教えようとする人間の精神限界を超えることが生きるということなのだ!

 

人類の歴史がそれを物語っている。科学でも思想でも、
二千年前の教師が現代の人間の世界をつくっているのではない。

人間の世界は、生命の世界は、
もともと前時代の限界を超えていこうとするものなのだ。


1ヵ月ほど前から、より強度の強いコーチのレッスンに変えようかと、
もう一つ通っているテニススクールの別のコーチのレッスンを受けたりしてみた。

自分がいま強化しようと取り組んでいる、
フォアハンドフラットスピンやバックハンドスライスやサービスに、
コーチが驚きの声をあげることで、その正しさを再認識することができた。

と同時に、様々な弱点も明確になった。

それで、この4、5年受けていたコーチのレッスンを辞めて、
別のコーチのレッスンに切替ることにした。

 

ただし、より強度の強いレッスンではなく、

大学テニス部のアルバイトコーチのレッスンで、

試合に出ている現役から学び自分のプレイをつくり上げることにした。

 

学び前へ進むことを放棄した人間から得られるものはない。

この2ヶ月半ほど苦しんでいたテニスエルボーがかなり良くなってきたので、
きょう、久しぶりに元のコーチのレッスンを受けてみた。

人間の認知の限界を知った。
このコーチの元では、また無駄な時間を浪費するだけだと。

テニスに限らない。
人にものを教える人間というものは、それで何十年も生活しているのだから、
教えられる側より、ある領域で勝れているのは当然だ。

彼らは、その領域で優位にあるから、自在の天界にいる。
そこから前へ進む必要のなくなった人間ほどやっかいなものはない。

そこに重大な落とし穴がある。
教えられる側がそれに気がつかないと、大変な損失を被ることになってしまう。

企業が従業員を選ぶのではなく、
教師が生徒を選ぶのではなく、それを逆に出来なければいけない。
なぜなら、人間が企業を成り立たせ、企業の限界を超えていくのであり、
生徒が教師を成り立たせ、教師の能力限界を超えていくのだから。

 

 

三界という言葉がある。

仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。
そこから前へ進む必要のなくなった人間が住む世界のことだ。

欲界[よっかい]・色界[しきかい]・無色界[むしきかい]からなる。

欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。
色界とは、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。
無色界とは、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。

ある意味では、これが釈迦仏教、部派仏教の限界ともいえる。

釈尊が志向したものとは異質のものになってしまっていった。


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釈尊の思想は、社会的な身分や地位などにかかわらず、
誰もがその行いによって自身の境涯が定まるとするものである。

これは、各人が自らの運命を決定する能力を持つという主張でもある。
また、自身の幸不幸は、
自己を離れた絶対的・超越的な存在に支配されるものでもなければ、
偶然によるものでもないという宣言である。

これは、一個の人間に無限の可能性を認める人間尊厳の思想である。

・・・


釈尊が亡くなられた後、その教えは、経・律として、弟子たちによって、
数次にわたって整理、編集された(仏典結集)と伝えられる。

その内容は口伝によって伝承され、紀元前1世紀頃から文字化された。

紀元前3世紀頃、仏教教団は上座部と大衆部に分裂し、
それ以後、いくつもの部派にわかれていったとされる。

各部派は経・律を伝承するとともに、釈尊が説かれた教えを
体系化・理論化したものを論として発展させていった。

このような仏教の展開の中で、開祖である釈尊は極めて尊崇され、
超人的な存在と見なされるようになった。

各部派ではおおむね、超人的な仏の境地と、
出家修行者が現実的に到達できる境地を区別し、
後者を「阿羅漢果(修行を完成した聖者の境地)」と呼び、
修行に励んで阿羅漢果を得て、
涅槃(生死輪廻の苦しみを免れた状態)に入ることを目指すようになった。

一方、在家者は、出家者に対して布施をするという善行を行い、
在家の戒を守ることによって、死後、
神々の世界(天界)に生まれ変わるとされた。

創価学会教学要綱 池田大作先生 監修
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これでは、当時すでにあった神の宗教と本質的に変わりない。
釈尊が志向した本来の思想は何だったのか。

 


三界・六道を超える世界がないわけではない。

原点回帰、それが大乗仏教の出発点だ。
声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。
学び、求め、救い、世界を変えようとする人間が住む世界。

 

精神空間をある特定の人間のものに同化させ、魂を売ってしまえば、
人生はその人間の精神限界に閉じ込められてしまう。

認知が人間の全体だ。
それが人間の世界であり、人間は先へ進まなければならない。
 

一人一人の目の前の現実は同じではない。

100人いれば100通りの宿命がある。
100人いれば100通りの生き方がある。

一人の宿命への立ち向かい方は、全宇宙、全生命と影響し合い、
新たな関係性としての変化を生み出し、世界は動いていく。
生命はそれ自体が作者であり作品である。


その視点を持つ思想でなければ歴史の審判に耐えられない。

 

 

人類はいつまで、2千年前の神話に人類の存続を委ねるのか。

彼の人は、トインビー博士との対談で”神の文明”と対決をしている。


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(トインビー)
″変化″ないし″新奇性″(ノヴェルティ)が生じることに関しては、
次の二つの説明のうちいずれかが考えられます。

一つは、これらが生じるのは″創造″(クリエーション)
――以前存在しなかった事物が存在せしめられる、
ないしは存在するようになること――によるのではないかというものです。

これに代わる二つ目の説明は、″新奇性″が生じるのは″発現″(エボリューション)
によってではないかというものです。
――ここでいうエボリューションとは、文字通りの、
元来包みに入っていたあるものが解き開かれるという意味での″展開″、
すなわち″発現″のことです。

