千洋のセカンドシングル『マゼラン』のMV発売に先駆け、その計画の一日目は日南市内のロケハンに費やされた


市内のビジネスホテルに駆け込むと、それからは、ダクションへの報告と打ち合わせが夜明け近くまで続いた



かもめ食堂で千尋と朝食を共にした間、
倫子が洗濯のためにシーツを取り外していた


ベージュ色のマットレスが、開け放たれた窓からの陽射しに焼けて熱くなっている

 

そこから沸き立つきな臭さ ※注(1) が部屋を満たす中を、睡魔に耐え兼ねてベッドに朽ちる



微かに千洋の匂いがした

練乳にエタノール消毒剤を混ぜたような、
まだ幼い頃の千洋の匂いだ


そんな筈もないのだが (笑) 、私には過去の記憶に残された匂いが甦ってきて、現実の匂いに重なることが度々ある



2300gの低体重で生まれた時は、まさか未熟児ではないかと心配したが、千洋は
きゃしゃな体つきな割には丈夫ですくすくと育った


とりわけ彼女の運動能力は群を抜いていて、毎年行われる小・中学合同の運動会が倫子と私の楽しみの一つになった




「パーン」

スターター・ピストルの音が狭い運動場に響き渡り、
トラックの第2コーナーを曲がる辺りで、皆からオオー!と唸るような響どよめきが起こる

 

そしてあっという間に、ゴールで待つ白い紙テープが千洋の胸に触れてヒラヒラと風に舞う

後続との距離が相当あって、皆の驚きの目線が千洋に注がれる



放映には至らなかったが、宮崎のローカルTVからの取材もあって、将来は日本の陸上界を担っていく逸材だと誰もがそう思っていた



ところが、私がかもめを後にした頃から、活発で明るかった千洋は一変して無口で内向的になった

 

6年の秋には、陸上の県大会への推薦もあっさりと断ってしまう始末で、心配した倫子が私によく電話で嘆いたものだ


学校から帰ると、私の本棚をあさってはベッドに寝転がって読書にばかり耽けっているという


私の愛読書には少女漫画が少なからずあったので、
その時私は多分そのマンガのせいだろうと思った


「チロのことや、放っておきない。飽きたらそのうちもとに戻るがね」と軽い調子で返していた



然し中学になっても戻る気配はなかった


一度、こんなことがあった


電話で倫子と近況などを話している最中に、横から受話器を取りあげた千洋が「サキ、今度いつ帰るとね」と言って急にシクシク泣きだしたのだ

私はそんなつもりもなかったが、
咄嗟に「ああ、今から帰るけん待っちょりない」と返事をして、伊比井駅着の最終電車で帰った事がある


倫子からの逐一の報告で、中学に行き出した頃からいじめを受けている事は知っていた


千洋に父親がいないことが原因のようだった


ところが帰ったら帰ったで、私の部屋に鍵をかけたまま出てこない


しかたなく始発の電車で戻ろうと家を出た


すると、伊比井駅の階段を13段上ったあの踊り場に千洋が座っているではないか!

でも黙ったままなので、
私も横に座って何も話さず、ただ千洋の肩を抱いてやるだけしかできなかった


暫くして始発の電車がやってきて、私はまた大阪へ戻った


その朝、倫子が私の部屋のドアをそっと開けて千洋の様子を覗くと、何かのレコードジャケットを顔の横に置いたまま、頬に白く乾いた塩の筋を残しながら私のベッドで眠っていたという


 

本棚には、レコードと、禁じられた遊びやアルハンブラの思い出などが収められたクラシック・ギター集や、ビートルズ、キャロル・キング、サイモン&ガーファンクルなどの洋楽ポップス集やギター習得の題材となりそうな本も少なからずあった

これも後から倫子の電話で知るのだが、私がケースに大切に閉まっておいたTOKAIのアコースティックギターを度々取り出しては、練習に没頭し始めたようだった

そのうち倫子は、隣の部屋から聴こえてくるギターに耳を傾けながら眠りに就いてしまうことが多くなった


そうして、千洋の歌とギターは、日を重ねて少しづつ上達していった


時折その音色と歌声は、倫子がかつて聴いた或りし日の、母親の子守唄のようにも聴こえることがあると聞いた



日南市内の高校に通い始めた頃から、千洋は突然バンドを始めた


それを期に、長く影を潜めていた千洋本来の明るさが復活して、一年前の春にはオリジナルシングル『コペルニクス』を初リリースする


 

『コペルニクス』 ※注(2)

 

作詞・曲 : 甲斐 千洋 ※注(3) 

 

 

夏の海 砂の上

2つの丸い背中

 

遥か遠くで 波がさわぐ

かもめが船を追いかける

 
つないだ手の 指先に
そっと力をこめて
 
君の耳元 頬よせて
サヨナラと泣くふりした
 
青ざめた 君の横顔
ウソだよと笑い返し
 
逃げ出すわたし 追いかけて
瞳かがやく
 
 
流れる雲間に 光が眩しい
君の微笑み 抱きしめて

 

 両手を広げて 風になびかせる

翔び立つ鳥の 羽のように

 


 

潮風のぬくもりに

顔を出すヤドカリが

 

足音聞いて 穴の中

砂を蹴りまたもぐるよ

 
新しい翼広げ
北へ帰るツバメも
 
いつか戻るよと 笑いながら
別れを告げて旅立つ
 
 
満ちゆく月を 追いかけて
欠けゆく月におびえた
 
時はやがて いま巡り
君に逢えたよ
 
 
振り返る空に 夏はもういない
君の面影 抱きしめて

 

