小橋法彦(川守田游)さんのこと | ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

主に仕事に関わる、特撮、怪獣がらみのブログです。
ときどき、猫が登場します。

小橋法彦(川守田游)さんのこと

もしSNSがなかったら、縁遠くなった知り合いの訃報なんて届かないかもしれない。あるいはそのままの方が幸せ? 50を過ぎると結婚式の招待より葬式の報せが増えるのは本当です。

医療の進歩で高齢化に拍車を掛けると言われますが、われわれの世代はどうなんでしょう。

いまの高齢者に比べて粗食の時代がなかった事に加え添加物で育ったわれわれ。ましてやオタク業界の底辺に居れば独身は当たり前、貧困にあえいで食はどんどん悪くなり、高血圧に糖尿病は避けられません。

うちは猫たちがいるからまだまだ大病は御免こうむりたい。いや事件も事故もノーサンキュー。魔が差さないよう神仏に頼んで強く思うんです。あと10年、あと15年と。

毎月の集まりも、貧乏している仲間とガンバローと言い合うし、生存確認なんて笑いつつ、かなり現実的なのです。みんないつまでも元気で居て欲しいです。

 

今年に入って2月に上松辰巳さんの訃報が来て、昨日は小橋法彦さんの訃報を目にしました(亡くなったのは春先だとか)。

2人とも、20代の頃に親しかったともにモデラー兼ライターで、つまり自分と同種類の怪獣仲間でした。

モデラーは有機溶剤を日常的に使いますからね。血管が萎縮して血圧が高くなる。食生活も悪いですし徹夜も続いた。若い時は無茶苦茶でした。

2人はともに女の子フィギュアやガンプラの名人でした。

そののち上松さんはタスクフォースという会社を作って、プラモデルを出していました。最後は警備の仕事をしていたとか。

小橋さんはモデラーは完全に足を洗ったようでした。かといってライター業は出版不況で仕事自体が少ない。

そのことはよく分かるので、みんなどうしているんだろう? と、いつも思うのでした。

亡くなった2人の健康がどうなっていたか、経済状況は、など分かりようもありません。昔を思い出すだけです。

上松さんとは20年は会ってなかった。栄進堂と言う玩具会社が出資したパイロットフィルム「アイアンデューク」(88年)を作って以来です。

その頃の上松さんと共通の友人たちとも長く会う事のなかったのですが、フェイスブックで再会しました。彼らとの話題に上松さんどうしている? が出たばかり。

風の便りに、彼のお母さんが数年前に亡くなったと聞きました。お母さんッ子だったから、後を追ってしまったのか。

小橋さんは同じ市内に居たのにどんどん疎遠になっていった。

報によれば6年も前に故郷の長岡に帰っていたのだとか。メールも電話も不通の理由がそれでした。

上松さんは自宅だったのと仕事があったようでまだ良いとしても、小橋さんはどうだったのか、胸が痛みます。

そうはいっても、今世紀に入って彼と会ったのは1、2回です。

2003年ぐらいからぼくは引きこもりになりました。打ち合わせ以外は人と会う機会を作らないのでした。

転機は、あの11年の東日本震災の頃で、やるせない気持ちと、生きたい気持ちとで、公園に残された猫の世話を始めたのです。

猫は公園から引き上げたし、毎月の集まりをやるようになって、ぼくの方は余裕が戻って来たのに、彼とは連絡が取れないままでした。

 

小橋さんは、シニカルで、厭世的で、偏屈で、多弁で、おかしくて、やさしいところがあって、とても楽しい人です。初対面だとたしかに取っつきにくいかもしれない。機嫌の悪さが顔に出ます。

でも頼れる人で、若い頃はよく長電話をしました。

意外と女性の友人がありました。変人風情さえ自重すれば結婚だってチャンスはあったでしょう。

一人暮らしは独り暮らしと書くように、孤独です。

彼が三鷹住まいしていた時は、近所の野良猫を部屋へ入れて可愛がっていました。猫をわが子のように自慢して写真を見せてもらいました。

でもその猫は若くしてリンパ腫で亡くなった。心の支えだったでしょうに。

喘息持ちなのにヘビースモーカーでした。

やめないのかと聴けば早く死ねるからいいんだと。

死因は分かりません。

80年頃、彼は専門学校があった蒲田にいました。地元の模型屋さんと仲が良く、常連とモデラーの会をやっていました。

蒲田はうちから近かくて駅周辺を小橋さんと意味もなく散策して遊んだものです。古本屋、玩具屋、デパート、喫茶店。

たまに蒲田を通るとそんな事を思い出します。

ホビージャパンでガンプラの改造を初めてやったのが小橋さんで、表紙を飾った事もあり、ぼくが紹介した安井さんの「コミックボンボン」でも作例をやっていました。

小学館でやったゴジラのジオラマを手伝ってもらった以降、それぞれ進む道が違っていきました。ぼくは建築模型の会社へ入ってしまって、本に関わらなくなった。

数年後、また個人で仕事を受けるうちに本作りに戻って、怪獣本のネームなど頼みました。

小橋さんはホラーが好きで映画評を書いていました。好きが高じて秋田書店の「サスペリア」で心霊写真を判別する霊能者の兒島慈慧先生を担当するようになって、同行させてもらった事もあります。

「刑事コロンボ」が一番のご贔屓で、小池朝雄の口まねをよくしていました。ゲストを吹き替えた田口計さんへ取材も出来て満足げでした。

「インベーダー」も好きでしたね。もちろん、日本の怪獣も。

とくに声優にはうるさいんです。あの知識を本にまとめれば良かったのに。

川守田游名義で、小説の執筆や本の原作、アニメやゲーム、ヒロイン特撮ものの脚本も書いています。

けっして歩むのは早くはないのだけど、しっかり自分の足で地に着き、地道に仕事をこなしていたと思います。とはいえ、不摂生はひどかったな。

模型は丁寧に作るのに、生き方は器用はでなく、意地っ張りな面もありました。こういう結果になって言葉も出ないままです。

お疲れ様と言うしかありません。

 

 

追記。

もし、分かる人が居たら連絡を下さい。

小橋さんの実家、小橋さんが入院していた病院、など。

 

 

 

・小橋さんの仕事の一部。川守田遊名義。

 

 

・ホビージャパン別冊「HOW TO BUILD GUNDAM」(81年)の表紙が小橋さんのガンダムでした。

 

 

・小学館でやった絵本、ゴジラのジオラマを手伝ってもらいました。ヘドラの目を描いてもらいました。

 

 

・講談社の「テレビマガジン」で久保さんがデザインした<ゴーグルキャノン>を作った際にマーキングをしてもらいました。