2024.7.19 更新
レースファンの方々はもちろん、現役レーサーのヒントになるよう加筆・修正しました。
おおきく2つのテーマに分けて、レポートしています。
1,ガレージ湘南 代表のレースヒストリー
2,プライベーターがレースを続けるためのマインドセット
■目次
・日向正篤のレース活動
・創業期のワコーズオイル開発ライダーを務める
・ヨシムラ創業者のアドバイス
・公道レース マカオGP出場
・鈴鹿8耐 唯一のNS400で出場
・柳沢雄造氏のチャンバーづくり
・プライベーターとして大事なこと
・完走時の順位をあらかじめ計算
・ワークスからのオファーを断った理由
・海外でのレース活動
日向正篤のレース活動
国際A級ロードレーサー 日向 正篤(ひゅうが まさあつ)
有限会社ガレージ湘南 代表取締役
MCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)エキスパート500クラス シリーズチャンピオン(1987年-1989年)
鈴鹿8時間耐久ロードレース 15年連続参戦(1983年-1998年)
主に国内外の耐久レースに出場していました。
事務所に飾ってある写真
VFR750R(RC30)やDUCATI 888、Z1、GSX-R750、GSX1000SZRほか
GSX1000SZR 1983年 #65
鈴鹿8耐 初参戦の年
1000cc最後の年で、翌年からレギュレーション変更により、〜750ccとなった。
ホンダモビリティランド株式会社の公式記録によると、1984年は「GSX750」(おそらくGSX750S刀)で出場。
創業期のワコーズオイル開発ライダーを務める
GSX-R750(油令) 1986年 #46
1985年・1986年はGSX-R750で鈴鹿8耐に出場。
ワコーズ(株式会社和光ケミカル)はスポンサー。日向はオイルの開発ライダーを務めていた。
(当時のワコーズは潤滑油メーカーとして創業間もなかった)
そのため日向はオイルテストで富士スピードウェイを長時間、走行していた。
「—あの時の経験が後々、(MCFAJ エキスパート500クラスで)チャンピオンを獲れたことにつながったんじゃないか」
と当時を振り返っている。
MCFAJとは:全日本モーターサイクルクラブ連盟。1958年に発足したモーターサイクルレースの主催団体。
ヨシムラ創業者のアドバイス
話は、日向が本格的にレースを始める前にさかのぼる。
1980年代、レースと言えば「西のモリワキ、東のヨシムラ」だった。
そこで日向はヨシムラにお客として出入りするようになった。
出典:www.motorcyclealliance.com.au/hand-of-god/
ポップ吉村(吉村秀雄)氏
さいわいなことに、日向は吉村氏に直接、エンジンチューニングのノウハウを教わったり、レースに関するさまざまなアドバイスをもらうことができた。
(日向いわく、当時ヨシムラでは、エンジンを洗浄するためだけの担当者がいて、実際にエンジンチューニングに関われるのは一部の人だけだった)
日向は本格的にレースに参戦する前に、ヨシムラでメカニックとしてレースに帯同した。
出典:www.motorcyclealliance.com.au/hand-of-god/
「プライベーターが、いかにしてレースを続けるか」
そのための心構えを、吉村氏から学んだという。
「ウチ(ヨシムラ)だってプライベーターだ。プライベーターは(マシンを)壊したり、転かしたら、だれも修理代出してくれん。だから転かすな、壊すな」
プライベーターとは:レースに出場するスポンサーのいない個人や、バイクショップのこと。対して、バイクメーカーみずから率いるチームをファクトリー(ワークス)チームと言う。
「全日本なんて走っても意味ないぞ」
これも、日向が吉村氏から受けたアドバイスのひとつ。
資金力に乏しいプライベーターが全日本(現代でいうとJSB1000クラス)に出場しても、優勝はおろか、表彰台争いに絡むことは事実上、不可能。
良くて真ん中か、その下の順位になればいいほうだ。
つまり、「中途半端な成績でレースを続けても、スポンサーが付かないから先はないぞ」というニュアンスのことを吉村氏は仰ったのだ。
現代と比較して比較的、景気が良かった時代とはいえ、「来るもの拒まず、いくらでも援助します」なんて奇特なスポンサーはいない。
ほかのライダーではなく、自分を選んでもらうためにはどうすべきか?
