1991年5月、創価大学池田記念講堂。

彼の人は言った。

「諸君に言ってるんじゃないんだよ。諸君らは死刑だなんて言ったら、
信仰もやめる。大学も辞めるってなっちゃうよ!」

「全部聞きました。涙が溢れる。・・・退転しちゃダメだよ!」


あの日から、ことあるたび、彼の人は僕を導いてくれた。

「心が綺麗じゃなきゃダメなんだよ!」

「もう決まってるんだからいいんだよ!」

「俺はこれで行くんだって決めるんだよ!」

「決めたんだろ!」

「戸田先生だったら張り倒されてるよ!」

「飛び出すんだよ!」

・・・・・
 

 

 

心が綺麗なだけじゃダメなんだ。

それから僕は、生活のための仕事をしながらも、
自分が辿り着きたい場所へ行くため、
自分の心が求めるまま、学びつづけ、
今の仕事へと繋がる道へ入ることができた。


彼の人は、”人の心を一瞬で見透してしまうレントゲンのような人だ”
と、香峯子夫人がかつて語ったと聞く。

なぜ、彼の人にそれがわかるのか。
法華経に説かれる「如来秘密神通之力」なのか。

彼の人は、僕が難局に直面するたび、
そして、僕がそれに耐え、激しく攻撃をするたび、
僕をリアルタイムに励ましてくれた。

突然の解雇、悶絶するような裏切り、
能力への嫉妬から立場を盾に迫害を加える人間、
自分を守るためなら真実を捻じ曲げる人間、、、、、

すべてを正面から受け止め、耐えながら、

あるときは、仕事を捨て激しく血を吐くような言葉で反撃し、、、
30数年をかけて、僕はやっとここまできている。

 

彼の人が、あのとき言った、

「退転しちゃダメだよ!」

という言葉の意味がようやく分かりかけてきた。


彼の人がご逝去直前、”わが友に贈る”に書いてくれた。


「継続」は力なり。
地道な実践の中で
勝利の土台は築かれる。
自分なりの歩幅で
今日も着実な一歩を!
~ 2023年11月1日

 

 

彼の人は書いている。

1975年の広島。

 

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
広島滞在四日目となる十日、山本伸一は、朝から、海外各国の理事長らと、
寸暇を惜しんで懇談し、指導を重ねた。

世界広布は、伸一が師の戸田城聖から託された、
断じて成し遂げねばならぬ人生のテーマであり、創価学会の使命であった。

世界広布とは、仏法の人間主義の哲理をもって人類を結び、
世界の平和と人びとの幸福を実現することである。

しかし、どの国や地域にも、軍事政権下にあって活動が制限されるなど、
さまざまな困難が山積していた。

伸一は、力を込めて語った。
「実情は厳しいかもしれない。
でも、だからこそ、自分がいるのだという自覚を忘れないでいただきたい。
私たちは師子だ。どんな逆境も、はね返して、
歴史の大ドラマをつくる使命をもって、生まれてきたんです」

ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは叫んだ。

――「君たちが、新たな、あらしをはらむ、わきたつ時に生まれたのは、
一体不幸だろうか。それは君たちの幸福ではないか」

逆境が、真正の勇者をつくるのだ。

さらに、伸一は訴えた。

「自国の平和と繁栄を、絶対に築いてみせると強く決意し、
大宇宙を揺り動かす思いで、祈り抜くことです。
そして、執念を燃やして、一日一日を、一瞬一瞬を、
『臨終只今』の思いで全力で戦い、勝利を積み上げていくんです。
 大聖人は『小事つもりて大事となる』と仰せだ。
瞬間瞬間の勝利の積み重ねが、歴史的な大勝利となる。
悔いなき闘争のなかに、大歓喜がある!」

正午からは、広島文化会館の前庭で、
海外メンバーの歓迎フェスティバルが行われた。

席上、本部総会に来賓として出席した、ハワイのホノルル市議会副議長から、
伸一に、ホノルルの名誉市民の称号が贈られた。

一九六〇年(昭和三十五年)十月、
海外歴訪の第一歩をホノルルに印してから十五年――伸一の、
同市への貢献と、世界平和への間断なき努力が高く評価されたのである。

それは、世界広布の勝利の曙光であった。

山本伸一は、海外メンバーに、次々と声をかけ、
レイを贈るなどして励ましていった。

メンバーのなかに、ウルグアイから来日した四人の青年がいた。
男性二人、女性二人である。

同行の幹部が、伸一にメンバーを紹介した。
四人のうち、一人は、日系人の男性で、
あとの三人は、スペイン・イタリア系などのウルグアイ人であった。

ウルグアイは南米の南東部にあり、ブラジルとアルゼンチンに隣接する国である。
日本とは、ほぼ地球の反対側に位置する。
いわば、最も遠い地域から、参加した青年たちであった。

