2016年11月。

七年前、晩秋の早朝。

僕は、東京から深夜の高速バスで大阪に着いた。

目的は、その夜にあるコンサートへ行くことだったのだけれど。

その前に、どうしても行きたいところがあった。
早朝に着く高速バスは都合がよかった。

 

 

大阪環状線に乗った記憶がある。
最寄り駅を降りて、そこから川沿いの道を歩いた。

 

 

大阪拘置所の前を何度も往復した。

 

 

格子に覆われた奥の窓を見ながら、
僕は、彼の人と同じ苦しみを耐え抜けるだろうかと思った。

そこから、さらに川沿いの道を行き、中の島、大阪地裁と歩いた。

 

     

 

どんな人間にも、善と悪は、
『影の身がそうがごとく』常に同居している。

法華経の「虚空会の儀式」の姿を借りて顕された御本尊には、
提婆達多も第六天魔王も、生命の実相として厳然と記されている。

 

彼の人は言う。


崇高な目的は、崇高な手段によらなければならない。
目的は手段を決定づける。



これに、佐藤優氏はつづける。


手段は事柄の本質に影響を与える。
間違った手段は内面を蝕む。
そして、内面の腐敗は行動に表れる。


 

 

どんな大義があろうと、
悪をもって戦い、勝利を得ようとすれば、
大義は自らの悪によって穢されてしまう。

 

それを為そうとする者には、

崇高なものとは違う、何か別のものが入り込んでいる。

崇高なものを、崇高なまま未来まで繋ぐには、
悪をもって戦い、勝利を得ようとしてはならない。

屈するくらいなら死を択ぶ、”敗北”でなければならない。

その死をもって貫く”敗北”だけが、
まだ見ぬ決定的な”勝利”の道を拓くことを知らなければならない。

人類の歴史は証明している。

 

 

彼の人。


戸田先生の原点は、どこにあられたか。
それは、恩師・牧口先生の獄死でした。


牧口先生の死について語るとき、
戸田先生は、いつも目に涙をためて、
こぶしを握りしめ、憤っておられた。

なぜ恩師は死ななければならなかったのか。
なぜ正義の人が迫害されるのか。
なぜ愚かな戦争を避けられなかったのか。

痛恨極まる思いであった。

牧口先生は死して牢を出られた。
戸田先生は生きて牢を出られた。
戸田先生の使命の自覚は鮮烈でした。

牧口先生を殺した「権力の魔性」を、断じて打ち破るのだ。

それには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。

根本の「人間」を変えるしかない。
民衆が強くなるしかない。
民衆が賢くなるしかない。
そして世界中の民衆が心と心を結び合わせていくんだ――と。
~ 青春対話 池田大作

 

 

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戸田先生が、
 よく話してくださった中国の『十八史略』。

そのなかに、唐の名君・太宗の言葉があった。
「人君の心はただひとつ、しかるに、
その一心をなんとかしてかき乱そうとするものは、おおぜいいる。
勇力を誇示して自分を売りこもうとする者、
弁舌巧みにいい寄ろうとする者、
娼びへつらって機嫌をとろうとする者、
嘘(いつわり)でだまくらかそうとする者、
嗜欲(=嗜み好むこと)につけこんで誘惑しようとする者、

このように、四方八方からいろいろな人間が、

それぞれ自分を売りこもうとする。
だから、人君たるものが、
少しでも気をゆるしてこれらのうちのひとりにでも
つけいる隙をあたえたら最後、
国はたちまちにして滅亡のせとぎわに立たされることになる」

(『十八史略』4、花村豊生・丹羽隼兵訳、徳間書店)

いわんや、広宣流布の「将の将」たる者に、
いささかたりとも私利私欲があれば、
多くの同志を守り、励まし、幸福にすることはできない。


「すべて禍は上より起こるものである」
(『言志四録』1、川上正光訳注、講談社)
とは、江戸後期の思想家・佐藤一斎の警句である。

2006.3.17 最高協議会 
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1962年1月25日は、「大阪事件」無罪判決の日。

 

創価学会大阪事件とは何だったのか。

 

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1957年4月23日に投票が行われた参議院議員選挙大阪地方区補欠選挙。