吉村氏のアドバイスは、その問いに答えるものだった。
吉村氏の意図を汲んだ日向は、MCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)主催のレースに出場。
エキスパート500クラスで3年連続チャンピオンを獲得した。
たとえば、スポンサーとの交渉時に
「MCFAJのエキスパート500で3年連続チャンピオンです」
「MFJの全日本でランキング18位です」
レースについて、詳しく知らないスポンサーも多いので、どちらがよりインパクトが大きいか答えは明白だ。
事実、絶大な効力があったという。
※あくまで80年代の話なので、現代では時代に合ったアプローチが必要です。
1988年をピークにバブル時代の恩恵で、ふだんはバイク業界と関わりのない企業が、スポンサーになっていた。そのいっぽうで、スポンサーに対して、不義理をするライダー・チームも存在した。
そのため、「二度とバイク業界とは関わりたくない」そう漏らす企業もあったと、日向は述懐していた。
公道レース マカオGP出場
※画像はイメージです
マカオGPとはどんなレースなのか?
マカオ港の国際旅客ターミナル付近の直線道路をスタート地点に、旧市街地を中心に約6kmの一般道を走り抜ける「ギア・サーキット」と呼ばれるコースを使用する。(Wikipedia)
スティーブ・ヒスロップ選手のオンボードカメラ映像
DUCATI 888 #23 Masaatsu Hyuga
マカオGP出場時の写真。
ドゥカティ888は、日向いわく「相性がベストなマシン」。
トップグループのマシンとの最高速度差は、およそ30km/h。直線では追い抜かれるものの、コーナーリングでバトルするという場面が、しばしばあったそうだ。
※当時は2ストローク500ccと4ストの混走だった
「単独走行だと、観ている人たちもつまらない。だから後続のマシンが追いつくのを待って、わざとバトルしていた。ほとんどの人はバトルしてるところを観にきてるから、喜んでくれたよ」
こうした姿勢は、観客にも主催者側にも喜ばれたという。
(後年、日向が監督としてマカオGPに招聘されたのは、こうしたサービス精神も影響していたかもしれない。2001年、日向はマカオGP日本人チームの監督として参戦。結果は1位 故 加藤 直樹選手、3位 小室 旭選手)
残念ながら、888で出走した年代は不明。
1991年はRC30(VFR750R)で出場しているため、888で出場したのはそれより後だと思われる。
1991年 RC30(VFR750R) #23
鈴鹿8耐 唯一のNS400で出場
1987年 NS400 #88
この年、唯一のNS400(オートスタジオスキル)で鈴鹿8耐に出場。
※公式記録ではNS400RではなくNS400の表記になっている
※写真はイメージ(メーカー出荷時のもの)
4ストローク750ccとのトップスピードの差は30km/h。ストレートでは4ストが圧倒的に速かった。
(周囲のマシンはRC45(RVF750)、RC30(VFR750)、YZF750、GSX-R750など)
しかし2スト3気筒の軽量さを生かして、コーナーリングスピードでは、NS400がナナハン勢を上回る速さを見せていた。
とくに1コーナー、2コーナーでバトルした時の歓声は、走っていても、はっきり聞こえるぐらいだったそうだ。
「ホンダの地元ということもあって、ものすごい声援だった」
日向は当時の様子を振り返っている。
プライベーターながら、決勝でいいところを走行していたが、チャンバーのサイレンサーが折れるというトラブルが発生。
マーシャルの方がサイレンサーを拾って、「これ、落ちてましたよ」ピットまで届けてくれた。
通常ならリタイヤだが、なんとその足でレース中に、鈴鹿サーキット近くの街工場へ駆け込み、その場で折れたサイレンサーを溶接して、レースに復帰。
結果的に再度サイレンサーが折れてしまい、リタイヤを余儀なくされた。
柳沢雄造氏のチャンバーづくり
ちなみにこの時のメカニックは、YUZOチャンバーの生みの親、故 柳沢 雄造氏。
柳沢氏は、ネモケンこと根本 健氏(元世界GPライダー)、片山敬済氏(1977年 WGP350ccクラス世界チャンピオン)のメカニックだった人物。
日向いわく、
