文字として再現し、
人類史にとどめた。
 
ソクラテスは都市国家アテネが繁栄から衰退へ向かう
紀元前469年頃から紀元前399年を生きたといわれる。
生涯、「汝自身を知る」ための探究を貫き、
問答による対話で、人々を真理に目覚めさせていった。
 
ソクラテスの青年への感化力は「シビレエイ」にたとえられた。
その意見に彼は
「自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせる」と応じている。
 
だが、権力者やソフィスト(詭弁家)たちから恨まれ、
“国家の認める神々を敬わず、青年を腐敗させた”
という無実の罪で告発されてしまう。

裁判の結果は死刑。
それでもソクラテスは「わたしは、正義に反することは、何ごとでも、
いまだかつて何びとにも譲歩したことはない」
「善きひとには、生きている時も、死んでからも、悪しきことはひとつもない」
との信念を曲げず、1カ月の獄中生活の後、毒杯を飲み最期を迎える。
 
ソクラテスの死を前に、仇討ちを誓ったプラトン。
師の正義を証明する弟子の戦いが始まった。

 

 

@ プラトン

自分が自分に打ち勝つことが、
すべての勝利の根本ともいうべき最善のことである。

プラトンの生誕は紀元前427年頃。
名門の血を引く彼は、もともと政治家を志していた。

ソクラテスと出会ったのは、20歳前後と推定されている。
ソクラテスの言説を聞くと、衝撃的な感動を覚えた。
それは当時、詩作に励んでいたプラトンが、
書きためた作品を焼き捨てるほどのものだったとの話もある。

 
ソクラテスに対するプラトンの心情がうかがえる一節がある。
 
「あなたが話したことを他の誰かが話すのを聞くときでさえ、
たとえその語り手がひどく下手であろうと、
われわれはすっかり心を打たれて、とりこになってしまう」
 
「私は、毒蛇よりもっと痛いものに、
もっと痛いところを咬まれたのだ――哲学の言葉によって、魂を」
 
しかし、プラトンが20代後半の頃、
ソクラテスは謀略によって告発され、刑死する。
敬愛する師を政治権力に殺されたプラトンは憤怒し、
言論の力で立ち上がる。
 
「わたしは、真実を語るには、遠慮もせず恥じらいもしない」
 

 

ラファエロの名画「アテナイの学堂」がモチーフとなっている

創価大学池田記念講堂の緞帳。

 

中央にプラトンとアリストテレスが描かれ、

その傍らではソクラテスが青年たちと対話を続けている。

 

師弟が交わりを結んだ歳月は約10年。
プラトンはソクラテスの正義を満天下に示し、
一つの書も著さなかった師の精神を言葉で残すため、人生を捧げていく。

 
『ソクラテスの弁明』をはじめ『メノン』『饗宴』『パイドン』など、
ソクラテスを主人公にした作品を数多く生み出した。
 
さらには、アカデメイアと呼ばれる学園を創設し、
対話を重んじる教育と人材育成に尽力。
そこで学んだ哲学者アリストテレスがプラトンに師事し、
その信念を受け継いだ。
 
プラトンは80歳で亡くなるまで「師弟の道」を歩み抜いた。
ソクラテスを「人類の教師」として未来に残る存在へと高めた彼の言葉に、
こうある。
 
「自分の内にある臆病と戦い、それに勝って、
そのようにして完全に勇敢な者にならなけりゃならん」
 
「自分が自分に打ち勝つことが、
すべての勝利の根本ともいうべき最善のことであり、
自分が自分に負けるのは、最も恥ずかしく、また同時に最も悪いことだ」
 

 

@ ソクラテスを語る池田先生

わかりやすい言葉で、
相手の中にある「善いもの」を
引き出し、互いを豊かにする。
差異を超え、心を結ぶ対話の中に
「共生の知恵」が生み出される。

1962年2月4日、池田先生はギリシャを訪問。
パルテノン神殿がそびえるアテネの「アクロポリス」に立ち、
眼下に広がる街並みや遺跡を一望しながら、
ソクラテスとプラトンの師弟に思いをはせた。
 
さらに、ソクラテスが投獄されたと伝えられる牢を視察。
哲人の殉難の生涯に心を巡らせた。
 
当時の心境が、小説『新・人間革命』第6巻「遠路」の章につづられている。
 
ソクラテスは、プラトンならば、
自分の思想を、哲学を人びとに伝え、
自分の正義を証明してくれるであろうという確信があったはずだ。


死の時を待つ彼の胸には、若き愛弟子プラトンの英姿が、
鮮やかに躍動していたにちがいない。

 
牧口先生もそうだ。
獄中にあっても、戸田先生がいたから安心しておられた。
戸田先生も、私がいるから安心だと言われた。
 
私も、そう言い切れる後継の青年たちを、
全力をあげてつくる以外にない」

そして、この40年後の2002年1月、
池田先生は新春随想「ソクラテスを語る」を本紙で連載。
「対話の名手」の生き方を通し、創価の同志にエールを送った。

 

