いろんな境界線の上を歩いている | 「おーやなち。のおんがくになる?」

「おーやなち。のおんがくになる?」

おーやなち。/病みPOP/ ギター弾き語り/きょうと/ときどき絵の人/ /▼△毎年11月22日は京都ライブハウス都雅都雅にてワンマンライブ開催△▼ JEUGIA京都三条本店様にてCD好評販売中✵✵【公式HP✸http://yamipops.jimdofre】


咳が止まらないので
咳を吐くように言葉を吐くわ!

ゲホゲホ~~突然だけど!
多数派は少数派のことを理解できないと言うと賛同されちゃったり、少数派が多数派を理解できないと言うと非難されちゃったり。って。あるよね。他にも正しい言葉だったとしても、境界線を引いてしまう言葉っていうのもこの日常にはたくさんあって。言葉が暴力的な力をもってしまうのは、何も非難的な言葉だけではなく、肯定的な言葉にもあったりするから複雑。例えば正しいことへの『賛成』を求めた時にも起こったりなんてこと、よく見かけちゃう~。境界線が生まれること、場が敏感になること、それがその暴力さを生んじゃうのかな。
優しさだったりその場を平和にしたかった言葉達が、形を変えてしまうことにとても恐怖を感じるよね。自分の気持ちは自分のもの、人の気持ちは人のものだもん。それを守れるのは自分しかないし。だから発言だっておんがくだって、人を誘導するものはどうしても、う~~んって思うことがある。言い聞かせて得られる同調は自発的に生まれたものじゃないから全てが本心とは思えなかったりするし、心の底には響いてないなって感じることもたくさんある。まぎらわしくてならない~。ってなるとわたしはいつも言葉で示しても本質は伝わらないってところに行き着いてしまう。ステージや姿勢で証明したいと思い続けてきたのはそういうこと。

やっぱり、ついさっきも書いたけど、わたしの感情はわたしのもの、あなたの感情はあなたのもの。多数決で納得させられるものなんて何一つない。そう思うとやっぱり届けたい思いは全て、音楽で、ステージで、態度で、証明するしかないのだ。音楽や態度で伝わらないからコトバで付け足すのはわたしの力不足を認めることにしかならないなって、わたしはわたしを見て感じる。(これは文字には文字の威力があって、音楽には音楽の威力があって、その使い方だけは間違いたくないってお話。)

つまりは、境界線は引きたくない。無理矢理生み出された感情なんて必要ない。音楽は心を解放できるものであってほしいし、亡くしてた心が自然に動くものであってほしい。心がちゃんと動かないと意味がないのだ。わたしが守りたいのは心。心を勘違いさせるための言葉は毒だ。誘導なんてしなくても、賛成なんて求めなくても、ホンモノのおんがくがあれば一つになれるよ。優しい心は、ピュアなままの心は、誰かを傷つけるためにじゃなくて、誰かと生きる為に、そして自分として生きる為に使おうよ。わたしは心の奥底で出会いたいし、音楽を通して本心で会話したいのだ。

言葉を吐くことが行動そのものに見えてしまうのはSNSの力なんだろうな。簡単に吐き出せても、正しく吐き出せないのがSNS。便利って大変だなぁ。

たくさんの境界線が存在しているこの毎日の中で明日も生きねばならないけれど、わたしはわたしの心を、みんなはみんなの心を持っていられますように。…薬が効いてきた!吐く咳も減ってきたのでおやすみなさい。

右と左の境界線。