のちに、創価学会創立記念日となる、
『創価教育学体系』発刊はいかになされたのか。

 

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「創価学会は、校舎なき総合大学」とは、
第2代会長・戸田城聖先生の言葉である。

創価学会の創立記念日は、11月18日。
初代会長・牧口常三郎先生が戸田先生と共に、
『創価教育学体系』第1巻を発刊したことを淵源としている。

ある冬の夜、牧口先生と戸田先生は深夜まで語らいを続けていた。
牧口先生は、自身の教育学説を残したいという意向を、戸田先生に明かした。

しかし、一小学校の校長の学説が売れる見込みはなく、
出版社が引き受けてくれることも困難に思われた。

慎重になる先師に、戸田先生は「私がやります!」と決意を述べ、
「私には、たくさんの財産はありませんが、1万9000円はあります。
それを、全部、投げ出しましょう」と語った。

小学校教員の初任給が、まだ50円前後の時代。
牧口先生の教育学説を後世に残すため、
戸田先生は一切を捧げる覚悟を、瞬時に定めた。

「先生の教育学は、何が目的ですか」との戸田先生の問いに、
牧口先生は「価値を創造することだ」と応じた。

先師の答えを聞くと、戸田先生は提案した。
「創造の『創』と、価値の『価』をとって、
『創価教育学』としたらどうでしょうか」

大学が教師と学生の語らいから始まったように、
「創価」の二文字も「師弟の対話」から生まれた。

この経緯を通して、池田先生は述べている。
「価値を創造する。美と利と善を創り出す。
深い深い哲学と人格のある名前です。
お二人の人格が反映した名前です」 

聖教新聞  "<ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史> 創価学会は校舎なき総合大学" 
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「私の人生に、戸田城聖先生という、恩師がなかったとしたら、
今日の私は、無にひとしい存在であったにちがいない。
――この事実を、明確に気づいたのは、ずいぶん後のことになる」 
(1969年 随筆〝人生に負けてはいけない〟)


「今の私の98パーセントは、すべて、恩師より学んだものであります」
(1996年6月13日 アメリカ・コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジでの講演)
 

 

ここまで言い切れる人間とは。

 

 


<1963年(昭和38年)7月6日 水滸会>

「戦後、先生の事業が行き詰まり、最悪の事態を迎えられた時にも、
皆がどうするか、弟子たちがどんな行動に出るか、じっとご覧になっていた。
それが“人を見る”ということだ。
だから、いざという時にどうするか、何をするかが勝負だよ」

伸一は、懐かしそうに、戸田城聖との思い出を語り始めた。
「先生の事業が最も窮地に陥っていたころ、

私も胸を病み、発熱と喀血に苦しんでいた。
給料も遅配が続き、社員は一人、二人と去っていった。
なかには陰に回って、大恩ある先生を痛烈に批判する者もいた。

そのなかで、私は働きに働いた。
そして、先生に一身を捧げ、先生とともに戦い、
先生が生きておられるうちに、広宣流布に散りゆこうと、密かに決心した。
そうしなければ、後世にまことの弟子の模範を残すこともできないし、
現代における大聖人門下の鑑をつくることもできないと、考えたからだ。

しかし、戸田先生は、何もかも、鋭く見抜かれていた。
私の心も、すべてご存じであったのだ。先生は言われた。

『お前は死のうとしている。俺に、命をくれようとしている。それは困る。
お前は生き抜け。断じて生き抜け! 俺の命と交換するんだ』

弟子を思い、広宣流布を思う、壮絶な火を吐くような師の叫びだった。
この先生の言葉で、私は広宣流布のために、断じて生き抜く決意をした。
 
広布に一身を捧げ、殉ずることと、広宣流布のために生き抜くことは、
表裏の関係であり、一体といってよい。
そこに貫かれているのは、死身弘法の心だ。
~「新・人間革命」池田大作
 

 

彼の人が10年間学んだ、戸田大学とは何だったのか。

 

 


大世学院を中退してそれからの十年間、
三十歳になるまで日曜日は一日中、
普通の日も毎朝一時間の〝戸田大学〟を受講した。
この講義が池田をつくり上げたともいえる。
~ 1970年 『あすの創価学会』(経済往来社)



