23-11-03 ゴジラ-0.1 | ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

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23-11-03 ゴジラ-0.1

本日、初代「ゴジラ」(54年)の公開日を祝した<ゴジラの日>。

ゴジラ69歳、おめでとう。

ゴジラ、数えで70周年にして30本目だという「ゴジラ-0.1」をさっそく、観ました。

いえ、いま忙しいんですよ。母の見舞いと猫と自分の通院。原型の仕上げと次の打ち合わせとラフ原型。宿題にされている企画の下準備のもろもろと。曜日の感覚が分からなくなるほどに。でも箸休めに時間を割かないと先へ進めない気がしてなりません。長くなってしまいました。

観たのは1日、東京国際映画祭のクロージング上映でした。主演2人と監督の舞台挨拶があるためかチケットはすぐ売り切れたそうです。ぼくの席はソフビメーカーの担当氏が用意してくれました。

この映画祭は始まった時からずっとゴジラ映画を扱っていて、中には合成や編集が間に合ってないバージョンもかかって、映画としてはというより、マニアには喜ばれた。この日はでも一般客が9割くらいでした。若い男女ばかり。

舞台挨拶の際に英訳する女性がいて(映画は英語字幕付き)、特別な日のお膳立て充分。でもちょっと長かったな。司会者は、3日からの公開で、今回は一般上映の最速だと言い、(配慮しつつ)宣伝して下さいね、と言われたので、ネタバレしない程度で少し私見を書いておきます。

 

ゴジラ映画って、1回目の「ゴジラ」が大ヒットしたので、シリーズ化して、2作目「ゴジラの逆襲」(55年)が完全な続編だった以外、3作目「キングコング対ゴジラ」(62年)以降は、なんとなく繋がりのあるような世界観で構成されました。

一種のパラレルワールドですね。ファンは面白がって、さらに、ミニラが成長したのがメガロゴジラになったのだと誰かが言いだすと妙に合点がいく。子供というか少年の脳味噌の、夢の部分です。

かつて石上三登志さんが、ゴジラは2作目以降はただの蛇足、と言い切っていた評論の時代に、ぼくらは同人誌を始めるために集まったので、昭和のゴジラへの想いは結束力にさえなりました。つまり世間の、怪獣はお子様という風潮への抵抗です。怪獣映画をなめてかかる大人への反抗でもありました。

その79年、日劇の「ゴジラ映画大全集」に徹夜で並んだ者にとって、マリオンで観る今作も、なんだか感慨深さがあるわけです。老いても少年の脳味噌のぼくらは、永遠にゴジラの味方ですからね。

メーカー氏はとうに試写を観て守秘義務のサインをしたため律義に一切内容に触れてくれなかったので、顔色を見つつ打ち合わせの中でなんとなく想像する楽しみもありました。一方、飲み会では、こうだろうかああだろうかさわぐのも楽しいのです。映画はお祭。ゴジラ映画の実りが豊潤なら特撮界は安泰なのです。

もちろん、いかなマニアでも映画やシリーズ構成に満足しているわけでなくて、映画は美味い酒の刺身。すぐ脱線して、ゴジラが大和と遭遇したら面白いとか、侍の時代にどう戦うかだとか、いやもっと縄文の頃にまで遡ってなどと同人誌の昔からやってきました。

ゴジラ研究の第一人者だった竹内博さんはそんなぼくらをやさしい眼差しで観て、頑固に映画の枠での剛速球の話をしました。ブレのない竹内さんの本はいまでも教科書で宝物です。逆に、安井尚志さんはぼくら寄りで、自由に映画を越えた発想で児童誌をつくった。この2人の影響はいまでも大きく、この映画をどう見るんだろうと帰りの車中で反芻しました。

 

そもそもゴジラは空想科学映画なので、史実や常識なんて外れて良いんですよ。

近場では(いやとうに20年も経っている)手塚昌明監督の「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(2000年)の大阪に首都移転なんてホントつかみはOKの設定でした。女性が主役でまったく違和感がない。特撮というジャンルの振り幅、醍醐味です。