この補選に創価学会は中尾辰義を擁立し、組織をあげて選挙運動を展開した。
投票日前日の22日早朝、大阪市内の4ヵ所の職業安定所で
中尾の名前が記されたタバコが配られた。
大阪の各紙夕刊と夕刊紙が候補者名を伏せてこの事実を報じた。
創価学会関西本部は、タバコに中尾の名前が記されているとの事実を知り、
悪質な選挙妨害であるとして大阪府警に厳重取り締まりを要請した。
23日の投票日当日、各朝刊紙は、
22日夕刻、某候補の名前を貼り付けた百円札がばらまかれたと報道した。
報道では候補者名は記されていなかったが、
中尾陣営の買収行為との噂が広がった。
翌24日、開票が行われ、自民党候補者が27万7903票で当選した。
次点の日本社会党候補は27万6064票を得た。
中尾の得票は、17万497票だった。
投票率は、太平洋戦争後に大阪で行われたあらゆる選挙で最低の
32%(大阪市内は26.5%)だった。
5月中旬になって、池田はこの選挙違反に創価学会員が関与していたことを知った。

「池田大作研究 世界宗教への道を追う」佐藤優
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彼の人は、その真実を歴史に残している。

 

 

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一九五七年(昭和三十二年)七月三日、午前七時三十分――。

山本伸一は、千歳空港を後にした。大阪府警察本部に出頭するためである。
この日は、戸田城聖が、あの戦時中の法難による二年間の獄中生活を終えて、
出獄した記念の日である。

そのことに気づくと、伸一の胸は燃え盛った。

彼は、座席に身を沈め、窓に目をやったが、外は雲に包まれ、何も見えなかった。
飛行機は、轟音を響かせながら、雲の中を上昇していった。
学会は、間断なく飛翔を続けている。
山本伸一は、その飛行機の副操縦士ともいえる存在になりつつあった。
当然のことながら、飛行中は気流の変化もあれば、暗雲に包まれることもある。
しかし、常に、常に、広宣流布という目的地をめざしながら、
懸命に、油断なく操縦揮を操っていかなくてはならない。

今、彼の人生の前にも、乱気流が横たわっていたといえよう。
当時のプロペラ機での飛行は、羽田到着まで約三時間を要した。
羽田で大阪行きに乗り換えである。

羽田に到着した伸一は、機外に出た途端、蒸し暑さに、どっと襲われた。
ここ数日を北海道で過ごし、機内の冷房につつまれていた体には、
東京の蒸し暑さは、瞬間、耐えがたいものがあった。
ロビーに出ると、数人の青年部幹部が出迎えていた。彼らの心配そうな顔があった。
「室長!」と言って駆け寄りはしたものの、誰もが、次の言葉を探しあぐねていた。

戸田城聖は、控室で伸一の来るのを、伸一の妻の峯子や、

弁護士の小沢清と共に待っていた。
戸田は、彼の分身ともいうべき最愛の弟子を、
今、羽田に迎え、そして、直ちに大阪府警に送らねばならないことに、
深い苦渋に満ちた感慨をもてあましていた。
彼は、ここ数日の情勢から、伸一の逮捕を予測していたのである。
情けなくもあり、腹立たしくもあった。

既に、大阪府警に出頭した、理事長で蒲田支部長の小西武雄が、
前日の七月二日に逮捕されていたのだ。

山本伸一が、「先生、ただ今、戻りました」と言って、狭い控室に入っていくと、
戸田は、待ちかねたように声をかけた。
 

「おお、伸一……」
戸田は、伸一を見つめ、あとは言葉にならなかった。

伸一は、瞬間、戸田の憔悴した姿を見て、心を突かれ、言葉も出なかった。
戸田は、側に伸一を招いた。伸一は、手短に夕張の状況を報告した。
「ご苦労、ご苦労。昨夜、電話で聞いたよ」

戸田は、話の腰を折るようにこう言って、伸一の顔を、じっと見つめるのである。
慈しみつつも、また悲しい眼差しであった。

伸一はその視線を避けるように、目を落とした。

 

その瞬間、戸田は、咳払いしてから、意を決したような強い語調で言った。
「伸一、征って来なさい」
戸田は、伸一の目を見すえ、ながら話を続けた。

 

