Bin's Photo Collection 4
ウルトラマン
1960年代。時代は映画からテレビへ移ります。皇太子の成婚、東京五輪、さらには宇宙中継、アポロ計画。テレビの即時性が時代を映しました。
そのころ映画人口は、62年頃にピークを見せて、折り返します。
かつて映画会社はライバル会社へ人材を引き抜かれないように五社協定を(六社時代もあった)結んでいました。これが今度はテレビに流れないよう内容が変わりますが、歯止めは利きません。
映画が産業として停滞することで、映画会社自らもテレビ進出していきます。
そんな中で、円谷プロが制作を始めました。
「ウルトラQ」は当初は東宝から人材が出向します。そこへTBSの人材が加わって、テレビドラマとしては異例の贅沢な作りになったのです。
放映前から「ウルトラQ」はヒットする、と答えが出ていました。
そこで放映が本決まりになると、すぐに新企画が検討されます。「科学特捜隊ベムラー」(レッドマンに改題、ウルトラマンとなる)は、輸出を前提にカラー番組で制作されました。
ウルトラマンは日本が生んだ最大最高のヒーローだと思います。
成田さんのデザイン、佐々木さんの造型、ビンさんの演技。
映像は総合芸術と言われますが、現場の人は決して芸術なんか気取らない、力仕事、汚れ仕事。みんなの汗の結晶。脚本も演出も音楽も、どのパートが欠けてもブームは成立しなかったでしょう。
それでもあえて言うと、子供が手にするウルトラマンの人形は、成田さん、佐々木さん、ビンさんの3人の功績が詰まっています。
それにつけても少年、青年と成長していくビンさんが東宝の社員となり、ウルトラマンへ辿り着く奇遇。すごい縁と運だとしか言いようがありません。もし、ビンさんがメロドラマの主役をこなしていたらウルトラマンは有り得ませんでしたし、ぼくらとの繋がりもなかったでしょう。
俳優として幸せなのは当たり役がある事です。
果たして仮面のヒーローはビンさんにとって何だったんでしょう。
最初ですから苦労は当然としても、最初というのはものすごい事なんです。誰もやった事がありませんから。
最初にして最高の答えを出した。これがウルトラマンです。
ビンさんが東宝芸能学校時代に習得した日舞。ぼくはスペシューム光線の左手の反りは日舞の指先の美しさから来ていると踏んでいます。
あるいは、少年のビンさんが憧れたジェームズ・ディーン。「理由なき反抗」のナイフをもってかまえる喧嘩のポーズ、ビンさんのたっての願いで採り入れられました。
ビンさんはウルトラマンを単なる宇宙人としてではなく、自分の憧れを投影させたんですね。あのかがんだ姿勢の真似を、ぼくらもさんざんやりました。
どれも、無駄な事なんてなかったんですね。
また、動物が好きだったビンさんが、ウルトラマンが怪獣を殺してばかりじゃつらいですよ、と言った言葉に、金城さんが返した脚本が、ヒドラとウーのエピソードでした。
子供時代に本当に良い物を見せてもらったと思います。