ただ、どうして初代「ゴジラ」の続編にするんだろうと言うのが気にかかる。大河原孝夫監督の「ゴジラ2000ミレニアム」(99年)、金子修介監督の「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 怪獣総攻撃」(01年)も、初代のエピソードありきでした。それぞれの監督にそれは東宝から要望なんですか? と聞いたらそんな事はないと。伊福部昭のメロディも同様にオマージュなのか約束事なのか、当たり前のようで、新時代のシリーズなので余計に取って付けられた感じはしました。

もう少し言うと、先だって日本映画専門チャンネルで綺麗な画面の復活「ゴジラ」(84年)を久しぶりにちゃんと見ますと、たしかに、総理が涙を見せる場面、意地の悪い観客には滑稽に見えるんでしょう。

<もう少し>人間ドラマがあったら、<もう少し>(武田鉄矢などの)サービスショットを短くしたら。まぁそうだなと思いつつ、あの高層ビルの脱出場面がシンドイのはぼくの目にも分かります。

この映画そのものが復活のイベントだったので冗長な部分が切れない上に、昭和のゴジラが大きな枷になった事は事実だったかもしれません。

橋本幸治監督はやさしい好人物でした。ムックをやらせてもらったり、特撮美術の井上泰幸さんによくしてもらったり思い出の映画です。

長くゴジラに関わった人には当然の流れがある。言わなくても分かるだろう、と言う場面や設定がある。

その点、平成VSシリーズは大森一樹さんの登場で流れが変わって新しい世代のファンを育てたと思う。今でも、あのバブルの最中にテレビにかかった大河原孝夫監督の「ゴジラVSモスラ」(92年)のCM「極彩色の決戦」は、目に焼きついたまま。

ぼくらは、円谷英二に挑戦する川北紘一にさんざん魅せられ、期待したんです。

ミレニアムシリーズの始まりの頃は、親子二世代現象の最中でした。子供の頃に怪獣ブームを経験した人たちが大人になり結婚し、子供と怪獣を楽しむ。子供に親が解説するんですね。

良い時代でした。いまもう三世代です。

そうなると、初めて観るファンが増えてくる。初めて見る特撮。先日の観客も大方そんな感じでした。

 

ところで、せっかくゴジラを退治しても映画の終わりに、それでも死んでない、甦るよん、と言うアレは、逆に一般客には映画のお約束なんでしょうが、マニアは、えええまた?となる瞬間です。あんなに面白い「GMK」でもラストの心臓とトートツな伊福部は苦手です。

ゴジラ映画のお約束は、

1、大戸島のゴジラ伝説

2、核実験

3、首都襲撃

という設定やドラマの中の外せない部分と、

4、伊福部昭のメロディ

5、ゴジラの造型デザイン

など音楽や美術という技術の部分にいくつも挙げられるわけですが、アメリカのゴジラ映画ではオマージュの域なのが好感度というか、見易いというか。ゴジラはゴジラなんだから、と言う割り切りですかね。

本来ゴジラは核のエネルギーで変容した怪物だから、そこがないとただの巨大生物で、放射能を吐いたり出来ません。日本ならではの出自なのです。

ぼくのこだわりを少し、まとめておきます。

 

1、大戸島のゴジラ伝説

<呉爾羅>と言う表記は、撮影にあたって事故のないよう、映画がヒットするよう、神主さんが地鎮祭のように祝詞をあげる修祓式の原稿に出て来る当て字です。神主さんが考えたのか、東宝が用意したのかは分かりません。ただ、古事に倣った(ような)漢字表記にされると、そういう生き物がかつて居て、祀られている事にこの現実の時間の中でも心が寄せられる。謂わば、UMAです。妖怪よりも大きな怪物。魔物。怪獣。ここが、ゴジラ映画を科学で割り切らなくても良い切り口となりました。

