過去に6冊ほど読ませてもらっている角田光代さんの最新作(2024年2月出版)になります。図書館でだいぶ待ちました。

 

この最新作。やや「怖い物見たさ」的な感じで読み始めました。映画化された「紙の月」の主人公の最後の狂気的な部分とか、「八日目の蝉」で永作さんが演じた誘拐犯とか、「女性って怖いなぁ~」という印象が強く残っていたからです。(あくまで角田さんの本の中でのお話ですよ)

 

 

 

 

  あらすじは

 

 

主人公は2人です。最初に登場させているのが、1967年生まれと思われる飛馬君。私より-12歳だなぁ~とイメージしました。ちょうど私と長男の間位ですね。彼は、鳥取県に生まれるのですが、幼くして母親を亡くしています。この母親が亡くなった原因の一つが自分に有るのではないか?と思っているのですが、ずっと長い間それを口にすることはありませんでした。

 

そして、もう1人の主人公が不二子さん。彼女は1950年代生まれってことになっていて、ほぼ同世代だと思われます。戦時中に教職にあった母親は、教え子を戦場や軍需工場に積極的に送り出します。そして、終戦。価値観がまるっきり変わってしまい、罪悪感に打ちひしがれます。子育てにも自信が持てず、放棄された状態で育ったのが、不二子さんになります。

 

新潮社の解説や本の帯にもそれほど詳しい事は書いてないです。読んでのお楽しみという部分が多いし、ちょっと簡単に解説できるような本でもなさそうです。角田さんが伝えたいことは一つなのかも知れないし、いくつかあるのかも知れないなぁ~とも思えて、かなり不安になります。

 

以後はネタバレになります。ご了解ください。

 

 

 

  様々な固定的な観念(考え方)を登場させます

 

 

当初は彼らの幼少の時期から描かれます。ずいぶんとゆっくりな印象。

飛馬君の親父は、なにかにつけ祖父が自慢です。地震を予兆して、住民を助けたというのです。記念碑もあると言います。飛馬を叱る時には必ず祖父が登場して、祖父に恥ずかしくないように、と言います。

 

しかし、飛馬君が幼少の頃はそれを信じていたのですが、ある日母親から「あれは嘘」と告げられます。地震の予知など、現代の科学でもとうてい無理です。しかし、父親はそれを頑なに信じていたのです。

 

そして、その母が入院先で亡くなります。ずいぶんと年月が経った後に、親父から「あれは自殺だった」と告げられます。実は飛馬君はお見舞いの時に、小耳に挟んだ末期癌患者の話を自分の母親だと勘違いして、母親の前で泣いてしまっていたのです。彼は、あの時の涙が母親が「私は末期癌」と信じてしまった原因だとずっと信じたまま成長して、おっさんと呼ばれる年齢になるまで、誰にも打ち明けられません。

 

不二子の母親も軍国主義の時代では当たり前だったのでしょうが、教え子を戦場や軍需工場に送り出します。終戦後、後悔してまるで抜け殻のような生活を送ります。多くの人が、軍国主義から民主主義に、スイッチが切り替わったように生きてきたのですが、そうは出来なかった不器用な母親。

 

そして、その子の不二子も、子育てに迷うなかで「マクロビオティック」なる考え方に出会います。(出会ってしまう)白米や白砂糖などの精製された食品を避け、自然農法で育てらえた野菜を中心とした食事が、健全な精神を育てるという考え方(かなり単純化しています)です。ある意味、現在にも続く考え方なのでしょうが、家族にこれを強要しますが、まず旦那が拒否。そして、娘も強く拒否します。息子は受け入れてくれますが、結婚後やはり拒否されてしまいます。

 

でも、彼女はこの考え方や食事を捨てられません。簡単に従来からの考え方を変えられる人や事柄があるのに、ずっとずっと引きづってしまう人や事柄もあるのです。

 

 

 

  コロナでより鮮明になる

 

 

こうした固定的な観念から抜け出せないことが顕著になるのが、終盤に登場してくる「コロナ」だと思います。逆に、この「コロナ」の頃の理不尽や、収束した今だから分かるあの時の不安を描いているように思います。

 

終盤までほとんど交わりのない2人ですが、「子ども食堂」で出会うことになります。飛馬は最初は職員として参加しますが、その場に生き甲斐を感じます。また、不二子も子ども食堂で、野菜を中心とした献立のスタッフとして自分の存在価値を認めてくれる場所を見つけます。しかし、「子ども食堂」がコロナで存続の危機に陥ってしまいます。

 

私は長らくクリーニング屋の親父でした。業界の需要は年々右肩下がり(残念ながら)でしたが、縮小しながらも継続できると考えていました。ところが、コロナで一転しました。主力のワイシャツを中心とした需要が激減。これが何時まで続くのか?誰もこれからどうなるか?が分からない時期が続きました。ものすごく不安でした。この頃の事が思い出されます。作家さんとしても「これを作品に残したい」と思われた事象だったのではないかと思います。

 

そして、人とのコミュニケーションがおかしくなって来たのも「コロナ」から顕著になったと言えます。

 

コロナ対策で忙しく働いている飛馬が

人と話すことが減ったぶん、業務以外のほとんどの時間を飛馬はSNSを見て過ごすようになった。

今までの自分の考えでは及びつかない事態を目の当たりにして不二子が

私の信じてきたことはなんだったの。私の信じていることはなんなの。

 

