君は、人を励まそうとする人間が好きだろうか。
君は、人を導こうとする人間が好きだろうか。

僕は、自分の経験の上からも思うんだ。

励まそうとする人間は、人を励ますことはできない。
励まそうとするから励ませるんじゃない。

 

どうしても声をかけたくなるとき、
言葉を探す必要はない。
言葉を飾る必要もない。
たったひとこと声をかけたいから声をかける。
 

 

自分が闇のなかで戦っていれば、
自分を鼓舞するから、
自分のなかから必死の言葉が生まれる。

それは誰かを励ますためではなく、
自分を鼓舞する言葉だから、炎があるのだ。

 

 

 

去年の暮れから、春頃には今の職場を飛び出して、
次のステージへ上がりたい、と考えていた。

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2023年は、年頭から勉強に明け暮れた一年だった。

あの日から30数年、
追い求めつづけてきたもの。

その先にある新しい技術を、まず2つ。
それから、僕のこれまでの領域をさらに深める技術。
さらに、次の時代への扉を開くコア技術。
次に、この2年取り組んできた時代の主流の技術。
その次に、この1年取り組んできた次の時代の技術。
そしてこの2ヶ月、もう一つの次の時代の技術に取り組んでいる。
これに、あと1か月かける。
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昨年の11月から、2ヶ月半取り組んできた技術の一つのマイルストーンとして、
今月中旬に、技術研修を受けた。

2ヶ月半勉強したとはいえ、その複雑性のゆえ、すべてを把握するには、
まだ数か月の時間がかかりそうなことがわかった。

そして、その先へ行くには、
この18、9年、特にこの8、9年取り組んできた、
次の時代の主流となる技術のベースとなる学習で得たものを、
もう一度、記憶の上に再構築しなければだめだ。

基盤がしっかりしていなければ、力あるものは創り出せない。
今の仕事をこなしながら、もう少し時間をかけようと思っている。

まず、この18、9年の間に学習した書籍、知識整理したファイル、
僕の机の回りを囲んでいる、天井まである本棚にある、
すべてをリスト化することからはじめた。

まだ半分位しかできていないのだけれど、
これを今日中に終わらせて、
そこから何をやるか優先順位をつけ、一日を4つに分けて、
明日から、大まかなスケジュールを立ててやっていこうと考えている。
 

 

 

僕は、1991年5月。

彼の人から、この世の使命をもらった。

「世界一になるんだよ!」

 
自分に世界一の力があるとは思えない。
でも、自分の最高峰を目指すことはできる。


最近知った、ミケランジェロの言葉。

「わたしの信じるかぎりでは、始めが悪いことほどうまくゆくものだ」
「約束したことは、どんなことがあってもやりとげる」
「かつてなかったような立派な仕事を私はしてみせる」
 

 

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〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第38回 ミケランジェロ

ミケランジェロ・ブオナローティ。
レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ・サンツィオと並ぶ

ルネサンスの「三巨匠」の一人である。


彫刻家としてだけでなく、絵画や建築、詩作に至るまで

超人的な創作活動に身を投じ、多くの歴史的傑作を残した。

その天賦の才を、人は「神のごとき」と形容する。

没後460年となるミケランジェロの生涯は、理想の芸術を追い求め、

孤独や迫害と戦い抜いた波乱の連続だった。
1475年3月、イタリア中部のカプレーゼでミケランジェロは誕生した。
生まれて間もなく里子に出され、実の母とは6歳の時に死別。
乳母の家業が石工であったことから、石やノミに囲まれた環境で幼少期を過ごした。

13歳の頃、フィレンツェの著名な画家に師事。
その後、メディチ家の創設した彫刻学校に入り、
古代ギリシャやローマの美術などに触れつつ、

一流の知識人に交じって教養を身に付けていく。

94年、フランス軍がイタリアに侵攻すると、ベネチア、ボローニャへと逃れた。
その逃避行の中で先人たちの作品から多くを学び、時代に翻弄されながらも、

飽くなき探究心で才能を磨き続けた。

21歳でローマに進出。
最初の大作となった聖母子像「ピエタ」(サン・ピエトロ大聖堂)

が“奇跡”と評され、脚光を浴びる。
5年後にはフィレンツェ政府の依頼を受け、「ダビデ」像の制作に着手。
巨大な大理石の塊から2年半かけて、高さ4メートルを超える青年の姿を彫り出した。
宿敵の巨人ゴリアテを倒した気高き英雄の像は、
大国に屈しないフィレンツェの象徴として宮殿の入り口に置かれ、