ゴジラは、ビキニ環礁の海底洞窟に潜み、テリトリーの北限を大戸島にした生き物。時化が続いて不漁となると、島は若い女性を生け贄に出し、神楽を奉納した。つまり、ゴジラは生きる災害で、神仏に対抗する悪魔的な存在でありつつ同時に自然に囲まれた人々にとって魔神として崇め奉る存在。海と山に囲まれた日本的な心情ですよね。八百万の神の中にゴジラが居る。だから英名<GODZILLA>に<神GOD>がアナグラムされているところに合点がいく。

 

2、核実験

それへ、科学の要素が加わる。

核実験の被害者であるゴジラは、全身を被曝し、表皮はケロイドと化し、背ビレは肉をそがれ刺々しさになった。放射性因子を体内に摂り込み、武器にするところまで進化した。

香山滋は、山根博士の国会答弁でゴジラを「海棲爬虫類から陸上獣類へ進化する過程の生き物」と解説しています。ゴジラの特徴です。人智を越える奇跡、脅威的な進化がゴジラの正体です。

「ゴジラVSビオランテ」(89年)で大森監督はゴジラの秘密を<G細胞>として発展させました。ビオランテ、スペースゴジラ、デストロイアと、ゴジラの亜種のような怪獣が登場します。

庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」(2016年)では原典に忠実に、魚類、両生類、爬虫類、獣類の進化をゴジラの形態として見せています。最後はしっぽの先から生まれた人間型。

これはでも、「ゴジラ対ヘドラ」(75年坂野義光監督)のオマージュもあるんでしょうね。ヘドラはもちろん、もう1つのゴジラとしての存在でした。核の放射能よりも公害の方が身近で怖かった時代のものとして。

いずれにしても巨大な生物、怪獣は、アメリカやフランスの核実験なくして有り得なかった。とうのアメリカ映画にたくさん生まれています。蜘蛛、かまきり、いなご、人間。被曝しての巨大、怪獣化。それらはアメリカの力である軍隊に滅ぼされます。アメリカにとって重要なのは自身の正義だけなんです。

日本でゴジラが何度も甦るのは、生物が生物を生かす事のない放射能(放射性物質)によって新たな命を得て進化を促成された。そういう特殊な生態でもあったところへ加えて、土着宗教の神仏のような存在とされた要素が大きい。敗戦国だけが生んだ戦渦の恐怖でもあった事とともに。

夜の海の彼方に点在する町の灯りに引き寄せられたゴジラは光に核爆発の記憶を呼び覚まされた、とされるところに哀しみを覚えます。

どんなに国土を破壊しても、ゴジラを即物的な破壊で葬れない理由がそこに少しはあるんです。

 

3、首都襲撃

ゴジラはなぜ日本に現れるのか? は、時として物語の重要な命題になります。初代は戦後の復興中の東京を一夜にして襲う戦争の悪夢として。

本多監督の戦争感は、前にも書いていますが、ご本人から伺った、足元に不発の焼夷弾が落ちた、というよなリアリティをもっています。

1作目を撮った本多猪四郎監督のスケジュールが合わないため早撮りの名人・小田基義監督に任された「ゴジラの逆襲」は、さらにドキュメンタリー映画のようでした。もう1匹いた、とされるゴジラが灯火管制中の大阪へ上陸、新怪獣アンギラスと死闘を繰り広げて大阪城粉砕。無敵となったゴジラはかつての戦闘機乗りたちの作戦により氷に閉じ込めて悪夢が終わる。

寄ってたかってゴジラが可哀相だとは、試写会での香山さんの弁。

「ゴジラの逆襲」はぼくは野球の雨傘番組で幼少時に見ました。66年、テレビで始まった「ウルトラQ」の虜になったとき5歳でした。翌67年、怪獣ブームの中でNHKが初代「ゴジラ」が放映。「ゴジラの逆襲」はその前に見ています。

その時からゴジラは怖いイメージが固まりました。いまでもたまに見上げると遠くにいるゴジラと目が合って逃げないといけない夢を見ます。地下へ逃げてもゴジラはやって来て、怖くてなりません。