 

@「ソクラテスを語る」から
 
「ソクラテスの対話」の驚嘆すべき特徴とは、
だれにでも「わかりやすい言葉」で、
「わかりやすい事実」を通して、
目指すべき「高尚な思想」「神々しい徳」を語ったことである。

思想は、人々の心に生きてこそ意味がある。
単なる難解さは自己満足にすぎない。
ソクラテスは、自分の知を誇るためではなく、
「相手のために」対話した。

「わかりやすい」ということが慈悲の発露なのである。
 
民衆が強くなることだ。民衆が賢明になることだ。
そこにしか、人類の理想社会への道は開けない。
そのために立ち上がったのが創価学会である。
私が、わが関西の久遠の同志とともに、
大阪事件の「無罪判決」を勝ち取ってから、
この1月25日で40年を迎える。
冤罪が晴れた無罪判決の最終確定を、
私はアテネに続いて訪れたエジプトのカイロで聞いた(1962年2月8日)。

大阪事件の法廷闘争の勝利をはじめとして、
学会は、一切の謀略を厳然と打ち破り、正義の旗を打ち立ててきた。

正しいからこそ勝たなければならない。
正義だからこそ、現実のうえで、断じて勝って勝って勝ち抜くことが、
冤罪で苦しんできた人類史の転換となるからだ。
 
21世紀に必要なのは、
ソクラテスが実践した対話――わかりやすい言葉で、
相手の中にある「善いもの」を引き出し、
互いを豊かにする対話ではないだろうか。
差異を超え、文明を超え、
心を結ぶ対話の中に「共生の知恵」が生み出されるにちがいない。

一人ひとりが「21世紀のソクラテス」として、わが地域で、
社会で、そして世界を舞台に、
「勇気の対話」「希望の対話」「哲学の対話」を力強く繰り広げてまいりたい。

<ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第36回 ソクラテスとプラトン
聖教新聞 2023年11月12日
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 

僕は、これが釈尊の全体像を正しく表しているとは全く思わないが、
佐々木閑氏は、大乗仏教は釈迦とは何の関係もないものだとして、
彼独自の極めて浅薄な「釈迦の仏教」観について書いている。
 

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「釈迦の仏教」では出家修行を最重要視しています。

これは「出家してひたすら修行に励み、苦しみの源である煩悩を
消し去ることでしか、人は真の安楽に達することができない」
とお釈迦様自身が考えたからです。

ここで言う出家とは、
財産や家族を捨てて「サンガ」と呼ばれる修行者集団に所属し、
朝から晩まで瞑想を中心とした厳しい修行生活を送ることを意味します。

サンガでは生産活動は一切禁じられていて、
働くことはおろか畑を耕すことも認められていません。
生きていくのに必要なものはすべて一般社会からのもらいもの
に頼って暮らすことになります。

お釈迦様の言う「真の安楽」とは、
悟りを開いて「涅槃」に到達することを指します。

涅槃とは、自分の心の中の煩悩をすべて断ち切ることであり、
同時にその結果として、
二度とこの世に生まれ変わらないことを意味します。

仏教では、この世界は「天・人・畜生・餓鬼・地獄」の五つ
(のちの時代に「阿修羅」が入って六つ)の領域からなり、
あらゆる生き物は、この五つないしは六つの領域内で、
延々と生まれ変わり死に変わりを繰り返すと考えられています。

善行を積めばよりよい世界に、
悪行を犯せば悪い世界に生まれ変わることになるのですが、
そういう延々と続く生と死の繰り返しを「輪廻」と言います。
涅槃というのは、仏道修行によって輪廻を止め、
「二度と生まれ変わらない世界に行くこと」を意味するのです。

・・・

 

――お釈迦様は、生前に自分の教えや考えをまとめた
文書のようなものを残してから、お亡くなりなったのですか?

当時はまだ文字に書いて記録するという文化が発達していなかったため、
お釈迦様の言葉は、聞いた人の記憶の中にしか保存されていませんでした。
ですから、お釈迦様が亡くなって人々の記憶が失われてしまえば、
その段階で教えも永遠にこの世から消えてしまいます。

それを恐れた弟子たちは、記憶の中に残っているお釈迦様の言葉を
みんなで共有することによって、後世に伝えていこうと考えます。

伝説によると阿難という弟子が一番よく覚えていたので、
お釈迦様が亡くなった時、その阿難が、集まった五百人の弟子の前で
生前に聞いたお釈迦様の言葉を口に出してとなえ、
それをみんなで一斉に記憶したそうです。

その後、弟子たちはインド各地へと散らばり、
口伝で次の世代へと教えを広めていきます。

やがて数百年経ち、文字で書き記すという文化がインドに定着すると、
今度は文書として釈迦の教えが記録されていくことになりました。

これがいわゆる「お経」の起源です。

『別冊 NHK 100分de名著 集中講義 大乗仏教』佐々木閑
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
 

 

彼の人は、釈尊と部派仏教について書いている。

 