私は、大世学院を辞めたが、以来、〔戸田〕先生は仏法はもとより、
人文、社会、自然科学、経済をはじめ、礼儀作法、情勢分析、
判断の仕方、組織運営の問題など、すべてを教えてくださった。
ともあれ、戸田社長のもとで働くこと自体が教育であったといってもよい。
私にとっては先生の言々句々の行動は私という人間行動の基底部にいつもあり、
それは我が生命に刻印された無形の財産となっているのである。
~ 1975年『日本経済新聞』連載「私の履歴書」



かつて、戸田先生は、私にこう言われた。
「お前を大学へ行かせてやりたい。
行かなければ、社会で大きなハンディを背負うことになるやもしれぬ。
しかし、〝人間の大学〟へ行けばよい。
〝信心の大学〟、この〝戸田の大学〟へ行けばよい。
人間としての最高の力をつける全人格的大学と思って」と。
~ 1987年 創立57周年記念勤行会



先生は
「苦労をかけさせて悪いな。君の予定を、私が台無しにしてしまったな」
と涙ぐんでおられた。
そして、その代わりにと言われながら、
日曜日をはじめ毎朝、先生みずから諸学問を教えてくださったのである。
それが全部、私の身についている。
いかなる大学も及ばぬ最高の個人大学であった。
~ 1993年 第64回本部幹部会・第7回東京総会



戦後、私は「戸田塾」で学んだ。
先生は戸田先生。生徒は私一人。
毎朝、十年間、万般の学問を教えていただいた。
最後には
「これで自分の知っていることは、全部教えた」
と言われた。
~ 1994年 創価大学第24回入学式・創価女子短期大学第10回入学式



様々の学問の外に、もっとも精魂こめて教えられたのは、
仏法の生命哲学であった。仏典や日蓮大聖人の御書をつぶさに解説しながら、
現代思想との対決において教えられたのであった。
~ 1969年 随筆〝人生に負けてはいけない〟



戸田先生はよく、

もっとも高き思想のものに、最初から深く入れ、と指導されていた。
「日蓮大聖人の哲学が宗教の最高峰であるがゆえに、これを窮めつくすことは、

一切の学問の根底をつかむこととなるのである」とも教えられた。
~ 1998年 「5・3」記念協議会
 

 

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【池田大作が受けた薫陶を時期に分けて考察】

(1) 池田の創価学会入会から日本正学館入社まで(1947年8月~49年1月)

池田は、創価学会への入会を決意し、信仰の道に入った1947年8月24日について、
次のように述べている。

-----
この時、私は、深遠な仏法の哲理を、十分に納得できたわけではない。
家族も大反対であった。ただ私は、表層の次元を超克して、
戸田城聖という人格に魅了されてならなかったのである。

「体当たりで、私にぶつかってこい。
青年らしく勉強し、勇敢に実践してみたまえ!」
先生は私を信じてくださった。

私もまた、青年の直感で、
「戦争中、平和のため、仏法のために投獄された、この人にはついていける」
と確信したのであった。

その意味において、8月24日は、まさしく「戸田大学」への入学の日であった。
----- 2002年 随筆「不二の旅立ち『8・24』①」

この頃の創価学会の主な会合は、
千代田区西神田の本部で行われていた戸田による法華経講義と御書講義であった。
あとは、各支部が月1回程度開催する座談会である。

入会した池田は、
1947年秋から戸田の講義を聴講し、

48年9月13日からは法華経講義の第7期生として、
毎週月曜・水曜・金曜の3回、5カ月間かかさず受講した(翌49年2月5日に終講)。
池田は、講義から受けた感動を次のように記している。

-----
ああ、甚深無量なる、法華経の玄理に、遭いし身の福運を知る。
戸田先生こそ、人類の師であらん。
妙法の徒。吾が行動に恥なきや。
吾れ、心奥に迷いなきや。信ずる者も、汝自身なり。
祖国を救うのも、汝自身なり。
宗教革命、即、人間革命なり。
かくして、教育革命、経済革命あり、政治革命とならん。
吾れ、二十台にして、最高に栄光ある青春の生きゆく道を知る。
----- 1948年9月13日の手記