「われわれが、やろうとしている、
日蓮大聖人の仏法を広宣流布する戦いというのは、現実社会での格闘なのだ。
現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。
それ自体が、仏法の真実の証明であり、避けることなど断じてできない。
どんな難が競い起ころうが、われわれは、戦う以外にないのだ。
また、大きな苦難が待ち構えているが、伸一、征って来なさい!」


「はい、征ってまいります」
伸一は、こう答えたものの、ここ五日ばかりの間に、
めっきりやつれた戸田を目の前に見るのが辛かった。
わが師の心労を思うと、胸が痛んだ。戸田の健康が気がかりでならなかった。

「先生、お体の具合は?」
「うん」
戸田は、それには答えなかった。
そして、伸一をまじまじと見つめ、その肩に手をかけた。

「伸一、心配なのは君の体だ……。絶対に死ぬな、死んではならんぞ」

 

戸田の腕に力がともった。
彼は、伸一の体を強く抱き締めるように引き寄せ、沈痛な声で語りかけた。

「伸一、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、
私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」


電撃が伸一の五体を貫いた。彼は、答える言葉を失った。
万感に胸はふさがり、感動は涙となって、目からほとばしり出そうになったが、
彼は、じっとこらえた。

 

そして、決意の眼差しを戸田に向けながら、わが心に言い聞かせた。
″断じて負けるものか。どんな大難が降りかかろうと、決然と闘い抜いて見せる。
戸田先生の弟子らしく、私は、力の限り戦う。師のためにも、同志のためにも。
それは広宣流布の、どうしても越えねばならぬ道程なのだ″

やがて、青年部の幹部の一人が、
大阪行きの飛行機の出発時間が迫っていることを告げに来た。
 

すると戸田は、一冊の本を手にして、伸一に渡した。
「いよいよ出たよ。あとで読んでくれ」

本は、戸田が、妙悟空のペンネームで、
聖教新聞に連載してきた小説『人間革命』
であった。
戸田の出獄の日である。この七月三日を記念して発刊されたのである。

戸田は、照れたように笑った。
伸一の頬もゆるんだ。
戸田は、伸一と固く握手を交わし、先に控室を出た。
妻の峯子は、着替え類を詰めてきたカバンを慌ただしく渡し、

無言のまま伸一を見た。
「ありがとう。大丈夫だ、心配ない。あとは、よろしく頼む」
伸一は、口早に峯子に言い、青年部幹部に促されるままに、ロビーに出た。
そこには、大勢の幹部の姿があった。どっと伸一を取り囲み、彼の手を握った。
皆、同じ広宣流布の目的に生きる戸田門下生であり、同志である。

「お元気で……」
「ありがとう、これがあるから大丈夫だよ」
伸一は、戸田から贈られた『人間革命』をかざして、あいさつを返した。

 

彼は、小沢弁護士と共にゲートの方へ進んだ。
わずかな待ち合わせ時間であったが、
彼には、戸田の慈愛の泉を一身に浴びた、大いなる蘇生へのひとときであった。

伸一を乗せた大阪行きの飛行機は、羽田を離陸した。
彼は、席に着くと、『人間革命』をぱらぱらとめくっていった。
新刊本の、すがすがしい匂いがする。
そのうちに、伸一の目は、吸い寄せられるように、本に集中し、
時のたつのも忘れて読み進んでいった。

主人公の巌さんが警察に留置され、執拗な取り調ベにあい、
遂に拘置所の独房で呻吟しなければならなくなった辺りになると、

伸一は興奮を覚えた。

時が時である。あと数時間もすれば、自分の身にも、
おそらく同じ運命が待ち受けている
であろうことを思うと、切実であった。

巌さんは、法華経を獄中で読み切ることによって、彼の生涯の使命を自覚する。
伸一は、戸田の獄中での生活を幾たびとなく聞かされていたが、
今また、戸田の小説を読むことによって、師の苦闘が、

まざまざと脳裏に浮かんできた。
そして、自身にも獄中の生活が迫りつつあることを、ひしひしと感じていた。
それは、これから始まる獄中での闘争に、尽きぬ勇気を沸き立たせた。

伸一は、飛行機の席で、思わず、「よし!」と叫び、

『人間革命』を閉じて、ぽんと叩いた。

 

″仏法を行ずる者に、難が降りかかることは、何も、今に始まったことではない。
日蓮大聖人の御一生は、もちろんのことだが、
牧口先生、戸田先生の戦時中の法難も、そうではないか。
今また、新しい難が学会を襲おうとしている。
それは、学会が大聖人の御遺命のままに、

仏法を行じている偉大なる証明ではないか!