この″発現″という説明によると、
変化が現れるのはすべて実際には錯覚にすぎなくなってしまいます。
なぜなら、現在存在するものも、これから存在しようとしているものも、
すべて初めから存在していたことになってしまうからです。
すべての出来事は、もともと潜在していた実在の要素が
徐々に顕在化したのだろうということになってしまうわけです。

 

 

(池田)
ただいまの博士の″創造″と″発現″という分類に従えば、
私は、生命に関しては″発現″という見方が正しいと思います。
生命はそれ自体作者であり作品である、というふうに表現できると思うのです。

生命は、この地球上に誕生してから現在に至るまで、
自己を顕現し、個別化していく方向をずっと保ち続けてきています。
しかし、その個別化した生命に能動性を与えている生命エネルギー

ともいうべき力は、すでに無生の地球それ自体に内在していたはずです。


(トインビー)
では、生命は創造によるというより、発現によって生じたとされるわけですね。
私としては、創造によるというほうが真実だと信じています。


(池田)
そうでしょうか。その創造という考え方に関連して、
たとえば最近、科学の分野で成功を収めた生命の人工合成についていえば、
私は、この生命の合成は、生命を創造することではなく、
生命を発現させるための人工的条件をつくることであると思うのです。

すなわち、ここでいえることは、生命の創造は不可能であるということです。
人間にできることは、せいぜい物質の内部にもともと存在していた
生命エネルギーを引き出すことであると思います。
もちろん、ここでいうエネルギーとは、

物理的な意味でのそれではありませんが――。

 

 

(トインビー)
私は、科学者たちが無機物から有機体への物質的組成変化を追求し、
さらに人為的な考案により、

この組成変化を繰り返させることまで可能にしたことを、
決して否定するものではありません。

たしかに有機体は、人間生命を形成している意識と意思をもった、
不可分の心身相関的統一体の一側面をなすものです。

しかし、このように物質の組成上の進展を追求し、繰り返させたとしても、
それは無生物と生物との相違を説明することにはなりません。
ましてや、意識をもたない生物と、

意識ある生物との相違を説明することにはなりません。

物質が有機的に配列されていることは、

生命の存在を可能にする不可欠の条件かもしれませんが、
しかし、それがただちに生命そのものになるわけではありません。
生命物質は、意識を存在せしめる不可欠の条件ではあるかもしれませんが、
しかし、意識それ自体とはなりません。

私は、生命も意識も、

ともにまったくの″ノヴェルテイ″(新奇性)であると思っています。
そしてまた、このまったくの新奇性ということは、
論理的にいって人間の理解できるものではないとも思うのです。

これは、原初から潜在していたあるものが発現することとは、対照をなすものです。
これがなぜ人間に理解できないかというと、それはきっと、
人間の思考が空間や時間を基準とする考え方に限定されているからなのでしょう。

空間や時間はあくまで現象上のものにすぎず、
″実在それ自体″の不可知性に対すれば、本質的なものではないのでしょう。

 

 

(池田)
おっしゃる点については、よくわかります。
しかし、私は、そのまったくの新奇性が論理的に理解できないからといって、
それに惑わされる必要はないと思うのです。

次のように考えるとすれば、いかがでしょうか。
宇宙を有無という二つの概念のみでとらえようとすれば、
そこにおける生命の発生は、無から有を生じたといわざるをえません。

仏法では、生命は、有無の概念を超えた、
いわば有への可能性を秘めた無の状態で――これを″空″といいます――
それを宇宙に内包されている実在として把握しています。

この″空″というのは、時間と空間の次元で論じられるものではなく、
博士のいわれるように一つの神秘でもあります。
この″空″という概念を理解したとき、
生命という実在の性質も理解しやすくなるのではないかと思います。

つまり、地球を含む宇宙それ自体が、本来、生命的存在であり、
″空″の状態にある生命を含んでいます。
それが″有″として顕在化する条件が整ったとき、
宇宙のどこにでも、生命体として発生する可能性があるということです。

現代科学においても、

地球以外にも生物の存在する天体が数多くあることを予想しており、
その実証の端緒も見受けられます。

このことからも、
私は、宇宙自体が生命を誕生させる力を内包した″生命の海″であると考えています。
物質の有機的構造は、本来″空″である生命が″有″として顕在化して生を営むための、
物質的基礎条件であるといえます。
そして、この生命体が意識活動を行うためには、
いっそう複雑で精巧な物質構造を必要とするわけです。

・・・・・

 

(トインビー)
思うに、われわれの住む宇宙の本質というものを理解するには、
われわれ人間の知力はあまりにも限られています。

われわれがもっている証明可能な知識からは、
人生を生き切るに必要なだけの、情報や指針が得られないのです。

われわれが人生において直面する最も重要ないくつかの疑問は、
手もちの情報をいかに合理的に活用したところで、
解答が得られるものではありません。

したがって、われわれとしては、どうしても、
検証しえない仮説に基づいて行動せざるをえないのです。


(池田)
たしかに、人間の知的能力には限界があり、その範囲を超えた
宇宙の究極にあるものや、人間の生命の本質に関する定義は、
すべて”仮説”にならざるをえないと思います。

私は、この”仮説”に関して、科学上のそれと宗教上のそれとは、
区別して考えなければならないと考えます。

つまり、科学上の”仮説”は、理論的・実験的にその真偽が確認
されうるものであり、また確認されなければなりません。

これに対して、宗教上の”仮説”は、人生の納得できない現象を
それがどう説明するか、またそれに基づく判断なり行動が
いかなる有効性をもつかによって、評価されるべきです。

いいかえれば、
科学上の”仮説”について問われるのが真偽であるのに対し、
宗教上の”仮説について問われるのは、
人間的資質の向上のためにもちうる価値であるということです。

・・・・・
 

「二十一世紀への対話」    対談 池田大作 A・トインビー
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