戸田の法華経講義は、経典の訓詁注釈ではなかった。
獄中における悟達に基づいた、
受講者一人一人の生き方の変革(人間革命)を促すもので、
その感動は、池田の全身を貫くものとなった。
 

 

(2) 池田の日本正学館入社から少年雑誌休刊まで(1949年1月~49年12月)

池田は、1949年1月に、戸田が経営する日本正学館に入社。
月刊少年雑誌『冒険少年』の編集を担当し、
それまで戸田が行ってきた作家や画家への原稿依頼や
受け取りなども担うことになった。

多忙な作家や画家たちから執筆の了解をもらうことや
締め切りまでに原稿・画稿を受け取ることは、何かと気苦労が多い。
作家や画家たちとの人間関係が大事になる。
それを、21歳の池田に託したのである。
そして、入社半年後には、池田を編集長に抜擢している。
池田は、入社以降に受けた薫陶を次のように記している。 

-----
思えば、私が戸田先生の会社に勤めたのは、
昭和24(1949)年1月3日からだった。
満21歳の誕生日を迎えたばかりである。
それからの十年間というもの、先生の訓練は厳しかった。
毎日のように私に対する薫陶は続いた。
毎朝、仕事の前には先生じきじきの個人教授がなされた。
『御書』を拝しての指導は当然として、
人文・自然・社会科学など万般にわたる勉強だった。
----- 1992年 月刊誌『第三文明』連載「続・若き日の読書」


-----
恩師の出版社で初めて任された仕事が、
『冒険少年』(のち『少年日本』と改題)
という少年雑誌の編集でした。21歳のときです。
プランから原稿依頼、編集作業から校正まで、一人でやりました。
予定していた原稿が間に合わず、
雑誌に「穴」があきそうなときは、自分で書きました。
要するに必要に迫られたわけですが、
本格的に文章に取り組みはじめたのは、このときです。
また当時、戸田先生に厳しく文章を鍛えていただいた経験は、
私の生涯の財産です。
----- 1998年 金庸との対談『旭日の世紀を求めて』


この時期池田は、雑誌編集を通して戸田から薫陶を受けている。

なお、たびたび池田は、十年間毎朝、戸田から教えてもらったと述べているが、
戸田の逝去(1958年4月)から逆算すると、
1949年1月の日本正学館入社の時から始業前の教育が行われていたことになる。

しかし、「約十年の間、毎朝」「十年近くにわたって、毎朝のように」
という表現があることと、
以下述べる始業前の講義が始まった経緯から、朝に講義が行われるようになるのは、
1950年1月以降ではないかと考えられる。

 

(3) 戸田が経営する東京建設信用組合の業務開始から停止まで

(1950年1月~50年8月)

1949年12月、池田が編集長をしていた『少年日本』が休刊になり、
残っていた社員は、同じ建物で営業を始める東京建設信用組合で働くことになった。
しかし、1949年3月から始まった金融引き締め政策

(いわゆる「ドッジ・ライン」)によって、
多くの中小事業者が倒産する中での開業は、相当の困難が予想されていた。

1950年の正月、戸田は、そのことを池田に説明し、
「仕事も忙しくなるので、ついては夜学の方も断念してもらえぬか。
そのかわり、私が責任もって個人教授しよう」と話している。

池田は、大世学院に通うことを断念する。そして、戸田を支えることに専念した。
一方戸田は、池田との約束を守り、休日を使って個人教授を開始。
さらに、始業前にも時間を取るようになり、
1950年には池田に対し五大部と呼ばれる重要御書の講義を行っている。
池田は次のように語っている。


-----
私自身、ほとんどの教育を、私の人生の師・戸田城聖の個人教授から受けました。
約十年の間、毎朝、そして、日曜日は朝から一日中、個人教授を恩師から一対一で、
歴史、文学、哲学、経済、科学、組織論等々、万般にわたって受けたのであります。
----- 1996年 コロンビア大学での講演


また、1950年春頃から51年4月頃にかけて、幹部数十人に対して
「御義口伝」の講義が行われている。
池田は「師のもとで、私が教学を学び始めた時、
まず『御義口伝』から入ったのである」と述べている。
参加対象でなかった彼も、聴講していた。

 

 

(4) 東京建設信用組合の業務停止に伴う戸田の創価学会理事長辞任から会長就任まで
(1950年8月~51年5月)