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
仏教も本来、民衆のために、民衆のなかで説かれ、広がった。
釈尊は庶民の哀歓のひだにふれつつ、人生の苦との対決のなかから、
珠玉のごとき教えを遺していった。

ある仏教学者によると
「釈尊は仏教を説かなかった」という極端な説もあるほどである。
もちろん釈尊が仏教を説いたのは当然であるが、
この一見矛盾する言葉も、
ある意味で含蓄に富んだ言葉であるといってよい。

釈尊が説いたという八万法蔵という膨大な教説と聞くと、
精密に体系だてられた教理を思い浮かべ、
釈尊もそのカリキュラムにそって、
説法したかのように受け取りがちである。

しかし釈尊の説法は、貧苦にあえぐ庶民への激励であり、
病に苦しむ老婦人を背に負わんばかりの同苦の言葉であり、
精神の悩みの深淵に沈む青年への温かな激励の教えであった。


差別に悩み、
カースト制度に苦しむ大衆の側に立った火のような言々句々が、
その一生の教化を終えてみれば、
八万法蔵として残っていたということであろう。

それは、経文が徹底して問答形式で説かれていることに、
象徴的に表れている。

民衆との対話、
行動のなかに釈尊の悟りの法門がほとばしりでていったのであり、
それが経典としてまとめられていったのである。

仏教ときけば、山野にこもり、静的なものと考えがちであるが、
その発生からすでに実践のなかに生き、
民衆のなかで生き生きと語り継がれてきたのが、
その正統な流れであることに刮目したい。

 

しかし釈尊入滅後、
仏教はしだいに民衆救済の精神から遠ざかっていった。
それはいったいなぜか。

その一つの表れが「解釈学の先行」である。
釈尊自身は、その悟りを巧みな譬喩等を使って、やさしく説いた。
また卓越した慈悲の人格によって、人々を教化した。
ゆえに、難解な仏教の法理を理解できない人々も、
釈尊の、時に応じ、人に応じ、所に応じた「自在な説得力」と、
「偉大な人間性」によって、仏教に帰依することができた。

しかし釈尊入滅後、仏教教団は、
仏説の解釈や教理について、煩雑な論議を繰り返し、
見解の相違から多くの部派に分裂していった。
いわゆる「部派仏教」の時代である。

そうしたなか、実践者として「民衆のなかへ入り」
「民衆の苦を救う」という釈尊の真意から、
遠く、かけ離れたものになっていった。

最も重要なことは「一人」の人間を心から蘇生させていくことだ。
民衆を忘れ、現実を離れて、
いたずらに空理空論をもてあそぶ姿のなかには、
すでに仏法の精神は完全に失われている。
いかに「難解」な「論理」をあやつり、
深遠めいた言葉で自身を飾ったとしても、
実践なき人を、決して信じてはならない。
いかに、素晴らしい哲学でも、
民衆にわからなければ価値がない。
いわゆる難解な論が優れているのではない。
決して尊いのでもない。逆である。
最も深遠な哲理を、
最もやさしく説く人こそ真実の仏法者なのである。

 

インド仏教の民衆遊離の他の面としては、
その支持層が都市住民に限られていたという点がある。
都市には王族がおり、富裕な商人がいた。
仏教教団は、自然、彼らの寄進にのみ依存し、その結果、地方、
とくに農民たちの間に深く根を張ることができなかった。

この「都市民への寄進依存」から、もう一つの重大な変化が起こった。
それは、「僧院中心主義」による僧の堕落である。
すなわち僧院の増加にともない、
それまで個々の修行者の乞食行に対して行われていた供養が、
僧院自体に対して行われるようになった。

鉢を持って一軒一軒の家をたずね、食を乞うて歩く托鉢の修行は、
一定の厳しい行儀に基づいていた。
しかし、僧院の比重が増すにつれて、日々の厳しい修行は、
しだいに忘れ去られるにいたった。

修行がなくても、権力者や富豪は次々に財物を寄進する。
しかも、しだいに供養は巨額となり、僧院には莫大な財産が蓄えられた。
やがて土地さえ寄進されるようになり、
僧院は広大な土地からあがる小作料を生活の糧とし、
一種の“世俗領主”のような様相さえ示していった。

こうして僧院が富み、生活が保障されるにともない、
比丘(僧)たちは民衆との接点を失い、遊離し、また堕落していった。
さらに、生活のために出家する例や、
社会で罪を犯した者が身の安全を求めて僧院に入りこむ例も出てきた。

サンガ(仏教教団)を形成する比丘たちは、本来、求道の「修行者」であり、
同時に「弘教者」であり、民衆のよき「導師」のはずであった。
しかし仏教が僧院中心主義となり、僧院が僧たちの専有物と化した結果、
峻厳な「修行」も、慈愛の「弘教」も、
民衆の幸福に尽くしていく「指導者」としての使命も見失われていった。

『私の人間学』池田大作
民衆こそ仏法の大地―インド仏教衰亡の因
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