伸一は、戸田から聞かされてきた学会の受難に思いをめぐらした。
戸田は、普段は自分の獄中生活を、

面白、おかしく語って聞かせることが多かったが、
伸一と二人きりで対し、あの大弾圧について語る時、彼の表情は厳しかった。
目は憤怒に燃えていった。一言二言が、烈火のごとき怒りをはらんでいた。
時に語気は激しくなり、また、沈痛な声となり、

メガネの奥が、涙でキラリと光ることもあった。

 

伸一の胸には、六月初旬のある夜、戸田が、
万感の思いを吐露するかのように語った指導の数々が、鮮烈に蘇ってきた。

その日、伸一は、夕張の炭労対策の指示を仰ぎに、戸田の自宅を訪れたのである。
戸田は、炭労への対応の基本的な考え方を、簡潔に述べると、

戦時中の大弾圧を振り返りながら、
広宣流布の道が、権力との壮絶な戦いであることを語っていった。

それは、まさに伸一の身に、この日が訪れることを予見し、最愛の弟子に、
生涯にわたる権力との闘争への決起を促すかのような、入魂の指導となっていった。

「伸一君、権力というものは、一切をのみ込んでしまう津波のようなものだ。
生半可な人間の信念など、ひとたまりもない。
死を覚悟しなければ、立ち向かうことなど、できないよ」


戸田城聖は、戦時中の共産主義・社会主義者への過酷な弾圧から、
多くの転向者が生まれたことを述べたあと、

学会に加えられた軍部政府の圧迫を詳細に語った。

一九四三年(昭和十八年)六月、

天照大神の神札を祭るように、軍部政府から強要された総本山が、
牧口常三郎をはじめ、学会幹部に登山を命じたことに話が及ぶと、

戸田の声は震えた。

「あの日、牧口先生と共に、私たちは、急いで総本山に向かった。
先生は、来るべき時が来たことを感じておられた。
列車の中で、じっと目を閉じ、やがて、目を開けると、

意を決したように私に言われた。

『戸田君、起たねばならぬ時が来たぞ。
日本の国が犯した謗法の、いかに大なるかを諌める好機の到来ではないか。
日本を、みすみす滅ぼすわけにはいかぬ!』

 

『先生、戦いましょう。不肖、この戸田も、先生の弟子として、

命を賭す覚倍はできております』

先生は、大きく頷かれ、口もとに笑みを浮かべられた。
私は、謗法厳誠の御精神のうえから、
総本山を挙げて、神札を固く拒否されるものと思っていた。しかし……」

ここまで話すと、戸田は、声を詰まらせたが、
ややあって、彼方を仰ぎ見るように顔を上げると、言葉をついだ。

「日恭猊下、日亨御隠尊猊下の前で、宗門の庶務部長から、こう言い渡されたのだ。
『学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか』


私は、一瞬、わが耳を疑った。
先生は、深く頭を垂れて聞いておられた。
そして、最後に威儀を正して、決然と、こう言われた。

『承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません』

その言葉は、今も私の耳朶に焼き付いている。
この一言が、学会の命運を分け、
殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ

 

師と弟子との、厳粛な語らいであった。
戸田の語気は鋭く、声には重厚な響きがあった。
彼は、伸一の眼を見すえながら、一気に話し続けた。

「程なく、牧口先生も、私も、特高警察に逮捕され、

宗門からは、学会は登山を禁じられた。
日蓮大聖人の御遺命を守り、神札を受けなかったがためにだ。
権力の威嚇が、どれほどの恐怖となるか、このことからもわかるだろう。
しかし、先生は、その権力に敢然と立ち向かわれ、獄死された。
先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。
これはどうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体なるゆえんもここにある


戸田城聖は、何ゆえ広宣流布の途上に法難が競い起こるかを語っていった。

 