 

  台風のシーンで分かりやすく

 

コロナの頃のお話だと「あれは特別な時期」とも言えます。なので作者は、この後に関東を襲う大型台風を登場させています。台風なら毎年のように来襲しますから、こっちの方が頭に描きやすいです。

 

飛馬が不二子に避難を呼びかけて自宅まで出向きます。しかし、なかなか同意してくれません。

 

わざわざ家に押しかけてきて、連れ出そうとする。これは何か裏があるのではないか。

 

なんとか説得しようとする飛馬に

 

私だって信じることをやめることができないの。よい食べ物が幸福を作るのだと、女が家庭を世界を幸福に導くのだと。それが間違った考えだったとはどうしても思えないの。子供たちが離れていっても、娘がおかしなデマを信じていても、いいえ、わたし自身が幸福に導かれなかったというのに、自分が間違っていたとはどうしても思えないの。だから後悔すらできないの。

 

 

 

  伝える手段も

 

人と人とのコミュニケーションも描かれます。飛馬は、子供の頃に病院の食堂で偶然聞いた会話を信じてしまいます。小学生の頃には「文通」をします。雑誌に書かれた文通希望者に手紙を書くと、返事が来ます。自分の知らない世界が拡がるし、それが喜びであることを知ります。その後、アマチュア無線でも知らない相手との交信を通じてのコミュニケーションが出来ることを知ります。

 

そして、昨今問題のSNSですね。飛馬は、最初は消極的だったのですが、子供食堂の発信に「いいね」が付くと、不特定多数に認められたようで大きな喜びを感じます。そして、コロナの時の発信が炎上してしまいます。

 

かっては新聞の社説は重みが有りました。しかし、新聞購読数が減ってしまい、紙面には怪しげな健康食品の全面広告が多くなりました。SNSは速報性が高いし、自分の検索履歴などからAIが判断してどんどんと同じような情報が流れてきます。自分の検索履歴=自分の考え、とするなら自分に心地よい都合の良さそうな情報が流れてくるので、信じやすくなりますね。

 

終盤に不二子が独白します。

 

私たちのだれだってそうだ。何が正しくてなにが間違っているのか、ぜったいに分からない。今、起きているできごとの意味が分からない今日を恐怖でおかしくならず、ただ生きるために、信じたい現実を信じる。信じたい真実を作ることすらする。

 

これが作者さんの言いたかった事をセリフにしたのか、と思いました。SNSの怖いのは、検索履歴とかであたかも自分が信じたい事はこれでしょう、と次々と提示してくることでしょう。

 

 

  題名「方舟を燃やす」の意味は

 

 

やっぱり「方舟」と言えばキリスト教の「ノアの方舟」を想像します。幼少の頃の絵本だったかの記憶ですが、神様からのお告げで、ノアに大きな船を作るようにお告げがあり、彼はすごく巨大な船を作り、そこに万の単位の動物などを収納します。(人間も数名)

そして、大嵐が来て、神を信じないものは全て水没し、息絶えてしまいます。水が引いた後に方舟から出た動物や人間が新しい社会を作った、と言うような話だと理解してました。

 

しかし、ちょっと調べるともう少し深い意味もあるようです。方舟以前は人類は繁栄を極めて世の中が荒れてしまいます。それをお怒りになった神様がノアに方舟をつくるようにお告げを出されたらしいです。

 

そして、

今の世の中にも多くの罪や悪がありますが、その中で神(キリスト)を信じる者は救われます。

逆に、神(キリスト)を信じずに罪や悪に身をまかせるなら、ノアの方舟のお話のようにやがて滅ぼされてしまうのです。

拝借しました→

 

日本人の多くがそうであるように私は「八百万神(やおよろずのかみ)」を信じているようです。朝の日の出を神々しく思いますし、何百年も続いている様々な寺社仏閣には畏敬の念を持ちます。しかし、仏教の信者かと言われると、今のところ冠婚葬祭ではお世話になりますが、それ以外ではトンとご縁が有りませんし、今後は離れたいとも思っています。おそらくこれが標準的な日本人でしょう。

 

しかし、キリスト教の信者さんは、この標準的日本人よりは信心が強いように思います。ここでは、キリスト教が悪いとか「×」とかではなく、より頑強な考え方の代表として登場させて、それを「燃やす」という題名を付けられたのではないか?と考えました。「燃やす」は自ら火をつけて消滅させてしまう、というような意味を持たされているのでしょう。

 

 

  登場する「猫」の意味は

 

終盤に「猫」も登場します。角田さんは大の猫好きでも有名です。猫が主役のエッセイ本を手にした記憶があります。

 

台風の時に園花(虐待を受けている幼児)といっしょに猫屋敷を見に行きますが、猫はいませんでした。台風が通過してから見に行ったのですが、やっぱり見つけることは無かったのです。

 

最後の方なのですが、

 

ちいさく猫の鳴く声が聞こえた気がして、振り向くと蛍光灯の下に照らされた廊下が奥の闇に吸い込まれるように続いている。猫はいない。

 

角田さんが、猫を守ってやるべき存在だけど、彼らは自立していて、人間が守ってやれなくても、ちゃんと生き延びた象徴みたいに書かれたのでは?