伸一は、じっと、メンバーを見つめると、厳しい口調で言った。

「まず、今後五年間、退転せずに頑張りなさい。今は苦しみなさい。
本当の師子にならなければ、広宣流布などできない!」


周りにいた日本の幹部たちが、予想もしなかった言葉であった。
皆、伸一は、青年たちの訪日を讃え、
ねぎらいと包容の言葉をかけるものと思っていたのだ。

――ウルグアイは、以前は、中南米を代表する民主国家として知られていた。
だが、経済の停滞から社会不安が高まり、

一九六〇年代には都市ゲリラ活動が活発化した。
そして、ゲリラ鎮圧のために、次第に軍部の力が強まり、
この当時は、事実上、軍政となっていたのである。

伸一は、これまで、軍政下にある国々の状況を、つぶさに見てきた。
会合なども自由に開けないケースが多かった。
また、学会への誤解から、警戒の目が向けられ、

弾圧の対象とされてしまうこともあった。

そのなかで広宣流布を進めるのは、決して容易なことではない。
まさに「日興遺誡置文」に仰せの、
「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」

との覚悟が必要となる。

この不惜身命の信心こそが、いかなる逆境もはね返し、

勝利の旗を打ち立てる原動力なのだ。

山本伸一の言葉を、スペイン語の通訳が伝えると、
ウルグアイから来たメンバーの顔に、緊張が走った。


伸一は、さらに、念を押すように言った。

「本気になるんだ。この四人のうち、本物が一人でも残ればいい。
また、学会に何かしてもらおうなどと考えるのではなく、
自分たちの力で、ウルグアイに、理想の創価学会を築いていくんです。
皆さんが広宣流布を誓願し、祈り、行動していかなければ、
どんなに歳月がたとうが、状況は何も変化しません。
私に代わって、ウルグアイの広宣流布を頼みます」


日本語が少しわかる、日系人のユキヒロ・カミツが、

「はい!」と元気な声で答えた。

伸一は、傍らにいた日本の幹部に言った。

「この人たちは、必ず将来、大きな役割を担う使命がある。

大切な人なんだ。だから私は、あえて厳しく言っておくんです。
若い時に、広宣流布のために、うんと苦労しなければ、力はつかない。
ウルグアイの中心になる人たちを、私は、未来のために育てておきたいのだ。
彼らは今、日本の創価学会を見て、″すごいな。

別世界のようだ″と思っているかもしれないが、
三十年前は、戸田先生お一人であった。
そして、先生と、弟子の私で、壮大な広宣流布の流れを開いたのだ。
その師弟の精神がわかれば、どの国の広宣流布も大きく進む。

″一人立つ人間″がいるかどうかだ」

カミツは、その言葉を、生命に刻む思いで聞いた。

彼は一九五七年(昭和三十二年)、五歳の時に、

家族と共に熊本県からブラジルに渡った。
しかし、一家は米作りに失敗し、二年後、ウルグアイに移った。
それから九年が過ぎた時、同じ移住船でブラジルに渡った人が訪ねて来た。
学会員であった。

仏法の話をするために、わざわざブラジルから来てくれたのである。

人びとの幸福のために、労苦をいとわず、喜び勇んで、どこへでも駆けつける
――それが学会精神である。それが創価魂である。

ユキヒロ・カミツの父は、農業をしていたが、ウルグアイでも借金がふくらみ、
にっちもさっちもいかなくなっていた。しかも、家族も病気がちであった。
「信心で乗り越えられぬ問題はない」と、力強く訴える紹介者の話に、

藁にもすがる思いで一家は入信した。

信心を始めたカミツの面倒を見てくれたのが、

彼より八歳上の、タダオ・ノナカという青年であった。
ノナカは、花の栽培を勉強するため、日本からアルゼンチンに渡る直前、

姉夫婦の勧めで入会。
アルゼンチンで本格的に信心に励み、ウルグアイに移り住んだ。

カミツは、ノナカと共に活動に取り組むなかで、仏法への確信を深めていった。

ウルグアイは、一九七五年(昭和五十年)当時、五十世帯ほどになっていた。
山本伸一は、軍政下にあって、集会にも許可がいるなどの、

ウルグアイの状況を聞き、心を痛めてきた。
そして、未来への飛躍の契機になればと、広島での本部総会に、

ウルグアイの青年たちを招待したのである。

カミツは、この時、ウルグアイの広宣流布への決意を固めた。
「今は苦しみなさい」との伸一の言葉は、彼の指針となった。
「苦しみなしに精神的成長はありえないし、生の拡充も不可能である」とは、

文豪トルストイの名言である。

カミツは、猛然と戦いを開始した。
弘教に、家庭指導にと奔走した。
勇気を奮い起こし、自分の殻を破って、挑戦していってこそ、

成長があり、境涯革命があるのだ。

広島の本部総会から二年後の七七年(同五十二年)、

ウルグアイのSGIは、法人資格を取得。タダオ・ノナカが理事長となった。
そして、二〇〇五年(平成十七年)には、カミツが第二代の理事長に就任する。

伸一も、ウルグアイの平和と発展を願い、一九八九年(同元年)には、

訪日したサンギネッティ大統領と会談。
さらに、二〇〇一年(同十三年)には、

バジェ大統領のメルセデス夫人とも語り合い、交流に努めてきた。

小説「新・人間革命 池田大作」第22巻 命宝
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