――日蓮大聖人の仏法は、人間生命の尊厳無比なることを説き、
人びとを苦悩から解放する、幸福のための、人間のための宗教である。

それに対して、権力は、力をもって民衆を隷属させ、支配しようとする。
この人間支配への飽くなき欲望が、「権力の魔性」である。

そして、民衆を支配する手段として宗教を利用し、

人びとを帰伏させようとしてきた。
権力に屈服し、協力する宗教を、手厚く保護する一方、

それに従わぬ宗教には弾圧を加え、
あるいは懐柔策を弄して、自在に操ろうとした。
また、宗教の側も保身のために、競って権力に迎合したのである。

しかし、日蓮大聖人は、権力と真っ向から対決された。
民衆の幸福を実現しようとする教えと、
民衆を隷属化させようとする権力とは、原理的に相容れざるものであるからだ。

 

権力者から見れば、権力に屈せぬ宗教の流布は、
権力の支配する王国のなかに、その力の及ぼぬ別の精神世界をつくるに等しい。
これほど危険な存在はない。
それだけに、怨念と嫉妬から憎悪をむき出しにし、排除にかかる。
経文で説く「猶多怨嫉」(法華経)である。
そこに、広宣流布の道程は、権力との熾烈な攻防戦とならざるを得まい理由もある。


しかし、大聖人は、時の権力など、決して恐れなかったし、屈しなかった。
「わづかの小島のぬしら主等がをど威嚇さんを・

をぢては閻魔王のせめ責をばいかんがすべき」と、悠然と言い放たれている。

日本の仏教界は、ことごとく、今日に至るまでに、

権力の掌中に落ちたといってよい。
ことに江戸時代に徳川幕府によって檀家制度が施行されるにいたり、
寺院は、幕府の行政機構の一機関として、「戸籍係」の役割を担わされ、
完全に権力のもとに組み込まれていった。
そして、聖職者自らが、政治権力の威光を借りて、
意のままに信徒を操る権力となっていったのである。

権力に依存した宗教は、当然、民衆のために現実社会を改革し、

創造していく力とはなり得ない。
心の慰めか、現実を逃避し、来世の安穏を願うだけの「死せる宗教」と化した。
こうして培われた宗教の、保守、保身の体質は、明治以降も変わらなかった。
戦時中の既成仏教諸宗の、軍部への迎合は、当然といえば当然のことといえる。

 

そのなかで、学会は、日蓮大聖人の御精神に違わず、
「生きた宗教」として、軍部の政治権力に抗して敢然と戦った。
あの大弾圧を呼び起こしたのも、これまた当然の帰結である。


戸田は、理路整然と、法難の縮図ともいうべき原理を語っていった。
伸一は、もつれた糸が解きほぐされるような思いに駆られながら、

戸田の話に聴き入っていた。

時計の針は、午後十一時を回っていた。伸一は、戸田の体が心配でならなかった。
四月三十日の午後、突然、戸田が倒れてから、まだ一カ月余りしかたっていない。
伸一は、少しでも早く、戸田に休んでもらわなければとの思いが強かった。
しかし、戸田は、どうしても今夜のうちに、
これだけは話しておかねばならないかのように、なおも語り続けた。
 

「伸一君、しかも、今、学会は、仏法の慈悲の精神を基調とした、
人間のため、民衆のための社会建設をめざし、文化、教育、政治など、
あらゆる分野の改革に乗り出したところだ。
その現実社会に展開される『生きた宗教』の台頭を、

権力が見逃すわけがないではないか。
戦後になって、権力は分散してきたともいえる。
そして、炭労というものも、今は炭鉱労働者を組織した、

一つの権力の様相を呈している。
だが、まだ、その上に、国家の政治権力がある。本当に怖いのは、そっちの方だよ。油断はできないぞ」

 

「はい!」
伸一は、真剣な表情で頷いた。戸田も、大きく頷きながら、

うまそうに卓上の水を飲み干した。

「この権力との戦いは、並大抵のものではない。

それは、第六天の魔王との戦いになるからだ」

戸田は、傍らの御書を手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。

「ここだ。ここを読んでごらん」

伸一は、御書を受け取ると、戸田が指さした箇所を、声をあげて拝読し始めた。
「三沢抄」の一節である。

 