人々の心を鼓舞したという。
20代で彫刻家としての名声を得たミケランジェロ。

「わたしの信じるかぎりでは、始めが悪いことほどうまくゆくものだ」
「約束したことは、どんなことがあってもやりとげる」
「かつてなかったような立派な仕事を私はしてみせる」

後に西洋美術史を彩る未到の作品に挑む若き才能の胸には、

ロマンと情熱がほとばしっていた。

・・・・・

 

1505年、ミケランジェロは教皇ユリウス2世からローマに呼ばれ、

墓碑の制作を命じられる。
栄誉ある聖業に全精魂を傾けるが突如、

教皇の“心変わり”によって中断されてしまう。

背後には、ミケランジェロに嫉妬した

建築家ブラマンテの画策があったと言い伝えられている。
ブラマンテは教皇に取り入って計画を破棄させ、

代わりに大聖堂の大改修を決定させたのだ。


ミケランジェロは侮辱されたばかりでなく、

仕事に要した費用の全てを自ら背負うことになった。


さらには、教皇を通じて

ブラマンテからシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を押しつけられる。
彫刻が専門で絵画の技法に疎かったミケランジェロにとって、

この仕事は無理難題といえた。
ブラマンテは天井画を失敗に終わらせ、失脚させようともくろんでいたのである。

ミケランジェロは苦悩した。そのころの手紙にこうある。
「これは仕事がむつかしいためと、私の職業ではないためです。
こうして私は無駄に時間を失っています」

だが、理不尽ともいえる挑戦に彼はのめり込んだ。
終始、天井を見上げながらの作業は過酷を極め、体中をむしばんだ。
「筆から落ちる絵具の滴で、顔はモザイクの床のようだ。

腰は腹の方へ曲ってしまい……私の頭も体と同じに妙になってしまった」
地獄のような苦しみの中、足場の設計から絵の具の調合まで全てを一人で担い、
孤独と格闘しながら作品に向き合った。

どんな迫害や苦労も、不屈の絵筆を止めることはできなかった。

「わたしの生きているかぎり、わたしのできるかぎり、

わたしは依然同じようにやってゆくつもりです」
 

1512年、4年半の歳月をかけ、ついに礼拝堂の天井画を完成させる。
描画面積1000平方メートルに及ぶ壮大な絵画は、見る者全てを圧倒した。
かくして37歳のミケランジェロは、

画家としても他の追随を許さぬ存在となったのである。

困難に打ち勝ち、偉業を成し遂げてなお、彼は現状に満足せず、

より高きものを求めて創作に没頭した。
ユリウス2世の逝去後、墓碑の制作を再開し、40年越しで約束を果たす。
そのさなかで、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を完成させた。

その後、大病を患うも、72歳でサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に就任。
芸術への情熱は晩年になっても消えることはなかった。
「わたしは自分の今あるもろもろの条件の下で最善をつくすだけだ」

芸術こそが居場所だったミケランジェロは、
1564年2月、89年近い生涯を終える直前までノミを振るい続けたという。

フランスのノーベル賞作家ロマン・ロランは、

ミケランジェロの人生を通してつづっている。

「偉大な魂は高い山巓のようである。風が吹き荒れ雲が包んでしまう。
けれどもそこでは他のどこよりも充分にまた強く呼吸できる。

空気は清く心のよごれを洗い落す。
そうして雲が晴れると、そこから人類を俯瞰できる」

「あの高みで、人は『永遠なるもの』をより間近かに感じ、
そうして日々の闘いのために心を強められて、

人生の平野にまた降りてこられるだろう」
 

聖教新聞 2024年1月21日
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敬愛する貴女へ。



もし僕がそこに昇る太陽なら
僕の愛でどこでも満たせるのに
もし太陽が沈んだら僕は月になろう
僕はいつまでもキミのそばにいるよ

僕の愛がどれだけ強いのか

僕は僕の涙の海で溺れる柳の枝になる
キミがいれば僕は泳げる
涙が枯れたら僕は虹になり
キミを包み キミを暖められるだろう

僕の愛がどれだけ強いのか

僕は深い広い海になる
キミが流した涙のすべてを僕は受け止める
嵐が去ったら 僕はそよ風になる
キミの涙を乾かし キミを暖める

僕の愛がどれだけ強いのか
僕の愛がどれだけ深いのか
僕の愛がどれだけ広いのか

僕にできることなら何でもするだろう

キミが求めるものは 僕が求めるものときっと同じだ

キミがどんな愛をほしいと思っていたとしても
僕はいつでもキミのそばにいるよ