両手を広げて 風になびかせる

翔び立つ鳥の 羽のように


 

両手を広げて 風になびかせる

翔び立つ鳥の 羽のように 

 


翔び立つ鳥の羽のように

 

 

 

 2017/4/7 大阪府吹田市近郊にて

 


地元のインディーズ・レーベルがいち早く千洋の才能に目をつけた


飾らず奇をてらわないストレートな表現に好感は持てる


然し、これが難なく著作権を取得したと聞いて、私は正直自分の耳を疑った


著作権の認可には数々の制限がある

音楽業界はもはや殆どの歌詞とメロディーが網羅されパターン化さているから
、ひとヒネリもふたヒネリもしなければならないのだ


そして何気なく、昔、千洋が好きでよく聴いていた一枚のシングルCDを思い出して、本棚から取って聴いた


確か、三つも四つもヒネリのある歌詞だったはずだ


聴きながら、千洋の歌詞カードを頭からなぞってみるうちに..



「あぐっ、」


喉の奥から声が洩れた


今まで全く気がつかなかったのだが、スピッツのヒット曲『ロビンソン』の歌詞と、語呂がピッタリと重なっていたのだ!



ワンフレーズ程度なら語呂の一致はよくあるが、ここまで徹頭徹尾重なってしまう歌詞なんてみたこともない


なのに今まで何故、気がつかなかったのだろう


『コペルニクス』が発売された当初、村では「あのカモシカのチロちゃんが?」と話題になった


然し宮崎市内では全くの無名だったため、約半年間は鳴かず飛ばずだったのが、いきなり全国区で有名になるきっかけが訪れる


それは、あのローカルTVでお蔵入りになっていた小学校時代の徒競走の映像だった


その映像が宮崎市内に支社を持つシューズメーカーの広報担当の目に止まった


CMに『コペルニクス』の歌と千洋が軽快に走る映像が流れた


卒業シーズンを狙ったシューズメーカーの思惑通りに、学生用の運動靴は飛ぶように売れた


『ロビンソン』がスーパーヒットを飛ばした頃、あの曲の題名の由来は何だろうと巷で話題になったことがある

或る日彼はタイ旅行に出かけた


そこでたまたまロビンソン百貨店の看板を見て、取り敢えずこの曲の仮称とした


これが『ロビンソン』という題名の由来だとされているが、正誤は不明だ

本人はこの曲が特別にいい曲だとは思わなかったらしく、地味な曲に仕上がったわりにはポップすぎると感じていて、
当初は別のシングルのカップリングに使う予定だったそうだ


ところが東京のスタジオでのレコーディング中に、メインに据えた曲よりもいい仕上がりになったようで、
バンドのメンバーやレコーディング関係者が絶賛した


そうやって『ロビンソン』という仮称がそのまま使われたという



一年前『コペルニクス』のレコーディングの前日に千洋から電話があった


何かがしっくりこないようで、それが歌詞なのかメロディーなのかその両方なのかも分からないという

私は千洋に迷いが生じているのではないかと思った


世に作品を送り出す直前にはよくそんな迷いが生まれるもので、何度か校正を繰り返すうちに、しまいには何がいいのか悪いのか分からなくなってしまう


「チロのオリジナルなんだから俺には何も言うことはないよ」

何かいいアドバイスをと期待していたにも拘らず、こんな答えではやはり千洋は納得しなかった

仕方なく歌詞とメロディーはそのままにしてコードの一部だけの変更に止めておこうと思った


「キーはAだったっけ?サビの流れる雲間にのところの1小節目のⅣ(D)から、3小節目のⅦm7(C#m7)との間の2小節目。そこのⅥm(Bm)Ⅱ/Ⅰ(E/D)にすると、もっといい感じにならないか?」



電話の向こうで千洋がメロディーをハミングしながらギターでコードの流れを確かめていた

「あ、ホントだ、これがいい!」



『コペルニクス』は、私には、失恋の歌ではないかと思えるし、
意味深な部分はおそらく千洋の想像だろう


無理に作者の真意に沿う必要はないのだから、
自分なりに感じられたらそれでいい


一旦世に出せば誰がどんな境遇の人がこの曲を聴くのかは想像もできない


聴く側に意識を持ち過ぎて校正しだすと切りがなくなって、結局自分の歌ではなくなってしまう


曲が明るめのロック調になっているだけに、聴き手側は惑わされてしまうが
、180度眺めかたを変えると全く逆に見えてくることもある


深読みかもしれないが、このタイトルには『コペルニクス的転回』が示唆されているのではないだろうか


ついでにタイトルの由来を訊いてみたら、千洋らしい実に簡潔明瞭な答えが返ってきた

「な~んとなく」

そんなはずはないだろうと

私は思わず笑ってしまった


でも千洋のその言葉には聞き覚えがあった


そうだ!
それは

高校の頃の、私の口癖だった


「な~」と伸ばすイントネーションまで
そっくりで、それは千洋が生まれる以前のことだから覚えているはずもない



血は争えないと思った



・・・・・・

※注(1きな臭い
衣臭い(きぬくさい)が語源のようです


衣類が焼けるときの臭いとは只事ではないですね!

転じて、戦いや争いごとの兆しを表現する場合にも使われているようです


※注(2) コペルニクス
 架空の歌です


ヤドカリの夢をみたのがきっかけで、そこから1時間くらい練りに練って作ってみました(笑)


著作権は有しませんが、無断で歌詞の全体引用、及び転載は控えて頂きますようお願いします

※注(3) 甲斐 千洋
 架空の人物です


尚、この物語に登場する人物は

全て架空の人物です