戸田は、東京建設信用組合の経営状態が悪化したため、窮余の一策として、
大蔵省に他の組合との合併の斡旋を申請した。
ところが、意に反して1950年8月22日に同省から届いたのは、
業務を停止せよとの通達であった(翌日から業務停止)。

彼は、創価学会の会員に動揺が及ぶことを危惧し、
8月24日に同会理事長を辞任する。

同年11月から戸田は、最悪の事態(東京建設信用組合の専務理事である彼が、

経営責任を問われて刑事告発されること)も想定して、

池田を含む信頼する7人に対し、
1950年秋から日曜日に御書などの講義を行うようになった(51年春まで)。
さらに戸田は、1950年11月にホオル・ケエン『永遠の都』、
同年12 月にユーゴー『九十三年』を池田に渡し、読むように言っている。

翌1951年2月、戸田は、信用組合の整理がまだまだ予断を許さない中、
池田が推薦した青年男子14人に、『永遠の都』を回し読みさせ、

感想発表会をもっている。
その後、彼らに対し、御書講義を行うようになった。
また、青年女子15人に対しても、同じ頃から、

『永遠の都』・『九十三年』・太宰治『走れメロス』
などを教材に、読書会を始めている。

このように、この頃の戸田の池田への薫陶は、個人教授だけではなく、
何人かと一緒に行うことで、同じ心で行動できるグループを作ろうとしている。
この方式は、その後の水滸会や華陽会に引き継がれた。

 

 

(5) 戸田の創価学会会長就任から逝去まで(1951年5月~58年4月)

a.1951年5月頃から52年4月まで始業前の講義を池田一人に対して行う

1951年5月頃から、戸田の池田に対する始業前の講義の教材が、
御書から教養書に変わったようである。
池田へのインタビューを行った草柳大蔵は、
戸田から受けた個人教授の教材だと聞いた21冊の書名を挙げている。
そのうち、以下の6冊はこの時期に使われたのではないかと推測される。

尾高朝雄『法学概論』、国家学会『新憲法の研究』、林信雄『日本労働法』、

太田哲三『会計学』、高田保馬『社会学概論』、一柳寿一『地学概論』

そのほかに、和田小次郎『法学原論』が使われたと考えられる。

 

b.1952年5月からの大蔵商事の始業前講義に他の社員も同席して行う

戸田が会長に就任した翌年、大蔵商事に青年男子数人が採用される。
それまで池田一人に対して行ってきた始業前の講義に、
1952年5月8日から、彼らも参加することになった。
この講義で使われた主な教材は、以下の通り。

波多野鼎『経済学入門』、林信雄『法学概論』、
F・S・テーラー著/白井俊明他訳の『化学』『 地球と天体』『生命』、
小沢栄一他編『資料日本史』、矢田俊隆『世界史』、

中西清他編『改訂高等漢文』巻二、
鈴木安蔵『政治学』、「依義判文抄第三」

大蔵商事の元社員がまとめた記録などによれば、
始業前の講義(午前8時30分から9時まで)は、その後、戸田の健康上の理由で中断。
1957年9月頃、戸田は、再開したいと言っていたが、
実際に再開できたかどうかは明らかではない。
なお、同記録には、55年11月14日に始まった

「依義判文抄」以降の教材については記されてない。
 

c.1952年12月に男子青年部の代表で結成された水滸会

水滸会は、1951年7月の男子青年部結成後、
今後の創価学会を担う青年男子を育成するために52年12月に発足した。
途中から池田が実質的な幹事役になり、月1、2回開催された。
教材となった小説は、以下の通り。
そのほかに、時事問題などがテーマになることもあった。

佐藤春夫訳『新訳水滸伝』、アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』、
尾崎士郎『風霜』(後に『高杉晋作』と改題)、村松梢風『風と波と』、
ヴィクトル・ユゴー『九十三年』、

ダニエル・デフォー 『ロビンソン・クルーソー』、
ニコライ・ゴーゴリ『隊長ブーリバ』、ヘンリク・イプセン『人形の家』、
吉川英治『三国志』、吉川英治『新書太閤記』