東京大空襲を経験した親たちの記憶が受け継がれているのでしょうか。

続編から6年後、東宝映画30周年記念の8本のうちの1本、大作「キングコング対ゴジラ」では、怪獣たちは恐怖の残像を闇夜に残しつつ、ほぼ晴天の下でダイナミックな娯楽に変貌しました。

ゴジラの復活をさらっと<帰巣本能>にしたところから関沢新一のテンポですよね。厳密には違っても博士の一言で記者たちが納得すればお客さんもそうかと思う。

1作目でゴジラとともに自沈した芹沢博士のパロディのような重沢博士が同じ平田昭彦で登場します。「人間はあらためて動植物の自然に適応する生命力を学ぶべき」だと念を押すので、あんたはもしや芹沢博士だろ、みたいな突っ込みもファンの会話に生まれました。高度経済成長期ならではの大らかでパワフルな風潮が映画に反映された印象です。

なにしろ映画は興行です。東京から始まり、大阪(「ゴジラの逆襲」)、名古屋(「モスラ対ゴジラ」)、博多(「宇宙大怪獣ドゴラ」)、松本市(「地球最大の決戦」)、富士市(「怪獣大戦争」)と列島を回ります。映画館や株主から地元へ来て! と声が挙がったことでしょう。

そこから南の島へ場所を移したのはコストダウンが大きかった。徐々に去りゆく怪獣ブームの中、「怪獣総進撃」(68年)が豪華なのは、これで一区切りと、東宝の20本ものSF特撮映画の総決算だったから。

ゴジラとマンダ、モスラ幼虫が出現した架空の町は、貿易の中心地、センタービルは完成する前の浜松町ですよね。この映画は未来を描いたものでした。ゴジラの写真を焼く東宝アドセンターが浜松町に移って、街道を歩くとああここが!なんて思ったものです。

キラアク星人に操られた怪獣たちが最初に破壊した五大国家。国連の常任理事国、つまりアメリカ、ソ連、中国、フランス、イギリスの五カ国は先の大戦の戦勝国です。国連の無能をちょっと皮肉くっているんです。

1作目「ゴジラ」が神格化しているのは、ゴジラの侵入進路が東京大空襲と重なるから、と言うのはよく言われます。意識があってもなくても、ほぼ戦争体験者たちが作った映画です。反戦のイデオロギーに関係なく、規模や状況を戦争と重ねて考えるのは自然な発想でやり易かったと思います。

ゴジラが皇居の手前で迂回するのは、天皇がどうのというより、壊して絵になるものでもないからかもしれません。いまほど皇室に気を遣っていない時代でしたし。

東京が戦後過密して、たしかに山の手圏内は壊したら絵になるビル街が林立していきますが昭和のゴジラが東京を攻めたの初回と84年だけでした。

その復活「ゴジラ」は1作目に倣って東京湾から有楽町を通った。新宿副都心の高層ビルを目指した理由と言えば、そこに山があるから登るのさと同じ理屈でしょう。国会議事堂を襲った時の理念めいたものはありません。

ただモスラが東京タワーを目指したのは、完成したばかりのランドマークだった事と、芋虫にとって大きな木のようで繭をかけるに適した環境で、あるいはタワーから発信する電波を受けてなのかもしれません。いろいろ考える事が面白いんです。

ゴジラの恐さと黄金期の怪獣映画のパワーで育った第1世代の金子監督ならではの痒い所に手を届かせて、英霊たちが帰ってくる、と言う「GMK」の設定は驚きました。企画で「ゴーストゴジラ」と言うのもあった頃なので、

大戸島の宗教的なイコンだった呉爾羅、生物の進化の特例的な存在ゴジラ、科学から見た核の落とし子ゴジラ、の要素にオカルトや怨念が加わって、むむむと思ったのです。

「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」(03年)では、ロボットのゴジラ(機龍)に、初代ゴジラの骨から抽出したDNAの記憶を演算に使ったがためゴジラの本能が暴走を促した。海に眠る死者を起こしてはいけないと、アンチテーゼを感じさせるアイディアとしては抜群です。