「第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや

此の者此の国に跡を止ならばかれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ

又人を導くべし……各各ののうのう能能に随つて・かの行者をなや悩ましてみよ

それに・かなわずばかれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて

あるひはいさ諫め或はをど威してみよ・それに叶はずば我みづから

うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むにいかでか

とど止めざるべきとせんぎ僉議し候なり」

戸田は、そこで制した。


「第六天の魔王は、法華経の行者が信心に励み、仏になりそうなのを見て、驚いて、
『ああ、とんでもないことだ』と慨嘆する。
この法華経の行者が、この国にいるならば、次々と人を導き、
魔王の領土であるこの世界を奪い取って、浄土にしていってしまうからだ。
そこで、六道の世界から、魔王の一切の眷属を招集して命令を下す。
『おのおのの能力にしたがって、法華経の行者を悩ましてみよ。
それでだめならば、彼の弟子檀那や国土の人びとの心のなかに入り込み、
あるいは諌め、あるいは脅してみよ』というのだ。

 

障魔というものが、いかなる姿を現じてくるか測りがたいわけだよ。

御書の仰せに嘘はない。あの笠原慈行のことを考えでみたまえ。
神本仏迹論を唱え、大聖人の正法正義に違背した身延の日蓮宗と

合同を画策する悪侶が、正宗の高僧のなかから出てくるなどと、

誰が予測しただろうか。
まさに師子身中の虫であり、悪鬼入其身の姿そのものだ。
それだけに、動揺も大きかっただろう。

 

魔が狙わんとするところは、大聖人の大精神を断絶せしめ、

広宣流布を阻止することにある。
そのためには、手段を選ばないということだ。

これから先も、どんな姿を現じてくるかわからない。
御書に照らして真実を見極めていけば、すべては明らかだが、
いささかたりとも信心の眼が曇れば、魔に翻弄されていくことになるだろう」

戸田の言葉は、未来を予見しているかのようでもあった。
 

「さて、問題は、このあとの箇所だよ。第六天の魔王は、さらに、こう言うのだ。

『もしも、それでも法華経の行者を退転させられなかったら、

われ自らが降りていって、国主の身に入り代わって、脅してみる。

それで、どうしてとどめられないことがあろうか』
魔王を中心に、このように評議したというのだ。

 


つまり、最後は、第六天の魔王が、
『権力者の身に入って、迫害を加え、信心をやめさせ、

広宣流布の流れを閉ざしてみせる』と豪語しているんだよ」

こう言って、戸田は笑ったものの、すぐに険しい表情に戻った。

 

「権力による迫害は、一言でいえば、三類の強敵の第三、
つまり僣聖増上慢によるものということになるが、

実は、これが厄介なものなんだよ。
僣聖というのは、聖人のように振る舞ってはいるが、内面は邪見が強く、
貪欲に執着する僧をいうが、それが権力に近づいて、

正法を行ずる者を迫害するという構図だ。
軍部権力に追随していった笠原慈行の場合も、その一例といえるだろうが、
まだ程度は低い方かもしれないぞ。

大聖人御在世当時の、極楽寺良観もそうだ。
聖人と仰がれる人物が権力と手を結び、迫害の急先鋒となる。
そうなると、何が『正』であり、何が『邪』なのかも、

容易にはわからなくなってしまう。

それが、三障四魔が、『紛然として競い起る』といわれるゆえんなのだ。
紛らわしく、入り乱れて、さまざまな形をして現れてくるだけに、
何がなんだか、さっぱりわからずに右往左往し、退転していく。
それこそが、魔の意図するところといえる。
伸一君、これで広布の道が、いかに険しいかがよくわかるだろう」
 

伸一は、大きく頷きながら、自分にもまた、法難の避けがたいことが予感された。

″先生の弟子として、広宣流布に生き抜く限り、
いつか、一身に迫害を受ける日が来るにちがいない。
その時こそ、悠然として難に赴く勇敢な師子でありたい″

彼は、自らに言い聞かせた。

山本伸一が、あの日、戸田城聖との語らいのなかで予感した法難は、
一カ月を経ずして現実となった。

今、大阪行きの飛行機の中にあって、伸一は思った。
″戸田先生は、師子であられた。
なれば弟子であり、師子の子である私もまた、師子であらねばならない。
いよいよ、まことの師子か、どうかが、試される時が、遂に来たのだ!″


その時、機内放送で、着陸の準備に入ったことが告げられた。
いよいよかと思った時、今日が七月三日であることを、伸一は、再び思い起こした。

 