水滸伝と三国志は、戸田が十代の頃から親しんできた長編小説。
中国を舞台に多くの人物が描かれている。

水滸会では、上記の教材をもとに人物論などについて意見を交わし、
その後戸田が講評を加えている。

なお、水滸会と並行して女子青年部の代表で華陽会が結成されている。
1952年10月に20名の女子青年部員で結成された同会は、
水滸会と同じく戸田が出席して月1、2 回開催。以下の小説が、教材になった。

 

チャールズ・ディケンズ『二都物語』、

ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムス・ケビン』、
マーク・トウェイン『トム・ソーヤの冒険』、尾崎士郎『風霜』、

ラファエル・サバチニ『スカラムーシュ』、夏目漱石『坊っちゃん』、

フランシス・ホジソン・バーネット『小公子』、ヘンリク・イプセン『人形の家』、
ニコライ・ゴーゴリ『隊長ブーリバ』、趙樹里『結婚登記』、趙樹里『家宝』、
トマス・ハーディ『テス』、吉川英治『三国志』、坂口安吾『信長』、
エドワード・ブルワー・リットン『ポンペイ最後の日』、

ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』

 

 

【戸田による日々の薫陶】

(1) 寸暇を惜しんでの薫陶

戸田は、時間を惜しんで、池田を育てようとした。
池田は、「先生にお供して移動する際も、飛行機の中でも、車の中でも、
あらゆるところが『戸田大学』の校舎になった」、
「私はよく先生とともに旅をした。飛行機の中でも、電車の中でも、

次々と質問が飛んできた。先生は、そうして私を鍛えてくださった」と述べている。
さらに、次のようにも語っている。

-----
車中、戸田先生は、お疲れでありながら、休みもせず、あらゆる角度から、

哲学の話、世界の指導者の話、牧口先生の話、そして、

これからの学会の前途に対する諸注意等々、

それこそ息つく暇もなく語ってくださった。

戸田先生と出会ってからは、それこそ、毎日のように、
「今日は何を読んだか」「何が書いてあったか」と聞かれ、

心も頭も鍛えていただきました。

恩師は、口癖のように言われていました。
「仏法を信じているからといって、独善的になってはならない。

あらゆる学問、あらゆる文学、あらゆる一流の思想家たちの持論・論調を

真摯に勉強することが大事である。それによって、さらに仏法も理解できる」と。

「大作、今日は何を読んだ」と、何度も何度も、いつもいつも聞かれた。
厳しかった。鋭かった。怖かった。

師をお護りし抜く、激しい戦いの渦中である。

もとより、読書に専念する時間はない。師とお会いする時は、何を読んだか、

そこから何を得たのかを答えることが、苦痛でさえあった。
-----

このような池田への薫陶は、戸田が逝去する前月の1958年3月まで続いた。
 

 

(2) 書物や歴史上の人物を通した語り合い

池田の随筆やスピーチには、戸田と書物を通して語り合った話がたびたび出てくる。
池田は、次のように語っている。

-----
教育者でもあった牧口先生、戸田先生は、『エミール』をはじめ、

ルソーの書を愛読されていた。
私も、戸田先生と、幾度となく『エミール』について語りあった。

昭和25年のことであったと思う。戸田先生と小岩のあるお宅を訪れた。
その帰路、小岩駅前でおすしを御馳走になり、

帰りの車中で『エミール』や文学について、種々、語りあった。

そして、目黒駅まで先生をお送りしたことを懐かしく思い起こす。

私が青春時代に読んだ本は、なぜかトルストイが多かった。
たまたま、戸田先生から「今日は、トルストイの何を読んでいるのか」と、
車中で聞かれた時は嬉しかった。
その時、お答えしたのがトルストイの『読書の輪』であった。
(中略)先生は笑顔で頷いてくださった。
-----

戸田と池田の間で話題になった主な書物や人物
(大蔵商事の始業前の講義と水滸会の教材および『永遠の都』を除く)

