今年も初詣ライドなどで京都まで自転車でライドすることがありました。帰り道に見えるのが、この「インクライン」と呼ばれる琵琶湖疎水を使った船による物流の遺構ですね。今は使われていませんが、多くの人が写真を撮ったりされています。

 

これを横目で見ながら大津方向に走るのですが、一度これに関する本を読んでみたいなぁ~と思っていました。図書館で検索するとこの「京都インクライン物語」に出会いました。滋賀の地元のお話でもあるので、複数蔵書していました。

 

これは琵琶湖の水面と京都市内を流れる河川で高低差があるので、それを解消するのに、ケーブルカーの様にレールを使って登らせたものです。(現在のは復元されたもの)

 

しかし、実際には、このインクラインの装置より、琵琶湖から京都に抜けるトンネル工事等々がものすごい国家的な大事業だったのです。

 

 

 

  国家的大事業

 

なぜ、これが作られたか?と言うと、明治維新で都が京都から東京に移りました。それまで、京都は都がある、天皇が居る、という事での産業で支えられていた部分があって、これらが東京に移ることで、人口も減少して空き家が目立つようになったと言います。

 

維新の立役者の連中(長州や薩摩)は、維新後のインフラ整備に注力したようです。その一つに維新の時に幕府側について多大な損害を被った会津の地で猪苗代湖からトンネルを掘って灌漑用水を整備して耕作面積を増大させています。職を失った武士の就労対策の一つでもあったのでしょう。

京都インクラインの目的は、都の移転で衰退した京都経済の回復だけでなく、ずっと飲料水に不安のある京都市に飲料水を供給する事や、北陸から琵琶湖を経由しての物流の改善、そして水力を使っての産業促進にありました。

 

飲料水は京都では夏場では井戸が枯れてしまう時期があったと言います。現在の京都の水道水はほぼこの琵琶湖疎水(後にもう一本掘っています)に依存しているらしいです。

そして、物流は琵琶湖から大阪に米などを運ぼうとすると、大津から山科の峠と山科から京都の峠の二つを超す必要があって、人力や牛や馬を使った荷馬車が主流だったそうです。(石畳で舗装したと言います)しかし、積み替えの手間やその苦労から運輸コストが増加します。量も沢山は運べません。これの改善を狙ったのです。この運河としての物流は昭和2年がピークでその後昭和23年まで使われていたのです。

 

そして、水力利用です。最初は水車を使っての精米など水力を直接使う動力として計画されていますが、途中で水力発電をするように計画変更させています。当時では世界でも珍しい先進の計画だったようです。この電力で京都市内に市電が走り、動力モーターを使った工場が誘致されます。

 

 

  費用がすごいのです。

 

当時の国家予算が7,000万円の時代に総工費125万円を使っています。約1.7%に相当します。貨幣価値が分かりにくいので、最近の予算と比較してみました。昨年の日本の国家予算が114兆3812億円なので、単純に1.7%を乗じたら、約2兆円のプロジェクトになります。来年度の公共事業関係費が総額で6兆円を超す程度です。複数年度に渡る工事ではありますが、ものすごい規模の投資だったことが分かります。

 

なので、議論は伯仲しています。そもそも必要かどうか?話が進展してくると、滋賀も大阪もチャチャ入れてくるのです。そして、なにより「本当に出来るのか?」当時の日本ではこれだけの工事の経験が無かった時代なのです。途中で頓挫したら、それまでつぎ込んだお金はどうなる?という議論も当然出てきますね。(頓挫した事業も有ったのです)

 

そして、この工事なんと国家事業ではなく、地元の京都が主導で行っています。いくらか国からのお金も出ているのですが、この事業の目的税として新たな課税が京都市民に課してまで費用を捻出しています。なので、京都市民(当時はまだ京都市では無かったのですが)の反対、賛成の声も切実だったでしょうね。

 

 

  薩長と旧幕臣のせめぎ合い

 

琵琶湖疎水は着工が明治18年、完成が明治23年になります。しかし、相当前から調査して設計する仕事が有ります。また、この工事にかかる費用とどうする?という大きな問題をクリアーする必要がありますね。

 

明治の大きなインフラの多くは、お雇いの外国人技術者に依存していました。滋賀にもオランダ堰堤と呼ばれる砂防ダムがあったりします。しかし、この事業の設計や工事はすべて日本人の手によって行われています。

 

設計と実際に工事をしたのは、設計に取り掛かった時には若干21歳だった田辺朔郎(たなべ さくろう)氏。後の東京工業大学になる学校を卒業したばかりだったと言います。後に母校の教授に就任されます。

 

彼は、幕臣の子です。明治維新で禄を失いますし、父親も早くに亡くしています。彼がこれからの明治の世で「学問」を身に付けて生きて行こうと考えるのは道理だったのでしょう。幸いにも、秀才。そして不断の努力家。

 

それと、当時の京都知事の北垣国道(きたがき くにみち、)は兵庫の生まれですが、長州の奇兵隊に参加していた経歴をもっていて、それが後の出世にもつながっているのでしょう。彼は、すごく熱心に、そして粘り強く琵琶湖疎水事業に取り組みます。この長州派は、産業振興的な考えが強いようです。

 

対するのが明治政府の薩摩派閥でして、これは農業振興を考えるようです。まぁ、相手が右と言えば、私は左の争いだったのかもしれません。農業振興ならトンネルの大きさが違ってくるのでしょう。

 

 

  切った張ったではない大ドラマ

 

明治維新は日本国をどういう方向に進めるか?誰が統治するか?の争いでした。多くの血が流れました。その中には志半ばにして明治の世を見ないまま逝ってしまった人達も多くいて、それぞれにドラマが有ったでしょう。

 

そして、その後に日本をどう発展させていくか?を真剣に考えて取り組んだ人達のドラマも沢山有ったのです。

 

このお話に登場してくる人達は、すごく人情味もあるのです。誰もが自分の思う所の意見を言い、議論してそして前に進めていきます。

 

トンネル掘削の様子も読みながら「がんばれ」と応援したくなるほどでした。残念ながら落盤事故も起こります。この事故では犠牲者が出ないのですが、救出したのに3名足らなくて騒ぎになるのです。彼らはなんと大津の長良周辺にあった遊郭で遊んでいたと言います。九死に一生を得たので、思わず遊びに行ったのでしょうか。大津に「この辺が遊郭だったのか~」と思える建物が有りますね。このトンネル事業の時には繁盛したそうです。男ってやつはそうなんだぁ~。