 

4、伊福部昭のメロディ

ぼくらの世代だと、東宝レコードの「ゴジラ」以来、伊福部音楽は人体の一部になった人ばかりです。77年の発売だから46年も前。それまでサウンドトラックを手に入るとしたら、カセットテープレーダーを映画館に持ち込むかテレビにくっつけて録音するわけです。西脇博光さんと竹内さんの尽力で、さまざまなサントラが登場しました。

その2人の構成であの伊福部昭「SF交響ファンタジー」が完成したのでした(西脇さん、デモテープ、いつか聞かせて下さいね)。

その1番がつねに映画の参考にされる。そうそう、今川泰宏監督の「鉄人28号 白昼の残月」(07年)で、伊福部先生のサントラではない、交響曲が使われました。「兵士の序楽」や「日本狂詩曲」、「タプカーラ」「サロメ」など。きっと乗りに乗って選んだんでしょう。ただぼく的には交響曲とサントラは使う意図が別物だと皮膚感覚で感じられてしまう。せっかくの鉄人の映画なのに、と言う気持ちもありました。

そんなわけで、ゴジラ映画で使われる「SF交響ファンタジー」もあまり好きでないんです。サントラはもっとゴツゴツした感じでないと。

「シン・ゴジラ」で新幹線部隊のゴジラ突撃場面に「宇宙大戦争」マーチがかかるじゃないですか。あれは「突撃のテーマ」なので、使用目的に見合っていました。そういう話です。

そもそも「ゴジラ」のタイトル曲は人間側へ向けた応援みたいな意味だそうです。自衛軍(自衛隊がまだ警察予備隊だった頃)が未知の敵、巨大なゴジラへ絶対の防衛目的で命をかけた出撃への応援。

これの原曲は、伊福部が17歳の時に初稿を書いた交響曲「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」の一節でした。2稿とされる演奏テープが同人時代にコピーさせてもらって擦り切れるまで聴きました(実際テープがワカメになった)。

その曲の11分すぎから「ゴジラ」タイトル曲の原型が出て来ます。ドシラ、ドシラってやつ。これを映画で最初に使ったのが松竹映画で金語楼が主演した「社長と女社員」(48年)。喜劇的な奮闘劇なんでしょうね。見た事がありません。どれもYouTubeで見つかります。すごい時代です。

伊福部昭:協奏風狂詩曲(第2稿)

https://www.youtube.com/watch?v=4AC7f91Vj4k

「ゴジラ(1954)」の原曲?

https://www.youtube.com/watch?v=NklvxiHk6sE

ゴジラ メインタイトル

https://www.youtube.com/watch?v=-l23MSAlXxc

伊福部先生のインタビューによれば、いつの間にか人間と怪獣が逆転して、ゴジラの曲となってしまった、と言うのがありました。

昨今、映画館は映像だけでなくて音響設備も大きなセールスなので、音に驚かされます。音楽、効果音。さらに揺れたりミストが出たりするそうですが、ぼくはそっちは未体験。いやサンリオのゴジラで体験しましたか。あの時代とは比べものにならないでしょう。

「ゴジラ-0.1」ではさてどうか? と言う点ですが。結果はご覧じろ、ですね。迫力は最大級でした。

 

5、ゴジラの造型デザイン

どうしても「ゴジラ-0.1」は、「シン・ゴジラ」と比較されます。庵野監督と山崎監督の並びも絵になります。同世代に乾杯です。

「ゴジラ-0.1」を見た庵野監督、山崎監督に「銀座、銀座、銀座!」と興奮して口にしたそうです。舞台挨拶で、英訳の人も同じ回数「GINZA,GINZA,GINZA!」。