は以下の通り。

ルソー『エミール』、ラファエル・サバチニ『スカラムーシュ』、

ハイネ『ドイツ・冬物語』、ユゴー『レ・ミゼラブル』、ダンテ『神曲』、

ヒルティ『幸福論』、『十八史略』、『史記』、吉川英治『新・平家物語』、

吉川英治『黒田如水』のほか、エマーソン、シラー、ショーペンハウアー、
ソクラテス、ツバイク、ディケンズ、トルストイ、ヒルティ、ペスタロッチ、

モンテスキュー、ルソー、孫子、杜甫、山本周五郎、などの作品、

アインシュタイン、グルントヴィ、コル、タゴール、ダ・ビンチ、ナポレオン、

ネルー、ベルジャーエフ、ホイットマン、カーライル、ゲーテ、ディズレーリ、
プラトン、ベルグソン、ユゴー、周恩来、諸葛孔明、孫文、田中正造、北里柴三郎、高山樗牛、吉田松陰、高杉晋作の人物についてなど

戸田の池田への個人教授は、一方的な知識の伝達ではなく、

対話によって学び合う知恵の啓発であった。
池田は、次のように記している。

 

-----
恩師は
「君は若いのだから、学んだことを私に話せ。知っていることは何でも話しなさい」
と言われていた。

現代は情報戦である。
社会の情勢、新しい知識に鋭敏でなければ指導者として失格である、

とのお心であろう。

「話さない者は、敵だよ」とまで厳しく言われていた。

ゆえに私も必死であった。日々の新聞はもとより、
さまざまな分野の書物をむさぼるように読んでは、学んだこと、感じたことを、
そのつど、先生にお話したものである。
-----
 

1953年頃の池田について、曽根原敏夫が次のように記している。
当時池田は、男子青年部第一部隊長。
 

-----
当時、私は男子部班長として活動していました。
先生〔=池田〕が会合などで、毎回のように激励されていた内容は、
歴史、科学、小説、詩、哲学など、

社会全般にわたる書物から引用されたものでした。

昼は仕事に夜は活動に多忙を極めるなか、しかも男子部のメンバーに、
激励の和歌やメッセージを贈られるなかでのことです。

私は失礼と思いながら「部隊長はいつ勉強されるのですか?」

と質問したことがあります。その時、先生は
「私の話していることはすべて戸田先生から教えていただいたことだよ」

と話されました。

戸田先生から学んだことを、命に刻まれておられるから、原稿なしで話せるのだな、
と大変に感動したものです。
-----

 

(3) 戸田と池田の〝詩心〟の交流

戸田と池田の間は、詩歌・漢詩などを話題にした語らいがあった。
二人は、感謝や決意を詩歌に託して交換している。

信用組合が業務停止となり、
「お金もない、人もいない、まったく、どん底」にあった戸田が、
ふとそばにあった一輪の花を取り、
まるで〝勲章〟のように池田の胸元に挿したことがあったという。
これらは、二人に〝詩心〟がなければ生まれないエピソードである。

戸田は和歌を詠み、会員に励ましの言葉を贈っていた。
それは、叙景や抒情といった文学作品ではない。
池田は、次のように記している。

-----
思えば恩師も、折りにふれて和歌や句を詠まれ、門下に贈られた。
よくペンを執られたまま詩想をめぐらされた。
書き上がるとメガネをはずされ、
紙片に顔をすりつけるようにして推敲しておられたものである。

数学の天才であっても、文学的な技巧という面からいえば、
必ずしもプロの素養を身につけられていたわけではない。
だが、詩とは「境涯」である。
恩師の言々句々には、贈られた者の胸いっぱいに広がる愛情があった。
その人を奮い立たせずにはおかない、強い強い励ましの心の鼓動があった。
-----

池田もまた、折に触れて、会員への励ましを詩歌に託している。
彼は、戸田と出会う前から詩を作っていたが、励ましを詩歌に託すことは、
戸田の振る舞いから学んでいる。

 

(4) 御書講義担当者会・教学部員対象の研究会

戸田は、創価学会の地区などで月2回の御書講義を担当する幹部に対して、
事前の勉強会を持っていた。

また、教学部員対象の研究会では、担当を決めて発表させたり、
戸田から矢継ぎ早に質問したりすることもあった。

池田は、地区講義担当者の勉強会とともに、教学部員の研究会に出席している。
池田は、次のように記している。

-----
地区講義を担当することになった講師には、私も含めて青年が多かった。
現場第一である。実践第一である。
これが、稀有の師であられる戸田先生の、弟子たちに対する訓練であった。
それだけに、先生がしてくださる、担当者への事前の講義は峻厳であった。
-----