十二年前の、一九四五年(昭和二十年)七月三日、
戸田城聖は、豊多摩刑務所から出獄した。

″そうか、この宿縁の日に、私は出頭するのか……″

彼は、ぎゅっと拳を握り締めた。
心は、不動の落ち着きを取り戻し、胸に新たなる情熱が込み上げてくるのを感じた。

伸一の乗った飛行機は、程なく伊丹空港に着陸した。
空港には、関西の数人の幹部が出迎えてくれた。
 

そこから車に乗り、ひとまず、

弁護士の小沢清の宿となっている肥後橋のホテルに向かった。
ホテルのロビーには、関西の首脳幹部をはじめ、関係者が待機していた。
用意されていた部屋で、簡単な打ち合わせを終えた伸一は、

新しいシャツに着替えた。
そして、いよいよ大阪府警に出頭しようと、ソファから立ち上がった。

その時、関西の婦人部の幹部である大矢ひでが、飲み物を運んできた。
傍らのテーブルに、グラスを置いた大矢は、
黙って伸一を見つめていたが、意を決したように言った。

「先生、お願いです。府警なんかに、行かんといてください。
行かはったら、帰れんようになるに決まってます」

その目は潤み、涙が頬に流れた。

 

「大丈夫、大丈夫だよ。ぼくは、何も悪いことなんかしていないじゃないか。

心配ないよ」

伸一は、大矢を励ますようにこう言うと、ジュースを飲み干した。

部屋を出て、ホテルの入り口に行くと、既に数人の幹部が待機していた。
皆、不安そうな表情である。

「さあ、行ってくるよ。後のことは、しっかり頼んだよ」

婦人たちの目は、一様に涙ぐんでいた。

「大丈夫だよ。行くのは、ぼくじゃないか」

伸一は、声をかけ、小沢弁護士と共に車に乗り込んだ。
見送る人びとに会釈を返しながら、彼は思った。

 

″こうして心配してくれた、この人たちのことを、私は、永久に忘れないであろう″

 

蒸し暑い午後であった。車は、大阪城内にある大阪府警察本部に向かった。

府警に着くと、さっそく山本伸一は、

公職選挙法違反の容疑者として取り調べられた。
そして、午後七時過ぎ、府警は、

待ち受けていたかのように伸一を逮捕したのである。
午後七時ごろといえば、十二年前のこの日、

戸田城聖が出獄した時刻と、奇しくも同じであった。

伸一には、二つの容疑がかけられていた。

一つは、候補者名を書いたタバコと、

候補者の名刺を貼った百円札がばらまかれた買収事件である。
もう一つは、戸別訪問である。
伸一が、参議院の大阪地方区補欠選挙で、

支援活動の最高責任者であったことから、この買収と戸別訪問という違反行為が、

伸一の指示のもとに行われたにちがいないと、警察当局はにらんでいたのである。

 

伸一にとって、これほど心外なことはない。
タバコ事件、百円札事件を指揮した

首謀者の大村昌人という東京の地区部長は知ってはいたが、
今回の選挙の派遣員でもなかった。

また、伸一は、戸別訪問で逮捕され、
伸一の指令であることを認めたという京都の会員についても、

顔も名前も知らないのである。
 

″どこかに落とし穴があるにちがいない。いや、あるいは、当局の捜査が、
恐るべき予断と偏見をもって行われ、それに誤解と曲解が重なり、

このような事態になったのだろうか。
だが、真実は一つだ。やがて、一切が冤罪であることが、明らかになるであろう!

伸一は憤然としながらも、冷静に考えることができた。

しかし、この「やがて」が、現実のものとなるまでには、

四年半という歳月を要したのである。
 
――六二年(同三十七年)一月二十五日、大阪地裁で、この事件の判決が出た。
一切の真実が、やっと明白になり、山本伸一は「無罪」となったのである。
検察は控訴することなく、最終的に「無罪」が確定するのである。

しかし、この時には、既に戸田城聖は世を去っていた。


そして、この四年半の苦渋に満ちた裁判闘争というものは、
躍進する創価学会の行く手を、幾たびも暗雲につつんだ。
広宣流布の歴史が、受難の歴史と言い得るゆえんである。
しかし、学会は、その受難を強力なバネとして、常に新たな飛躍を遂げ、

前進し続けてきたといってよい。
 

・・・・・

 

小説「人間革命」第11巻 大阪
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今夜は、パール富士の満月の夜だった。