5月の15日~18日にかけて、尾道→しまなき海道→今治→とびしま海道→呉→さざなみ海道→三原と自転車のペダルをこぎました。しまなみ海道は見どころ満載です。滋賀を朝に出ても、尾道はお昼前になります。しまなみ海道は2日間でと考えていたので、一泊目は因島(尾道→向島→因島と2つ目の島)くらいかな?程度に思って、検索すると、白滝山荘がヒット。因島は宿泊するところもそれほどないみたいでして、ここに決定。

白滝山荘のHPを見ると、なんと古いヴォーリス建築なんです。ヴォーリスさんは最初、今の八幡商業高校の英語教師として赴任。それから建築やお薬など多彩な才能を使って近代日本に貢献された人物です。私は奥様の一柳満喜子さんと朝ドラの主人公にしてくれないかなぁ~と思っています。波乱万丈な人生ですが、キリスト教に根差した博愛な生き方。今残されている建物を見させてもらっても、永く永く使えるように、使う(住む)人が幸せになるようなお考えが想像できます。

 

白滝山荘のHPから拝借させてもらうと、

1931年(昭和6年)、日本に数多くの西洋建築を残したアメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏により、アメリカ人宣教師ファーナム氏一家のために建てられたバプテストミッションハウス「ファーナム邸」。

当時この家は人々の集いの場でしたが、戦争のためファーナム一家は去り、時を経るにつれ館は荒れ、灯は消えてしまいました。

しかし、1987年に『いんのしまペンション白滝山荘』として再生し、再び灯りをともし、みなさんの集いの場としてご利用いただいております。

現在、洋館は「広島県近代化遺産」と「文化庁登録有形文化財」の指定を受けております。

 

長くなりました。実際に宿泊した時の画像を紹介します。

道路から見える看板はこれです。煉瓦の道が作ってあります。

青葉の時期ですので、建物がしっかりは見えなくて残念。

 

白滝山荘のHPにはドローンを使った画像などもあるので、ぜひそっちをご覧ください。

 

入り口ドアのショット。傾斜地に建設されているので、入り口が高くなっています。

ここでも煉瓦が多用されているのが分かります。

間違いかもしれませんが、私の生まれた滋賀県守山市の駅の裏側には煉瓦の会社がありまして、近くに田んぼの土を焼いて、駅から出荷してました。小学校に写生会に舞台でした。市内(当時は町内)には、この建物と同じような煉瓦を使った塀がいくつか残っています。なにか関係あるだろうかぁ~とか想像します。

 

右が入り口、手前が食堂や談話室としてお使いの部屋になります。右奥にはトイレとお風呂に通じるドアがあります。ちょっと迷路っぽい感じ。漆喰の白い壁や木の床、懐かしい雰囲気が満ちていて、学生時代ならここで何日も停滞して本棚の本をずっと読み続けたいなぁ~の気持ちになったでしょうね。

 

食堂の暖炉。さすがに暖炉としてはお使いになってないですが、暖炉はヴォーリス建築では定番ですよね。家族がこの部屋に集まって・・・というシーンが想像出来て、こういうのをヴォーリスさんが大切にされていたんだろうなぁ~。

暖炉の向かい側には出窓があって、そこにはベンチ。これも他のヴォーリス建築でも見られますよね。

窓は、雪見障子みたいに、下から上に上げるタイプ。宿泊した部屋はサッシになってましたが、これは当時のそのままだろうとお見受けしました。雰囲気です。

作り付けの食器棚。これもおそらく当時のままの姿だと思います。角の所の傷の数々が実際に使われてきた年月を感じさせます。

 

古い建物ですから、最新のビジネスホテルに比べると設備としては見劣りしますが、それの何倍もこの古い建物を楽しむ事が出来ます。

私が宿泊した部屋は二階でした。部屋は広いです。空調は最新でしたが、トイレは廊下に出る必要があります。トイレの水回りにも「当時の設備?」と思わせるコックだったりが有りました。詳しいかたならわかるのでしょうね。

お風呂も当然、部屋にはありません。でも、一度に四名くらいは入れるお風呂でした。おそらく昔は木の桶だったのでしょうが、今はステンレス製になってました。

サイクリングをしているので、汗はかいているし、足を延ばせるお風呂は有りがたいです。なので、お風呂は最新のビジネスよりずっと高評価。

食事も夕食は鯛を使ったお料理が出てきました。美味しかったです。今のオーナーさんは料理の経験のあるかただそうです。朝食も和食でこれまた美味しかったです。

それでいて、料金は一泊二食で11,000円とリーズナブルでした。

ロケーションとしては、近くにコンビニとかコインランドリーがないので、事前に準備する必要があります。

 

私がヴォーリス建築に惹かれる理由の一つが、私自身が幼少の頃に通っていた幼稚園がヴォーリス建築だった、という事があります。たしか何かの広報誌だったかでチラッと見たのです。様式などからおそらくそうだろうなぁ~は想像できるのですが、なんせそんな事とには無頓着な幼少期ですからね。

守山市の市役所で市の「守山市史」の教育編を探してみました。(百科事典くらいあります)そこに

私が当時、通っていた幼稚園がヴォーリス建築だったことが分かる資料がありました。良かったぁ~。平面図もあって、当時としてはモダンな建築だったのでしょうね。私の記憶では、ステージがあったのと、ピアノの場所は一段高くなっていたようでした。

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この幼稚園が当時の町内の有志によって建設された事が記載されていました。

通学エリアには後に総理大臣を輩出する酒蔵などもありまして、勝手に想像するには、そういう教育に注力する気風があったのでしょうね。

ありがたい事です。

守山は大阪まで一時間という距離ですから、その後周辺人口は増えていきます。

この幼稚園も駅から近い場所にありまして、受け入れる人数を増やす必要があったのでしょう。残念ですが、増設されて改築。そして今は近くの小学校に同居しています。跡地は現在駐車場なのですが、更地になると「こんなに狭かったんだぁ~」となるのは何時もの事です。