また池田は、「百六箇抄」について、戸田から一対一の講義を受けている。

 

-----
〔教学部員の代表に〕百六箇抄とか、御義口伝とか、観心本尊抄とか、
そういう課題を先生がお決めくださって勉強させたのです。
その時の私の課題が百六箇抄であって、先生のもとへ夕方に会社を終わってから、
いつも勉強に行っておった。
「百六箇抄」の講義を受けた時期もあった。
ある日、先生は、横になってお休みであったにもかかわらず、

「よし、やろう!」と言われて、快く教えてくださったこともある。
しかし、私に少しでも真剣さが欠けた時には、先生は言下に叱咤された。
「やめた! 私は機械じゃないんだ」
-----
 

なお、上記以外に、戸田が出席した研究会には、以下のものがあった。

東京大学法華経研究会(1953年4月18日から)
教育者懇談会(1953年6月23日から)

 

(5) 創価学会の組織のなかで受けた薫陶

池田が戸田から受けた薫陶は、書物を通してだけではなかった。
池田には、創価学会のいくつかの役職を兼務させ、その中で厳しく訓練している。

創価学会が新しい展開をするための対応や、
極めて困難な局面にあえて立たせたりしながら、池田を育てていった。

代表的なものとして、
前者では、参謀室長や渉外部長、
後者では、参議院議員選挙大阪地方区の責任者に任じたことが挙げられる。
 

 

【民衆救済の〝大志〟】

戸田は、「生き方とは、志のことだよ。人生の深さは、志の深さで決まる」

と語っている。

彼が1945年7月に出獄する前年の11月、師である牧口常三郎が獄死した。
同じ頃戸田は、獄中での思索の中で、

法華経に出てくる地涌の菩薩としての自覚に立つ。
さらにその後も思索を重ね、日蓮仏法による民衆救済を自らの使命とした。
それを端的に表しているのが、

創価学会第二代会長就任式(1951年5月3日)における、
戸田の次の発言である。

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私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする。
もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、
私の葬式は出してくださるな。
遺骸は品川の沖に投げ捨てていただきたい。
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日蓮仏法による民衆救済の志は、戸田の師である牧口から継承したものであった。
太平洋戦争の最中の1943年6月27日、牧口は、所属する日蓮正宗の管長から、
軍人主導の政府の宗教政策に創価教育学会も迎合するよう求められた。

彼は、それを拒絶しただけでなく、
たとえ日蓮正宗が弾圧されて滅びるようなことになったとしても、
誤った宗教政策を改めるよう政府に諫言すべきであると管長に進言している。
つまり、牧口は、宗教団体の存続よりも、大事なことがあると考えていたのである。
それは、民衆を不幸のどん底に突き落としてはならないということであった。

そして、進言からわずか9日後の7月6日、

牧口と戸田は特高警察によって検挙されている。
その後牧口は、1944年11月に東京拘置所で獄死。
戸田は、同拘置所で2年間の獄中生活を送ることになる。

戸田城聖、さらには、後継者となった池田大作を理解していく上で、
戸田の心中にあったこの〝大志〟を理解することが、

きわめて大事であると思われる。

池田は、1956年7月に21世紀を展望して戸田と語り合ったことを、

次のように記している。

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その時、〔戸田〕先生は、
「大作の後半生の時代には、創価学会は、

人類の平和と文化の不可欠な中核体となるだろう」と、
未来を予見されるように語られた。さらに先生は言われた。

「創価学会は、間違いなく、宗教界の王者になるにちがいない。
そのことによって、社会のあらゆる分野に、政治や経済や教育や文化の世界に、
真に優れた人物を送り出すことができる。それが使命なのだ。
それらの人たち、一人一人の偉大な人間革命が、
新しい世紀における人類社会に偉大な貢献をすることになる」

これが、戸田先生が思い描いた21世紀の創価学会像であった。
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また戸田は、亡くなる約二週間前に、次のように池田へ語ったという。

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メキシコへ行った夢を見たよ。待っていた、みんな待っていたよ。
日蓮大聖人の仏法を求めてな……。君の本当の舞台は世界だよ。
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創価教育 第15号 「池田大作が〝戸田大学〟で学んだこと」塩原將行
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