昭和のゴジラは、前年「キングコング」の漫画を新聞連載していた阿部和助がイメージスケッチを描いたのが最初とされます。

原爆のキノコ雲を模した顔。小松崎茂が描いたマタンゴもキノコ雲そのままでしたね。

戦後9年目のビキニの核実験に日本人がショックを受けるのは当然です。広島、長崎に継いで3度目の被曝を日本人がした。

特撮美術を総括していた渡辺明は、有名なブリアンの古生物本の絵からイグアノドンやステゴザウルスを参考にしたと答えていました。

それらの資料をもとに、造型の利光貞三が雛形を起こす。

鱗のゴジラに始まってイボイボの鱗のゴジラ、そして鰐の表皮のゴジラで落ち着いた。雛形は利光さんの趣味の彫刻のようで、縫いぐるみが完成しても手を入れていたとは助手を務めた開米栄三さんの述懐です。

前に書いた記事があります。

初代ゴジラの雛形

https://ameblo.jp/gara999/entry-12412892867.html

たしかに、縫いぐるみのゴジラも正面下から見上げると頬がふっくら。キノコ雲の名残りを感じます。安丸信行さんにも伺いました。「利光さんのゴジラはキノコ雲なんだよ」と。

怪獣王の道を歩きだした二代目ゴジラは被曝の呪縛を解放しましたが、「モスラ対ゴジラ」の冒頭で発見される台本では<ゴジラの牙の破片>で、放射性因子を帯びていました。あの虹色にキラキラしているのって放射能の表現なんですね。背ビレの青白い発光は「キングコング対ゴジラ」でははっきり「チェレンコフ光」と言っています。原子炉の光です。

シン・ゴジラは上の項目で書いたように、海棲時代に始まって、上陸を目指し、次に二足歩行に変態する。進化を異常促進する。ヘドラの成長期のあとがどうなるのか見られませんでしたが、シン・ゴジラは終わりのない進化をするのか? 

かつてぼくは角川書店で「絶対ゴジラ主義」と言う本を書いてその中で進化の分析をしてみました。キングギドラなんて地球のあちこちに残る龍の伝説から作られた怪獣ですからね。(関沢の弟子である金城の)ウルトラマンやベムラーと同じ、光体生命が地球へ来て生物や生物の思考の形を模して実体化したと考えても面白い。二足歩行は俳優の都合ではなく、人体が理想の形だった・・・。

その説の蛇足に「ゴジラ」を見た水木しげる先生の話を加えました。これ、小学館で84年の「ゴジラ」のムックをやったときに実際、水木先生に書いてもらった記事からの抜粋です。曰く、ゴジラを攻撃する人間が、逆に人間ゴジラにされてしまう。

ゴジラ人間ですね。カネゴンみたいな見せしめのニュアンスなんでしょうが、ぼくは進化のてっぺんに人間が居るのがおかしいと思いつつも、弱肉強食の自然界で武器を携えることで地球生物の生態系のトップに躍り出た人間の愚かさを暗喩として水木先生が捉えた事に感嘆したんです。そこでゴジラに人間が重なった。

ゴジラはま、中島春雄さんの体形なんですが。でも大戸島伝説に祀られた天狗の面を思うと、呉爾羅が人間の変容でも良いのかもしれません。仏を護る神将たちにすごいのが居るじゃないですか。有名なのは伐折羅大将です。あの造型に、利光さんのゴジラも近いように感じていました。いちばん近いのは婆羅陀魏さまでしょうね。仏像の方の。

初代ゴジラも人の顔の変容に見えます。神に近い印象です。

決して進化の歴史に敗れて絶滅した恐竜の子孫じゃないと強く感じました。神になり損なった生物がゴジラだと。

ぼくはあいにく読んでいませんが、佐野史郎さんが香山滋に傾倒して大戸島伝説のゴジラを小説にしていました。きっと、そういう受けとめ方は少なからずあるんでしょう。

 

庵野監督がアニメと特撮オタクの代表で天才型なら、山崎監督はオタクとは違う自主映画出身の努力する秀才型。「ALWAYS 三丁目の夕陽」(05年)を挙げるまでもなく東宝(配給)の優等生だと思います。

「シン・ゴジラ」の企画は東宝内で不人気で分厚いシナリオにダメ出しが出た。そこでセリフを早口で時間内に納めたデモテープを提出した。試写を観ても偉いさんたちは破天荒な庵野監督に眉をしかめたそうです。

