「祖国」の何を守るために命を捨てるのか | 徒然なるシニアブログ

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残された人生と生きてきた人生への想い

 

出ました、いつもの川村市長。「表現の不自由展」で高須委員長たちに合流し,

自分の思想に合わない企画展にクレームをつけて、名古屋市の負担金を支払わ。

ないと主張。愛知県と裁判になり敗訴した方です。

この市長が「名古屋平和の日」について「軍人として命を失っていくというのは、祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為であるということは間違いないのね、実は。右翼ではないですよ。世界の常識ですよ、そんなこと」 との発言があったとのことです。

 

「右翼ではない」と言われても、河村市長の言動は、それに限りなく近い言動です。このような市長が「祖国のために命を捨てる」「道徳的行為」とまで言えば、やはり「大日本帝国」を想像しますね。

 

こういう方たちの「祖国のために」というのは、天皇制の復古を願っていて、それはとりもなおさず、「天皇のために死ぬ」ということです。戦後79年、新憲法のもと民主主義を掲げて再出発した日本で、まだこんな政治家がいるなんて信じられないのですが、コアな「保守」は本当に存在します。

 

私は「国のために」と言われて思い出すのは、あの大国アメリカと長年戦ったベトナムです。ベトナムは長い間、フランスの植民地で、そのあとアメリカが自国の植民地にするため介入しましたが、結局ベトナムに負けました。なぜベトナムは勝ったのか。それは、ベトナム人民が「主権」を求めて、自主独立を求めたからです。ベトナムの主権が存在しなければ、ベトナム人は永久に奴隷状態から抜け出せないと理解したからだと思います。

 

このベトナム戦争での人民解放戦の兵士たちの戦死こそが「国のため」の戦死だと思うのです。ベトナム人のたたかいのパワーは「主権の独立」という願いから湧いていたものです。それに対して、日本は朝鮮、中国、東南アジア諸国への侵略、強奪、虐殺、レイプの限りをつくし、戦後断罪されましたが、国として「反省」がないまま来ているために、どうしても河村市長のような人が出てきます。でも、彼らは決して戦場にはいかない人たちなのです。そこを考えないと彼らの「煽り」に乗っかり、自らが死ぬことになるのです。そして、戦場の前線で戦って死んだ兵士たちを「英霊」とたたえながら、自分たちは居間で酒でも飲みながら「同期の桜」でも歌うのです。

 

「国のために」死ぬことの意味が、日本の主権を取り戻し、アメリカの植民地から抜け出すことであるなら、その死も無駄ではないと思いますが、できれば、誰も死なずに平和裏に主権を取り戻すことが出来たらいいなと思います。アメリカはどんな「手」も使いますからね。