柳沢氏がチャンバーを製作する際、「溶接した後、チャンバーの中に水を入れて容積を量り、1本1本、計算通りにできているか入念にチェックして造っていた」というエピソードがある。
※注 前出NS400のチャンバーをつくったのは柳沢氏ではなく、8耐で日向のパートナーライダーだった菊池正剛氏
プライベーターとして大事なこと
日向は1983年から1998年まで、15年連続で鈴鹿8耐に参戦。
(引退レースで出場した2005年を含めると通算16回)
鈴鹿8耐で日向が心がけていたのは「とにかく完走すること」。
そのきっかけはスポンサーだったそうだ。
「(どのみちワークス勢には勝てないから)上位を目指そうと思わなくていい。それより完走することが大事なんだ。周回遅れでも、ずっと走り続けていれば、上位勢に抜かれる際、(テレビに)映るだろう。それでいいんだ」
スポンサーに言われて、なるほどと思った日向はリクエストどおり、完走を目指して8耐に取り組んだ。
結果、70%〜80%以上という高い完走率を達成。(当時の平均は30%)
スポンサーにとても喜ばれたという。
逆にいえば、無理して追い抜こうとすると、転倒のリスクが高くなったり、エンジンを壊してしまう。転倒が多かったり、マシンを壊すライダーは、スポンサーにとって好ましくない。
実際、ライダーが自分をアピールするために躍起になると、転んでリタイヤを余儀なくされることが多かった。
※走行ライダーは2名。3名体制になったのは2001年から
鈴鹿8耐 RC30(VFR750R) #23
PIAAレーシング・チーム・マルタ
前出のマカオグランプリ(1991年)に出場したマシンと思われる。
鈴鹿8耐 RC30(VFR750R)
完走時の順位をあらかじめ計算
「予選は通過さえすればいい。順位はこだわらない」
それが日向のスタイルだった。
自分たちのタイムと、周囲のタイム、ピットインする回数と滞在時間などを計算すると、決勝完走時のおおよその順位が算出できる。
実際、ほとんど読みどおりの順位だったという。
(おなじく8耐に出場していたレース仲間は「どうしてわかるんだ?」と不思議そうにしていた)
鈴鹿8耐 RC30(VFR750R)
余談だが、日向のマシンのマスターシリンダーや、ブレーキキャリパーは、ブレーキタッチの好みからブレンボではなく、APロッキード製を使用していた。
(もちろんブレンボを使っていた年もある)
キャリパー1つで、お値段なんと50万円だとか。
ワークスからのオファーを断った理由
ある時、雑誌社をつうじて、ワークスから誘いがあった。
が、日向はオファーを断った。
「自分でバイクを触れない」
それが断った理由だった。
ワークスマシンは、ライダーが自分でマシンを触ることはもちろん、自由に改造することはできない。メーカーが莫大な費用を投じて開発しているバイクだからだ。
「自分で手がけたバイクで走る」
こだわった結果ゆえの判断だった。
現在、旋盤や溶接などの加工を日常的におこなっている日向だが、こうした経験があったからこそ、「走る」「チューニングする」「つくる」の3つができるのかもしれない。
※チューニング:理想とする状態に合わせて調整すること
海外でのレース活動
VTR250(キャブモデル) レース仕様
今回紹介した以外にも、インドや韓国、インドネシアなど海外のレースに出場したり、菅生6時間耐久レースや、富士スピードウェイの耐久レースなど、さまざまなレースに出場。
ネモケンさん、水谷勝さんと組んで出場するはずだった「マン島TTレース」が、突然はじまった戦争で中止になったり、
海外へ輸送したレース用バイクが行方不明になったり、日本でのレース前日にマシンが戻ってきて、そのまま自走でサーキットに行って、そのまま富士でレースに出場したら優勝・・・
なんてことも。
(レース仲間には「お前、なめてんのか」と言われたらしい)
いろんなエピソードがありますが、写真など資料がないので割愛します。
「さすがに(ガチでやる)レースは引退だな」
と話していましたが、
いつか走行会など、イベントで走るかもしれないですね。
ふだんはエンジンのオーバーホールと、慣らし走行&テスト走行に勤しんでいます。
(走ればおおよその馬力を言い当てるため、「人間シャーシダイナモ」と呼ばれてます)
エビスサーキット走行会にて(CBR600F)
有限会社ガレージ湘南
関連記事
最高速290km/h以上のカタナ YOSHIMURA敏腕メカニックとの出会い