ただ、東宝映画の社長から日本アカデミーに移っていた平成ゴジラの生みの親の富山省吾さん(いまだに富Pと呼んでしまいそう)の弁に寄れば、ゴジラに足りないのは「エヴァンゲリヲン」観たさに集まる女性客。つまりエヴァ女子をゴジラ映画に動員できないかと言う狙いがあったと。

映画畑の人はあのシナリオは認めたくなかったでしょう。でも当たっちゃったんだから、誰も文句は言えません。

ぼくあの画づくりは面白く緊張感に惹かれます。ゴジラの狂ったようなまなこもスゴイ。「ゴジラ-0.1」の最大の敵は「シン・ゴジラ」だったと思うんですよ。

庵野監督の「シン・仮面ライダー」(23年)を観たときに惹かれたのは若者たちの一途さでした。悪も正義も精一杯生きている、尖っている部分に若い人が共感した。オジサン世代は、昭和ルックスのルリ子が切なくて(いや、背伸びして悪びるしかないヒロミも切ない)。

浜辺美波って誰だ!と思いましたよ。興奮さめやらないところでNHKの朝ドラ「らんまん」が始まった。浜辺さんの寿恵子がまた良いのです。どこが惹かれる理由だろうと毎回楽しみにしました。

「らんまん」の万太郎と寿恵子がそのまま「ゴジラ-0.1」の主演だと、そのとき知っている人は関係者のみです。モブシーンのロケに参加した一般の人から情報が漏れなかったのは守秘義務を守ったから。

パーティ会場から逃げだし万太郎の元へ走ってくる寿恵子のドレス姿を見た子供が「ユウガオのお姫様だ」と言う回。そりゃそうだろ、東宝のシンデレラだからな。とニンマリしました。

庵野監督は、東宝のカレンダーを見て浜辺さんを起用した。

司葉子、星由里子、そんな東宝ヒロインの系譜に浜辺美波がいるんですね。

少しだけ、ネタバレにからむ事を言うと。

今回の浜辺さんの演じる典子という名前が亡くなった親友と同じ名前なので、なおさら感情移入せざるを得なくなりました。ゴジラ映画で涙が出たのは本作だけです。

しかし、子供にはつらいかな。

東宝がもつ<明るく楽しい>を大きく逸脱するゴジラの猛威。金子監督も手塚監督も、怖いゴジラで育ちながら、やはり東宝の社風の枠に収めた。

山崎監督は思い切りましたね。野暮な突っ込み対策も万全のかまえを感じます。

好みで言うと「シン・ゴジラ」よりも本作の方が人間ドラマはしっかり伝わりました。オマージュも丁寧に塗り込められている。

生きるのに精一杯な戦後直後の話なので、エロティックな要素は鬱陶しくなりますから、なくて良かった。安藤サクラのおばさんが、どつく。あれ、性的な接触ですよね。

ゴジラが野獣のような動きをするので、美しい震電の飛来は女性的で対比を見せました。

ひねくれているぼくには1つ2つ言いたい事はあるんですが何度か映画館で観て楽しむのが先です。これはお金を払わないといけない映画です。

見た目より動いているゴジラは魅力的でした。ザキゴジと言うとカッコイイですよ。マイナスとかマイナって、なんだかアレで。

 

ところで蛇足。79年のゴジラ復活のムーブメントの際。「月刊マガジン」でゴジラが読み切りのマンガにされて、海上のタンカーへ呼び寄せて固定、船ごと東京湾へ沈める作戦がありました。海から生まれたものは海へ帰す暗喩。

でもそういう人間の知恵を越えてゴジラは何度も甦る。次のゴジラも知恵比べになるんでしょう。

 

典子のあれ。ゴジラの印をもらったと言う解釈なのか。ゴジラの進化はまだまだ続く。山崎監督に川北さんが望んでやまなかった「地球防衛軍」を撮ってもらいたいです。